CHAPTER.7
《7》
シエン・リンガイアは一度だけ、「星主になんてなりたくない。リエンがなればいい」と父に言ったことがある。頑固だが滅多に怒ったりしない父が、そのときだけは唇を震わせながら彼に歩み寄ってきた。確か二三歳の頃だったと思う。怒りというものの化身がいるとすれば、それはこのときの父だったのだろう。シエンはあまりの恐ろしさに足がすくみ、頭の中が真っ白になった。
父は延々と、この星を治めてきた先祖の話やら、王族としての誇りの話やらをした。前の年、父はワボールに執政における全権を委任していた。言わばこのときの父は、全ての力をワボールに奪われた敗者だった。シエンにも、それくらいのことは理解できた。星主という肩書きには、もう何の権限も威信も存在しない。だが、ガイエンは怒った。彼の口から紡がれる言葉は、何か必死で自分という存在を主張しているように思えた。
シエンは、掴まれた肩の痛み、知らない男の顔をした父の表情に圧倒され、ほとんどその話が耳に入らなかった。「これが運命なのだ」と、全世界を代表しているかのように繰り返す父。うんざりだった。こんな家に生まれたばかりに、理不尽な「運命」とやらに一生を台無しにされると思うと、泣きそうだった。父は完全に、息子を存在する意味の希薄な〈次期星主〉としてしか教育しなかった。
そんなシエンに手を差し伸べるのは、いつも母だった。
学校の成績で、弟のリエンより下の成績を取ってしまうと、まず待っているのは、焼けた石のごとく怒り狂う父の叱咤だった。「次期星主として」、「私の後継者がこんな調子では」父の口から出る言葉は決まっていた。そんな父の影に隠れながら、母はいつも苦笑いをしていた。決して、助けてはくれなかった。後で二人きりになったとき、初めて慰めの声をかけてくれるのだった。大して慰めにもならない母の話を聞いていると、何だか落ち込むのも馬鹿らしかった。
母は決して、王族としてシエンを怒ったり褒めたりしなかった。愛すべき夫であり、星主である父に面と向かって逆らうことはできないが、せめて息子に接するときだけはと考えていたのかもしれない。立派な王族になる前に、歴代星主と比較しても見劣りしない人物になる前に、母にとってシエンは、自分がお腹を痛めて産んだ息子でさえいてくれればよかったのだ。
弟は優秀だった。勉強も運動もできたし、何より、王族としての誇りに満ちていた。星主継承権で及ばない兄に負けないよう、シエンの全てを超えようと努力した。実質的な能力においてシエンを凌ぐようになっても、彼はそれををやめなかった。それはシエンにとって、嫌味でしかなかった。一番厄介なのは、弟に、悪気は微塵もないことだった。ただ純粋に、兄に追いつきたい一心なのだから。彼を邪険に扱うのは簡単だった。しかし、シエンはそうしなかった。もう何も学ぶことのないはずのシエンに、「兄さん兄さん」となついてくる、自分と瓜二つの弟を、退けることなどできなかった。
なぜだろう。
あれほど鬱陶しかった家族の顔が、何よりも先に頭に浮かんだ。
メアの中心、落下した隕石を囲うようにして存在する、第一自治州へ向かう列車の中。ひたすらクレーターの中心部へと伸びる道の上で、シエンは遠くを見ていた。
敷かれたレール。俺はそれをずっと走ってきたのかもしれない。けど、それ以外の道はあったのか。結局、俺は他の道を選んだとしても、そこにまたレールを敷いてしまったんじゃないか。俺はマリアルに「一個人として扱ってほしい」って言ったけど、本当の俺って、誰なんだろう。俺はマリアルに、どう扱ってほしかったんだろうか。
シエンは隣の座席を見た。ついてくると言って聞かなかったフィナが、安らかな寝息を立てている。長旅だ。もう四時間は列車に乗っている。
フィナに直接尋ねたわけではないが、ハルファスに助けられたときに赤ん坊だったとしても、現在の年齢は五〇代前後。シエンより年上ということになる。いくら成長の遅いリンガイアンでも、この年齢でこの容姿は異常だ。恐らく彼女は童魄なのだろう。メビウスはアシュリィという具体例が身近にいたから驚かなかったが、童魄を見るのは、資料以外では初めてだった。
彼女もまた、生まれながら十字架を背負ってきたのだろうか。まだ幼いうちに両親を殺され、頭の上の輪魄のせいでリングレスには迫害された。身内も友達も、ハルファスだけだった。ワボールによって敷かれたレール。フィナはその上を走らされ続けてきたに違いない。今日、それを確かめなければならない。怖いけれど、そうするしかなかった。
「……だってそうだろう? もうそれしか俺には、レールがないんだ」
開け放たれた窓から吹き込む風に、シエンの言葉は飛ばされた。遠くから見ても巨大だった隕石が近づいてくる。それはまさに、大地の臍だった。
