10.8番、ライト、藤田典子
10.8番、ライト、藤田典子
アメリカ。 オクラホマ州議会のとある執務室。 外線電話を秘書が取り次いだ。
「上院議員、電話です」
バースは受話器を持ち上げ電話に出た。
「ハーイ! クロウ。 久しぶりじゃないか。 今、日本にいるんだって? ちょうど良かった。 ノボルから連絡があって、もう一度“殿キン”と試合をすることになったんだ。 日本にはいつまでいるんだい? …そうか! じゃあ、一緒にプレーできるな。 その前にノボルの友達のチームで助っ人なんだが … OK! 日本に付いたら連絡するよ」
1983~4年、阪神タイガースで活躍したランディー・バース。 同じ時期に読売ジャイアンツで活躍していたウォーレン・クロマティ。
二人は日本に来る前、メジャーリーグのエキスポズで同僚でもあり、野球を引退した今も交流が深い。
バースはクロマティがプライベートで日本にいることを知り、“Oh!oku”の助っ人の話をしたのだ。 昇に内緒で驚かそうと考えたのだ。
クロマティは快くバースの申し出を承諾した。
合宿4日目。 最終日の5日目には地元の少年野球チームと練習試合をするため、事実上、今日が最後の合宿練習となる。
午前中の前半は個別ノック。 内野ノックはアリスに任せて、昇は外野ノックに専念した。 センターの圭子とレフトの葵は草野球レベルなら恥ずかしくないほど上達していた。 それは、元々センスがあったからだと言える。 しかし、ライトの藤田典子の場合はそうはいかなかった。
通常、ライトはめったに打球が飛ばないということで、多少、技術的に難があるプレーヤーを配置することが多い。 今の“Oh!oku”はまさにそんな感じだと言える。
“殿様キングス”にはスイッチヒッターも含めて左バッターが4人いる。 否応なしにもライトへ飛ぶ打球は多くなる。
今までの日曜日ごとの練習で、ボールに追いつくところあでは行くのだが、いざ、捕球するとなると焦って落球してしまう。
「藤田さん、落ち着いて取れば大丈夫だから」
それは本人がいちばんよくわかっているはずだが、何かきっかけがあるといいのだが。
藤田典子は、小学校の教師をやっている。 地元の出身ではないが、10年前に、高校で国語の教師をやっている夫、誠一との結婚を機にこの町に引っ越してきた。
勤務する学校は地元の学校ではないのだが、子供が通っている小学校ではPTAの活動にも積極的に参加している。 したがって、この度、“Oh!oku”に入ったのも同じPTAで活動を共にしている会長の弘江、副会長の圭子の誘いがあったからだ。
典子は小さい頃から、学校の先生になるのが夢で大学の教育学部へ進んだ。 大学に入ってから、アルバイトをしながらピアノ教室に通った。
両親はサラリーマンに父に専業主婦の母。 ごく普通の家庭でふつうに育った。 決して裕福ではなかったが、不自由を感じたこともなかった。 成績は中の上。 中学校くらいまでは大勢の中に一人といった感じで決して目立たない子供だった。
高校に入った頃から本格的に教師を目指して勉強を始めると同時に、子供に対する接し方などを学ぶために、福祉ボランティアなどの活動を行っているサークルに入り、学校の近くにある保育園や幼稚園で子供たちに接する機会があればこのんで顔を出すようになった。 次第に、活発になってくると、同級生にも人気が出てきた。
そのころから、長い髪をポニーテールにするようになった。 そのポニーテールは今でも変わらない。
夫の誠一と知り合ったのは教師になってからだった。 図書館で同じ本を同時に取ろうとしたのがきっかけだという、絵にかいたような出会いだったという。
午前中の後半は、守備位置についてのノック。 ランナー役の中学生はこの日も来られないため、状況を仮定してのノックを行った。
練習終了後も、フォーメーションやカバーリングの仕方について、由美子とアリスが中心になってホワイトボードでの講習やクイズ形式で応答で動きがかなり徹底されてきた。 急造チームでこれだけの動きができるようになれば言うことはない。
「あとは実践を積むことだ」昇はこの合宿で目指していたものの90%は達成できたと思っていた。
午後からはバッティング練習を行った。 由美子やアリスが投げるボールを2球に1球は当てることができるようになった。 しかし、それでは“殿キン”との試合で得点することは難しいだろう。
「コーチ、お願いがあるんですけど」
バッティング練習の途中で典子が昇に申し出た。
「バッティングも練習するにこしたことはないと思うんだけど、その気になればバッティングセンターでもできるでしょう? だから、私、守備練習をもっとやりたいのよ。 だから、ノックをお願いできないかしら?」
「いいですよ」昇は内心驚いた。 どちらからというと典子の性格は控えめで、あまり強く言うと、落ち込むのではないかと思っていたからだ。
昇と典子は外野の空きスペースへ向かった。
はじめ、昇は10メートルくらいの位置から小さなフライを投げて、それを取らせた。 このくらいのフライならキャッチボール感覚で楽に取ることができる。 それから、次第に距離を伸ばしていった。 更に、前後左右に振ってみた。 問題ない。
今度はもう一度、近い距離に戻してバットで打った打球を取って貰った。 すると、手で投げたボールは簡単に取れたのに、バットで打った打球になると急に取れなくなった。
本人も首をかしげている。
昇は一旦ノックを中止して典子を呼んだ。
「典子さん、今日の練習が終わったら付き合ってくれませんか?」
「えっ?」
「典子さんにぴったりの練習方法を思いついたんですよ」
「練習ですか? 私、てっきり口説かれているのかと思っちゃったわ」
「まあ、ある意味そうかもしれませんけどね」
「はあ?」
昇が典子を連れて訪れたのはライブハウスだった。 典子は少し引き気味になっている。
「こういうところは初めてですか?」昇が聞く。
「ええ、ライブハウスどころかカラオケにも行ったことがないのよ」と典子。
「そうでしょうね」そう言って昇が微笑む。
「今日は、ボクの知っているバンドが出るんですけど、キーボードが怪我して弾けないというので典子さんに代わりをお願いしたいんですよ」
典子は一瞬で凍りついた。
「ムリ、ムリ! 私、ロックとかそういうのやったことないし、こんなステージムリよ」
「でも、楽譜は読めるでしょう? だったらその通り引いてくれればいいですよ。あとはこいつらがフォローしますから」
昇が指した方から4人組のバンドのメンバーが現れた。 一人は腕を包帯で吊っている。
もう片方の手で頭を掻きながら、「スンマセン。お願いします」と言った。
「さあ、時間だ」ギターを抱えたトンガリ頭が典子をステージに引っ張って行った。
その頃、クロマティは福岡でプライベートの用事を済ませて東京行の新幹線に乗り込んでいた。