8.6番、レフト、中村葵
8.6番、レフト、中村葵
合宿2日目。 午前中は守備練習。内野のカバーリングを中心に練習する。
初日は内野への打球に対する動きをそれぞれが頭の中に叩き込んだ。
とっさの判断と、実際の動きがどうかは別の話として、カバーリングを忘れた時は「しまった」と気がつくくらいに“理屈”理解していた。
この日は外野へ打球が飛んだ時の動き方を試してみた。 初日に引き続き、中学校の野球部員がランナー役で協力してくれた。
昇はまず、ランナーを一塁に置いて、レフトにフライを打ち上げた。 レフトの中村葵が一歩も動かずに取れる位置へ。
ランナーはすでにハーフウェイまで来て打球を見ている。落球しようものなら、すぐに二塁へ走るつもりだ。
ショートのアリスがカバー及び中継のためにレフトの方へ走ったのでセカンドの後藤恭子が二塁ベースカバーに入った。 センターの沢井圭子はレフトの後方へ回り込んでカバーに入った。
中村葵は打球が上がった瞬間は後ろに下がったり、前に出たりしていたが、どうにかフライをとることができた。
ランナーはゆっくり一塁へ戻る。 それを見たアリスが「カムバック!」と叫んだ。 葵はアリスにボールを放った。 アリスは一塁へ矢のような送球を送った。 慌てたランナーは一塁へ滑り込んだ。 すると、ファーストの森野佳代子はボールを後ろにそらした。
その送球に対しては誰もカバーにいってない。
「あっ!」
ライトの藤田典子は思わず天を仰いだ。 昇は一度プレーを中断してみんなを集めた。 そして、またホワイトボードを持ってきた。 徹底的に基本を叩きこむつもりだった。
葵は最初、打球の落下地点を予測するのに苦労していたが、昇が少しずつ定位置からずらしながらノックをして行くうちに次第に、安定した動きをするようになっていた。
「お嬢、葵ちゃんって経験あるんですかねえ?」
昇は里美に聞いた。 里美は首を振った。
「分からないけど、どうして?」
「フライは横に走るより、前後の判断が難しいんですよ。 これは天性というより、経験がないとなかなか身に付かないんですけど」
午前中の練習が終わって、昼食の時、昇は葵の聞いてみた。
「葵ちゃんって野球とかソフトボールの経験があるの?」
葵は首を横に振った。
「ううん、ちゃんとやったことはないけど、小さい頃からおじいちゃんに連れられて野球を見に行ったことは何度もあるわ」
「へ~、そうなんだ。 それって、芝生の外野席とか…」
「そう。 どうして分かるの?」
「外野で、フライが上がるたびに、ずっと打球を追いかけていた」
「そう、そう!」
「なるほど!」
葵は小さい頃から、外野で生きた打球をずっと見てきた。 知らず知らずのうちに経験を積んでいたということだ。
午後からはバッティングの練習を行った。
第一段階として、バットを振らずに、ストライクかボールの判断だけをさせた。 最初は由美子がスピードを加減して投げたボールものけぞってよけていたのが、最後までボールを見極めることができるようになると、「好きなコースだけ振っていいよ」と言ってバットを振らせた。
昇はこれで各々のクセと技量を分析した。 アリスと由美子については今さら言うことは何もない。 里美は大いに問題があった。 スイングは男顔負けの鋭い振りをしているが、選球眼がなく、来た球はどんなクソボールでも降ってしまう。 当たれば外野を超えそうだが、今のままでは100球に1回といったところか。 しかし、昇が注意すると、「100級に1回でもホームランなら文句はないでしょう」と聞く意味を持たない。
逆に1・2番コンビの弘江と圭子はボールをよく見るし、スイングは弱いが確実に当てることができる。 得点源の由美子とアリスの前を打つには理想的な仕事ができそうだった。
葵は低めのボールにめっぽう強い。 しかし、スイングはゴルフのようなアッパースイング。 昇は非力でバットが重く感じているのかと思ったが、話を聞くと、OLになってから6年間、ゴルフを続けていると言う。 正しいスイングを覚えたらそこそこの戦力にはなりそうだった。
葵の祖父、中村寛は20年この町の長会長をやっている。 三人の息子は大学に入ると家を出てそのまま自立して、めったに家に寄りつかなくなった。 末っ子の一人娘だけが、ずっと地元で一緒に暮らしている。 地元出身の区議会議員、中村陽一と結婚し、葵が生まれた。 結婚しても名字が変わらなかったのは、偶然、相手も中村だったからだ。
孫は全部で9人いたが、いちばん後に生まれた葵をいつも連れて歩いた。 葵の父親は都議会を経て、今では参議院議員として地元の期待を背負っている。
寛は、プロ野球よりも高校野球が好きで、地元の高校が出場する試合は地方大会から練習試合まで足を運んだ。
葵の母親が陽一の秘書をしていたので、ほとんどの時間を葵は祖父の寛と過ごした。 寛は葵を遊ばせるために、外野の芝生席で野球観戦することが多かった。 打球が上がるたびに空を見上げ、ボールが飛んだ方へ元気よく走って行く姿を見ていると、「男の子だったら、絶対、野球の選手にしたのになあ」と思っていた。
両親の希望もあって、小学校から私立のお嬢様学校へ進んだ葵だったが、男の子のように活発に育った。 高校からは女子高に通い、大学も日本で一、二を争うお嬢様学校に入学した。 成績も優秀で女優のようにきれいな顔をしていたので、就職した商社では秘書室に配属され、社長のお供でゴルフを始めるようになったのだ。
練習が終わると、みんなで銭湯へ行き、汗を流した。 それから夕食の支度をした。 食材は、この日も美千代が用意しておいてくれた。
食事が終わると、葵はアリスのそばへ駆け寄った。
「ねえ、アリス。 素振りをしたいから、スイングを教えてもらえないかしら」
「オー! アオイ。 ヤルキガデテキマシタネ」
すると、他のメンバーも「私にも教えてちょうだい」と寄って来た。
そんなやり取りを嬉しそうに見ていた昇はひと足早く切り上げた。 女ばかりの合宿所に男一人で泊まり込むわけにもいかず、昇だけは毎日通っていた。 それに、『高瀬屋』の方も日曜日以外は営業しているので朝のうちは店に出ていた。
1時間全員で素振りをして、みんな汗をビッショリかいた。
「もう1回お風呂に行こうか」
佳代子が言うと、みんなも頷いた。
宿舎を後にした昇が向かった先は、居酒屋『本丸』。 暖簾をくぐると、順一と正春がいた。
「よう! お疲れさん。」
順一が声をかけた。 昇は軽く手を上げて応えた。
「若旦那、ひとつ相談があるんですけど」
順一と正春は怪訝な表情を浮かべたが、昇の話を聞くと、目を輝かせ、頷いた。
「そりゃあ、面白そうだなあ」