メアの全州長とワボールの会談が行われる議場は、隕石をくり抜いて建造されていた。一枚岩から削り出したレリーフや柱は、見る者の心を奪い、シエンやフィナもその例外ではなかった。正体を隠すために、シエンは帽子を目深に被っていた。大した変装にはならないかもしれないが、リンガイアではもう死亡したとされている自分が、突然ひょっこり会談へ乱入しようものなら、場は大混乱に陥るだろう。必要最低限の変装は、しておくべきだと思った。
列車を降りた瞬間、警備の目が異様に厳しいことに気づいた。そこかしこに紺の制服を身に纏った男が立ち、周囲全員が敵のような目で通行人を睨んでいる。さすがに七三ある自治州の州長が一同に会し、なおかつリンガイア側のトップが同時に集うだけあって、第一州は厳戒態勢だった。
議場に向かう道中、シエンはそうした視線を始終気にしてしまった。何も悪いことはしていないはずなのに、心の隅でくすぶる猜疑心が、彼の顔を俯かせた。空は厚い雲で覆われている。一雨来そうだった。ハルファスは一州へ到着してから、ガイアタングをほとんど話さなくなった。シエンとフィナは黙ってこの先達に従い、余計なものは見ずに、大きな背中だけを見ていた。
シエンの心臓は、ハルファスと話した夜から休むことを忘れたように脈動し続けている。自分はどうするべきなのか、明快な答えなど出ないまま、こうして首脳会談の現場までのこのこやってきてしまった。ミアを屈服させ、余勢を駆ってメアへと乗り込んできたワボールたち。このどうしようもなく大きな臍が、最前線だ。規則的に歩みを進める、自らの足先に視線を落としながら、シエンはどこかで事態はきっと好転すると考えていた。根拠などなかった。ただ、今まで散々忌み嫌ってきた〈次期星主〉という肩書きが、胸の中で輝いているように感じたのだった。
気づくと口が勝手に歪んでいた。笑顔とも、苦悶ともとれない表情が自然とできあがってしまい、シエンは思わず手で顔をくしゃくしゃにこすった。手が、冷たかった。
「しえん」呼ばれると同時に、右手が握られた。包帯は少し前に取れたばかりだったので、また激痛に襲われるのかと反射的に見開いた目を、それに向けた。しっとりと湿ったフィナの手で、彼の右手は握られていた。不安げな表情。目尻が下がっている。子どもたちに「化け物」と呼ばれたとき、シエンに見せた表情に似ていた。彼女は自分が悪いと言った。まだ幼かったフィナは、環力研究所でリンガイアンが起こした事故を知っているのだろうか。確かめる勇気を、シエンは持ち合わせていなかった。代わりに、精一杯彼女の手を握り返し、微笑んだ。
「大丈夫」
シエンは言った。
「大丈夫。きっと、全部うまくいく」
本心だった。
シエンの思惑とは裏腹に、問題は議場に入る前に起きた。ハルファスの使用人として会場内に侵入するつもりだったが、入口で警備員に脱帽を求められてしまった。入口はひとつ。三人の後ろにも、長い列ができていた。警備員はリングレスのようで、わけの分からない言葉が次々と聞こえてくる。しかし、催促されているというのは、シエンでも理解できた。沈黙したまま固まったシエンに、警備員の訝しげな視線が注がれる。
こうなることは、予想できただろう!
シエンは心の中で、隣に立ったまま無責任に見つめてくるハルファスに、そして自分自身に叫んだ。顔を隠したまま、国の重要施設に入れるわけがない。迂闊を通り越して、自分の馬鹿さ加減に腹が立った。先ほどまでの根拠のない自信が、水をかけられた火のようにしぼんでいく。背後がざわついてきた。議場の内部から、他の警備も次々と出てくる。どうしてこうなってしまうんだ。最短で事態を収拾できるのに、どうしてこんな序盤でつまずいてしまうんだ。フィナは微かに震えているようだった。進退窮まる。シエンは唇を噛み、そっと帽子に手をかけた。
「何があったんです?」
聞き慣れたガイアタングが聞こえた。ハルファスのように、外国語として覚えたものではなく、生粋の、ネイティブの発音。そして、シエンが幼い頃から聞いてきた、声。シエンは弾かれたように顔を上げた。首にバネでも仕込んであったのかと自分でも思うほど、急激に視界が混濁し、焦点がずれた。そして次に彼の目が見たのは、紛れもなく、最後に会った近しい者だった。
「アシュリィ!」
脊髄反射的に、その名を口にしていた。呼ばれた当人は、見知らぬ地で名前を正確に発音されたことに驚いたのか、はたまた、それを耳に馴染んだ声で叫ばれたからなのか、とにかく、淀みのない動きで、真っ直ぐにシエンの方を見た。そして、無言で駆け寄った。久しぶりに見るアシュリィの頬は紅潮していた。艶めいた唇が開かれ、吐息が漏れている。何を言ったらいいのか分からない様子だ。シエンも、完全に帽子を脱ぎ去ってしまってから、自分が何も言えないことに気づいた。周りの喧噪だけが大きくなり、警備の者も、何がどうなっているのかまったく把握できていない。
