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CHAPTER.4


《4》


 リングレス国家のひとつ、メアへは、リンガイアで一番速い船を使っても四日間の旅だった。マリアルよりずっと手強かった、父ガイエンをやっとのことで説得し、シエンはこうして船の客室で海原を眺めている。快く同行を奨励してくれたのは、ワボールだけだった。「将来的に、リングレスたちと国交を持つようになれば、今回の会談に同席していた事実は大きなプラスになる」と言って、一緒にガイエンと話をしてくれたのだ。リエンもついて行くと言って聞かなかったが、危険な旅であることには変わらず、そこはどうか我慢してくれとシエンは弟に頭を下げた。


 空は珍しく曇っていた。リンガイアでは、圧倒的に快晴が多い。連日熱線を放っている太陽が、せっかく隠れているというのに、シエンはどこか憂鬱だった。


 王子として、次期星主として……。その心意気に、どうして誰も賛同してくれない。何か間違ったことを言っているか? 相応しくないことを言っているか? そんなはずはない。シエンは小さく首を横に振った。


「分かっているさ、俺には何の力もないことくらい。王族の無力くらい。でも、それでも誇りを守ろうとしてるじゃないか、俺は!」

「お、王子?」


 不意に背後で響いた声。シエンの両肩がびくりと震えた。


「……無礼だぞアシュリィ。きちんとノックくらい――」

「何度もいたしました。出港以来、船室にこもってらっしゃるみたいでしたから、様子を見に来たんです。それで反応がないので、何事かと思って入ってしまいました。申しわけございません」


 衣擦れの音。アシュリィが頭を下げたのだろう。今回の旅に、彼女もウロヴォルスとして同行していた。仕事は専ら、王子の警護だったが。シエンは黙り込む。何も次の言葉が頭に浮かんでこなかった。


「お悩みですか」アシュリィが訊いた。

「別に……」

「マリアル様ですか」


 こういうときのアシュリィは、驚くほど勘が鋭い。図星を突かれたのが悔しくて、シエンは再び沈黙した。


「ケンカでも?」

「違う」窓の外で、波しぶきが跳ねた。「何も、なかったから悩んでるんだ」

「何も……?」

「ああ。マリアルはすんなり俺を許してくれた。気をつけてくれって。それこそ、死ぬほどリングレスが嫌いなはずなのに、俺を止めてくれなかった」

「まるで止めてほしかったみたいな言い方ですね」


 シエンははっとした。アシュリィに向き直り、まじまじと彼女の目を見つめる。軍服に身を包んだアシュリィは、どこか憮然とした表情だった。


「止めてほしかった? 俺が? 違う、そんなことない!」

「じゃあ、よかったじゃありませんか。ケンカにならずにすんだんですから」

「……マリアルは、俺のこと、どう思ってるんだろう」


 今度はアシュリィが仰天した。しかし努めて顔には出さない。


「俺の意思には逆らわないって、まるで従僕みたいなこと言うんだ。何だか、少し、ほんの少しだけ、気味が悪――」

「私がどうにかできる悩みではないようですね。失礼させていただきます」


 早口にそう言うと、アシュリィはさっさと踵を返した。


「お、おい、アシュリィ?」

「そんな悩み、知恵熱出るまでおひとりで考えてください」

「……? 何怒ってるんだ?」


 アシュリィは歩みを止め、さも難儀そうに振り向いて肩をすくめた。


「天然で鈍い男と、鈍い男のフリ(・・)をしている男がいます」

「?」

「前者は周囲をヤキモキさせて、後者は周囲をイライラさせます」

「何の話だよ」

「……王子は、両方(・・)、ですね!」


 吐き捨てるように言うと、アシュリィはさっさと行ってしまった。残されたシエンはわけも分からず、ただ呆然とする他なかった。アシュリィの機嫌が斜めな理由は見当たらないが、どうせ生理か何かで気持ちが不安定なのだろう。こういう場合は、下手に刺激しない方が得策だ。


 シエンは自分自身にそう言い聞かせ、視線を窓の外へ流した。相変わらず曇天である。「前途多難だな」意識せず、言葉が漏れた。船の振動は、さながら揺り籠のようにシエンを包む。太陽が出ていないので、目が刺激されることもない。薄暗がりは次第に、彼の意識へ侵蝕を開始した。


 どれくらいの時間、椅子にもたれていただろうか。シエンはふと瞼を開いた。うたた寝をしていたらしい。室内は変わらぬ静寂が支配しており、窓の外も目に優しい灰色だ。しかし、意識がはっきりしてくるにつれて、奇妙な違和感がシエンの背筋を這い上がってきた。何かがおかしい。先ほどとは違う。周囲を見渡す。対面の空席、小型冷蔵庫、空調、有名画家の絵、通路へのドア、テーブル、自分の体。変化はなかった。それでは、この感覚はどこから来る?


