3.1番、サード、川島弘江
3.1番、サード、川島弘江
昇は例によって、パソコンの画面にデータを打ち込んでいた。
取り合えず、守備位置は決めたが、あくまで、現時点での暫定的ポジションであることには変わりはない。
先日の初練習では、守備練習の後、バッティングもやってみたが、やはり、まともにバットを振れるのは由美子とアリスだけだった。
これでは打順云々というところまで考えるレベルではない。
「お嬢はなるべく早い時期に一度どこかのチームと練習試合をやりたいと言っていたけど、そのレベルになるのはいつのことだか…」
レクレーションで楽しむ程度ならどうでもいいが、試合に勝つチームを作ろうと思えばポジションもそうだが、打順も重要なのだ。
「3番柳井由美子、4番アリス・マーティン、5番お嬢のクリーンアップはほぼ決まりだな。 とりあえず、それだけでも大きいな」
以外と、歳の割に走るのが早くて驚いたのはPTA会長の川島弘江だった。
話を聞くと、中学・高校で陸上の短距離をやっていてインターハイにも出たことがあるということだった。
それに、守備練習の時のガッツといい、他校の男性PTA会長とも真っ向からやり合う負けん気の強さ。
現在もPTAバレーボール部で主将をやっているだけあって運動神経もいい。
「1番は会長がいいな」
川島弘江は、この町で生まれ、この町で育った。
旧姓は佐藤といって、普通のサラリーマン家庭だった。
小学校からずっと同じクラスだった、『三河屋』の長男と結婚して三人の子供がいる。
一番上の子供が小学校5年生の時、PTA会長を引き受けて、既に5年。
今、二番目が小学校6年、一番下の子が4年生に在籍しているので、あと2年はこの小学校でPTA会長を続けるそうだ。
初練習を終えた次の日、弘江は店で、キャンペーン商品のディスプレーについてビールメーカーの営業担当と打ち合わせをしていた。
しきりに右手を回したり、二の腕のあたりを揉み解すしぐさを見せていたので、営業マンはニコッと笑って弘江に聞いた。
「女将さん、またバレーボールですか?」
弘江もニコッと笑って答えた。
「違うのよ。 野球を始めたのよ。 女性だけの野球チーム」
「へ~! 女性だけのですか?」
「そうよ。 応援してね」
そういうと弘江は若い営業マンにウインクをして見せた。
彼は、ポッと頬が赤くなるのを隠せなかった。
42歳。 三児の母。 酒屋の女将。
普通に街を歩いていれば、とてもそんな風には見えない。
整った顔立ちで、特に目を引くのがキリッとした目元だ。
セミロングの髪を真ん中より少し右側から分けてストレートにしている。
普段はジーンズに白いブラウスというのが定番スタイルなのだが、学校の行事などでスーツを着た時は、どこかの企業の女性セレブ社長に見えるほど凛々しい。
間違いなく、この下町の町内では一番の美人なのである。
ガキ大将だった『三河屋』の長男、川島信行が弘江にだけは頭が上がらなかった。
弘江たちが小学校6年の時、北海道の小学校から転校してきた男の子がいた。
体も小さかったが、しゃべり方が方言のままだったこともあり、クラスの中でいじめられていたのだ。
硬派を気取っていた信行はいじめには加わらなかったが、面倒くさいと言って、敢えて止めさせるようなことまではしなかった。
ある日、見兼ねた弘江がいじめをやめさせようと立ち上がったところ、弘江もいじめに対象にされそうになったのだ。
弘江に好意を寄せていた信行は、さすがにそれは見て見ぬふりはできなかった。
「お前らいい加減にしろよ! 黙ってみてれば卑怯なことばかりしやがって! いくら温厚な俺ももう我慢できねえ」
そう言うと、その場にいた全員男女かまわずビンタを食らわせたのだ。
その日の夕方、信行の両親が学校に呼ばれたのは言うまでもない。
そんなことがあったものの、ビンタを食らった子供たちの親も事情を知ると、逆に信行に「よくやってくれた」と感謝したものだった。
人情が厚い下町ならではのエピソードである。
それ以来、弘江と信行は公認のカップルとなり、現在に至る。
初練習をやった翌日、弘江は由美子と一緒にスポーツ用品の量販店に来ていた。
道具を揃えるためだ。
昨日の練習は、里美が勝手に持ち出してきた“殿キン”の道具を使った。
当たり前だが、使いにくかった。
それで弘江は、思い切って一式自分のものを揃えようと考えたのだ。
由美子は自分もソフトボール用のグローブを使っていたので買い替えるつもりだと言っていたので、一緒に買いに行くことにしたのだ。
わざわざこの店まで来たのは、ここでアリスが働いていたからだった。
アリスの口利きで、元プロ野球選手だったという店長がいい品を格安で、提供してくれた。
弘江は早速、新しいグローブをつけてキャッチボールがしたいと言った。
由美子は時計を見て頷いた。
「今なら、ちょうど里美さんがコーチと特訓している頃だから合流しましょうか?」
「ええ! お願い」
『高瀬屋』の裏の小さな公園で里美は昇とキャッチボールの特訓をしていた。
この日は、大輔も一緒に練習に付き合った。 間もなく昇もやって来た。
どこから調達して来たのか、昇がピッチングマシーンを1台持って来たのだ。
「どうしたの? これ」
「まあ、ちょっとした知り合いがいてね」
「ふ~ん」
「それより、お嬢、キャッチャーやるんだろう? だったら、今日はこれを使う」
そう言って、昇はピッチングマシーンをセットした。
そして、大輔をバッターボックスに立たせ、里美に構えさせた。
マシーンからボールが放たれる。
数球続けて里美は、難なくキャッチした。
次のボールが放たれた。 昇の指示で大輔がわざと空振りをした。
ボールは里美のミットには収まらず、プロテクターを付けた腹に当たった。
里美は思わずうずくまる。 そして、昇を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
「なるほど! そういうことね」
「そういうこと! これが取れなかったらキャッチャーはできないよ」