目を丸くしたまま、何も言うことなく向かい合った男女は、ぴくりとも動こうとはしなかった。
「シエン、王子……殿下? 本当に……王子なのですか?」
アシュリィの声は小さかったが、騒音に掻き消されることなくシエンの耳に届いた。「ああ」力強く答えたはずだったのに、喉からは掠れたみっともない音がこぼれただけだった。だがそれで、アシュリィには十分だった。普段の彼女なら絶対にしない行為。シエンの鼻孔をくすぐる、ずっと包まれていたい匂い。彼女はシエンに抱きつくと、そのまま泣き出した。衆人環視など、少しも気にすることなく。アシュリィの抱き締める力は強く、シエンは息苦しさを感じたが、黙ってその肩を抱いた。髪を撫で、「ごめん」と囁く。
「私、王子とガイエン様が拉致されたって聞いて……さっきまで話してたのに……そんなはずないって……。小型船で捜索に出たら……客船がいきなり爆発して……。もう何が何だか、分からなくて……。リンガイアへ戻ったら、ネリス様は倒れてしまって……リエン様は、リエン様は……」
「ごめん、心配かけた。でも俺はこうして生きてる。だからもう大丈夫だ。こんな馬鹿げた戦争は、もうする必要はない。今日だって、ワボール長官にそれを言いにきたんだから」
消えかけた火が再び燃え上がる。
今なら何でもできそうな気がした。抱き締めたアシュリィの温もりは、シエンの体に新たな活力を生んだ。
「何事だ!」
大勢の部下を引き連れた男が、奥から出てきた。その男にも、シエンは見覚えがあった。勇猛果敢で知られている、ウロヴォルスの切り込み隊長。あの日、パーティー会場でアシュリィと同時に発砲した男だ。
「ヴォルグ! ヴォルグ・カーンだろう?」
先陣を切って走ってきたヴォルグは、シエンの声を聞いた瞬間に立ち止まった。そして、疑惑と驚愕の入り交じった目を向ける。反応はアシュリィに似ていた。しかし、それはどこか違った。ヴォルグがシエンに向ける目は、アシュリィのそれとは決定的に異なった。シエンは思い出そうとする。こんな、眉間に皺を寄せて、実態を見極めようと隅々まで、矯めつ眇めつ対象を見るのは、どんなときだったか……。
「シエン……様? まさか、シエン王子殿下? そんな、馬鹿な……!」
「心配をかけたな。早速で悪いが、俺を長官のところに案内してくれないか。色々と話したいことがあるんだ」
我に返ったのか、アシュリィはぱっとシエンから離れた。
「い、いや、しかし……。あなたが本当にシエン殿下かどうか……」
ヴォルグは狼狽して言った。射撃のときは猛禽のそれに変貌する目は、シエンを正視することができない。
「何言ってるんですか隊長! 一刻も早くワボール長官にお知らせしましょう。それに、これ以上この場で議論を交わせば、混乱はいたずらに拡大するだけです!」アシュリィが胸を張って主張した。軍服の上からでも、豊かな胸の曲線が強調される。
ヴォルグはちらりと周囲に目を遣った。確かに、あちこちでシエンの存在に気づいた者が現れているようだ。「分かりました」ヴォルグは言った。
「大変失礼を致しました、王子殿下。こちらへおいで下さい」
踵を返すヴォルグ。その額に浮かぶ汗は、誰も知ることなく拭われた。
シエンはハルファスに目配せする。
「ここまで来れば、もう私がすることはないだろう。真実をミキワめ、その先をどうするのかは君シダイだ。行きたまえ、次期星主殿」
ハルファスはそう言って、それきりシエンを見ることはなかった。シエンはフィナに「大丈夫」ともう一度だけ言ってヴォルグの後を追った。アシュリィも続く。三人に道を譲らない者はいなかった。シエンの心は、一歩歩むごとに昂揚していく。和平への道。今、こうして歩んでいる廊下こそ、自分が次期星主として歩むべき王道。かつて一度も思い描いたことのない将来の青図が、彼の脳裏に明滅した。
「マリアル様もいらしてるんです」
アシュリィが嬉しさを精一杯噛み殺して告げた。
「王子が私を置いて死ぬはずない、絶対にそんなことはないって、今回の会談にご同席なさるんですよ。きっと喜びます。私が保証しますよ」
「……ああ」
マリアルの、何も映さない瞳が頭に浮かんだ。同時に、先ほど自分を見つめたヴォルグの目が何に似ていたのか、思い出した。あれは、怖いものを見る目だ。恐ろしい何かを、朧で正体の掴めない虚ろなものを、ただ漠然と恐れたときに現れる目線だ。
そうだ、俺が、マリアルの目を見るときの……。
フィナに石を投げた子どもが、俺たちを見るときの……目、だ。
【続】