 掻痒感に似たものに、いてもたってもいられなくなる。シエンは立ち上がった。同じ体勢で座っていたのが災いし、下半身の関節が軋んでいるような鈍痛が襲う。構わず通路へ出ようとドアノブに手をかけたところで、シエンは気づいた。自分を眠りへといざなった揺れが、消えている。慌てて引き返し、窓に張り付くようにして外を覗きこんだ。波しぶきは見えない。海面はただランダムに波紋を描き続けている。船は碇泊していた。


 メアに到着したのなら、誰も呼びに来ないのは妙だった。何か航海に問題でも発生したのだろうか。じっとしていればいるほど不安は募ったので、シエンは船室から出ることにした。今度は躊躇なくドアを開け、狭い廊下に出る。ぎょっとした。部屋を出てすぐの床に、真新しい血痕がべっとりと付着していた。しばらくシエンは、部屋と廊下の境界から出ることができなかった。誰の血かは知らないが、こうしている場合ではない。シエンは血溜まりを避け、廊下に一歩を踏み出した。


 時折ぎしぎしと船体が軋むが、それ以外の音は皆無だった。シエンははす向かいにあるアシュリィの部屋をノックした。何か特別なことがない限り、彼女はここに常駐している。アシュリィ自身が言ったことだから、間違いはないはずだ。しかし、返事はなかった。まだ何か事件が起こったとは決まっていないのに、シエンの頬を冷たい何かが伝う。鼓動を、喉の奥に感じた。


 操舵室へ急ぐ。船室からはかなり距離があったが、そこに誰もいないということはありえない。少なくとも、操舵室に辿り着くまで、シエンはそう考えていた。

そこには舵を握っているはずの船長はおろか、航海士、クルーの影すらなかった。呆然と入口に立ちすくむシエン。事態の認識を放棄した頭に、なぜだか幼い頃に聞いた童謡のメロディが鳴り響いた。


 正面の巨大な窓の外に、遙か雲井の果てまで伸びた断崖が見えている。リンガイアでは考えられない大きさだ。断崖は終わりを見せず、水平線の彼方まで伸びていた。途方もなく高い山が、突然眼前に現れたようだ。


「……あ」


 ほとんど自動的に喉の奥から声が漏れる。シエンは吸い寄せられるように甲板へ続くハッチを開いた。途端に冷たい空気が流れ込む。思わず身震いした。万年高温の地域に生活するシエンにとって、寒い(・・)、と外に出て感じたのは初めてだった。両腕で体を抱き締めながら、張り詰めた空気の中へ足を踏み入れる。絶壁が、少しずつ自分に覆い被さってくるような気がした。


「ここが、メアなのか?」


 シエンは呟くが、もちろん答えてくれる者はいなかった。

 いつの間にか小雨が降り始めていた。肌寒さが一層強まった気がして、体が勝手に震える。空から注ぐ無数の水滴が小型の波紋を幾重にも刻み、海面はシエンが見たこともないほど騒がしかった。


 数歩進んだところで、左耳のすぐ近くに何かが弾けたような音がした。驚いて首を回す。だが、視線には黒ずんだ海しか映らない。今度は後ろから炸裂音。先ほどより大きい。振り返る。強まった雨脚。無人の操舵室が亡霊のように存在している。シエンの全身が総毛立った。正体不明の音に囲まれ、自分は広い海原に独りきりだった。前髪から雫が落ちる。シエンはそれを目で追う。甲板に、小さな何かが落ちていた。僅かに煙が上がっている。醜くひしゃげた鉄の塊だ。シエンはそれを見たことがあった。誕生日の夜、リングレスの男に降り注いだ鉄の雨。そして、一発自分に撃ち込まれたもの。


 大きく心臓が拍動する。瞬間、背後で凄まじい轟音が巻き起こった。振り向く勇気はない。シエンは走り出した。音が追ってくる。金属音と爆発音、そして彼自身の悲鳴。それらが交錯し、降りしきる雨が厚い膜を張る。足が滑り、盛大に転んだ。その間も、音はシエンを襲い続ける。這うようにして甲板に積んである貨物の影に滑り込むが、ばらららら、と重く連続的な爆発がすぐさま物陰を排除してしまった。鱗魄(スケイル)も、許容範囲を超えた衝撃はガードすることができない。荷物に火薬類でも積まれていたのだろうか。炎を吹き上げて砕け散った破片が、シエンに降り注ぐ。吹き飛ばされ、船縁に腰をしたたか打ち、脳髄まで沁みるような痛みを味わった。経験したことのない激痛をこらえながら立ち上がろうとするが、下半身に力が入らない。腰が抜けてしまっているようだ。歯を食いしばろうにも、口は開きっぱなしで閉まらない。かちかちと自然に歯が噛み合わされ、規則的に震える。喉の奥からは絞り出された呻き声が漏れた。突然、右腕が自分の意志に反して跳ね上がった。一拍遅れてやってくる稲妻のような熱。腕を確認している余裕はない。この場から逃げないと、恐ろしいことが起こる。それだけは不思議と分かった。空っぽの頭には同じセリフしか浮かばない。


 逃げろ。


 無我夢中で甲板を逃げ回ったが、それは猛獣の檻で弄ばれる小動物も同然だった。あちこちに傷を作ったシエンは力尽き、船の先端に倒れ伏す。口の中は血まみれのはずなのに、激しい乾きを感じる。自分の血が雨に流され、木目を滑っていく。ぼんやりとそれを見つめながら、こんなに血を流したのは初めてだと彼は思っていた。


 ディストーションが激しい周囲の音。大半は耳障りな雨音だった。黒ずんだ雨は、左目の視界四分の一ほどを浸していた。全てがノイズ化した純粋な世界に、ばしゃりと別のノイズが走った。シエンはゆっくりとそちらに眼球を向ける。このまま目を閉じた方が、どれだけ楽だろうかと思った。しかし、これから自分を殺すであろう者を少しも見ずに死ぬのは癪だった。


 靴が見えた。厚い靴底のブーツ。更に視線を上げる。雨に濡れ、ぴったりと足に張り付いているズボン。色彩感覚が失われてきた。どんな色なのか、判別できない。それなのに、構えた銃の色だけは輝いて見えた。白銀の、銃口。奇妙な形の銃だ。そんなもの一発で、俺を殺せるとでも――。


 引き金が引かれた。シエンは目を見開いたままだ。しかし、待てど暮らせど銃弾は発射されない。永遠に近い一瞬がシエンを流れた。早く撃ったらどうだと口に出そうとしたとき、左胸から全身にかけて、一斉に痛み(・・)という名の衝撃が迸った。「か……ぁ……う!」もう寸毫も動けないと思っていたのに、シエンはその耐えがたい苦痛にのたうち回った。涙が溢れる。胸が痛い。


 痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い!


 狂ったように視界に入りこむ光景は、脳を経由することなく拡散していく。この痛みを鎮められるのなら、胸を引き裂いて心臓をえぐり出すことも厭わない。シエンは本当に胸を掻きむしる。キーン、と耳鳴りが意識の彼方から近づいてきて、彼に聞こえる全てとなった。世界は轟音に包まれた。




 これまでに一番大きな爆発が、船体を激震させた。シエンに銃を向けていた人物は大きく足を開いて、崩れそうになったバランスを保つ。爆心地を見ると、雨の中、操舵室が黒煙を上げて燃えていた。もう一度シエンを向く。彼は目を見開いたまま動かない。既に死の間際であることは明らかだった。光を失った眼球がこぼれ落ちそうになっている。開け放たれた口からは、唾液なのか雨水なのか分からない液体がこぼれていた。念のためとどめを刺そうと銃を構えたが、そのトリガーが引かれることはなかった。


 爆発によって上空に舞い上がった船の残骸が、付近に落下し始めたからだ。大人数人がかりでやっと持ち上がるような破片が、一面に降り注ぐ。甲板を貫通し、船の原型を次々と壊していくものもあった。慌てて飛びのき、撤退命令を出す。そこかしこに隠れていた仲間が姿を現し、駆け出す。ある者は物陰から、ある者は炎の中から、一斉に海へと飛び降りていった。再び爆発。本格的に攻撃(・・)されているようだ。これ以上ここに留まるのは、得策ではない。自分も海へ退避しようとして、不意にシエンが気になった。背中越しに、今一度振り返る。直後、後頭部で何かが弾かれた。びくりとする。衝撃から推測するに、直撃したら頭部が吹き飛ばされるほどの質量を持った破片だったのだろう。甲板には、元が何だったのかさっぱり分からない鉄屑が転がった。既に水浸しとなった甲板を蹴り、海へとダイブする。残されたのは沈没寸前の船と、一部始終を眺めていた(・・・・・・・・・・)シエンだけだった。





【続】

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