巻ノ十六 zitternd~途絶えた主旋律~
1時間を待たずして、宮殿の中から王と7人の継承者が消えた。
残りは1人。
私はあたりを見渡した。
抵抗しようとした者全てを惨殺した。
当然辺りは血の海。けれど私は一滴の血も浴びていない。子供も同じだ。
頭痛のするような鉄の匂いと、思考をマヒさせるようなバラの香り。
2つの混じり合ったここは、もはや正気を保つことは不可能な場所。
私はきっと、うっとりとしていた。もう少しだ。もう少しで、この子供が王になる。
この子の、たった1つの望みを叶えて――。
私の思惟は、その子供によって破られた。
胸を押さえて蹲っている。姿が、かすかに揺らいでいる。
さーと血の気が引いて、急速に正気に戻された。
何?なに、なに、なんなの?
ただ少し、身体を崩しただけ?
けれど、それにしては…。
子供の姿は、何度か激しく歪み、そして意識を失った。
頭の中が真っ白になる。
もう少しだ。もう少しで。望みを――。
信じたくなかっただけだ。本当は、すぐに理由は分かった。
初めに胸を押さえ、姿が揺らいで。そして気絶。
――バラを、つまれたのだ。
人間の世界の方に残されている本体。こちらに持ってきても、バラはすぐに枯れてしまうから、本体は人間の住むのと同じ場所に植えられている。
それで問題があったことは、これまでほとんどない。
人間たちはバラを尊び。バラたちも人間に親しみを覚え。
そうした均衡が今、崩れる。
「誰?」
やったのは、子供の花をぬいたのは?
人の形をとっていても、所詮本体はバラの花。それは命そのもの。抜かれれば、命はない。
色々な感情が一気に押し寄せてくる。
何が何だか分からない。
もう、いい。私は愛されない。愛しても、ろくな結末は待っていない。
これは天からの試練なんかじゃない。ただの罰だ。咎に対する、代償。
巻き込んだ、私が。
あんなにも愛おしいと思っていた子供を。私がッ。
…もしも本当にバラがつまれたのなら、子供の命はおそらく3日前後。
けれど、目覚めることは、おそらくもうない。
どうすればいいのだろう?
もう王にはなれない。それとも意識のない状態でも、たった一時でも、王になりたいのだろうか?
何も、見えない。
光を失った時と同じ。分からない。何も何も分からない。
どれくらい経ったか分からない。
はたと気づくと、目が腫れぼったかった。――泣いていたのだ。
けれど泣いて、なんだか少し見えそうな気がした。
残り最後の、継承者。…化け物と同じ名前を持つ、王女は?
いや、とっくに逃げたろう。
これだけ騒いで、異常な匂いがしているのだ。
とっくの昔、この宮殿の外に出ているはず。
そう思っているのに。
――ああ、会いにいかなきゃ。
そう思った。
子供をおぶって、廊下を進む。
生きていたものは、死ぬか逃げるかした。もはや命あるのは、私とこの子供だけ。
あらかじめ聞き出していた王女の部屋を、開ける。
そこだけ、静かだった。
血の匂いもしなければ、戦いの気配もない。
まるで普段通りというように、ベッドに腰かけた少女が、人形遊びに興じている。
いた。まだ、いた。
まさか、と思いつつ。常に希望を消せない自分がいる。
あたふたする私に、王女は気付いた。
私と同じ、赤い瞳が細められる。
刹那、視界が反転した。
「んか…殿下……」
どこか遠くで声がする。
それは私の知らない人物のもの。けれど、その言葉は確かに自分に向けられていた。そう私に。
そう意識した瞬間。急に声が鮮明になる。
「アマーリエ王女殿下!」
急に意識が回復した。
私の見開いた目は、真っ白な天井を映す。見慣れない場所だ。
辺りは妙にざわついて、悲鳴や怒号が響き。浮足だっても感じられた。
「殿下…ご無事だったのですね……」
いまだ覚醒しきらぬ私の意識に、その声が滑り込む。
声の主を求め、そろそろと首を廻らせる。
私ははっと息を飲んだ。
その人物にではない。
その背後の、開けはなられた扉の奥が。
私の視線に気づいたらしいその人物が、さっと立ちあがり扉を閉める。
けれど、ただよう異臭までは防ぎきれなかった。
改めて、声の主を見る。
見た事のない人物だ。
40代ほどの中年の男だ。身を包むのは近衛の制服。王族を守る騎士のモノだ……。
その人物が自分を見、殿下と呼びかけた。
目まぐるしく移り変わる状況の中、心だけはそれについていけず妙に冷静だった。
男の話を聞き流し、意識が途切れる前の記憶を手繰る。
なぜ私はこんなところにいるのだろう?
ああ、そう。子供を王にするため。
たくさん人を殺して、もう少しで、でも…そう!そこで――ッ。
記憶が戻り始め、さっと血の気が引く。
ばっと身体を起こすが、目眩がして立ち上がれなかった。
けれどそんなことは構っていられない。
無理やり立ち上がると、例の男が目の前に立ちふさがった。
「まだ休んでいてください。首謀者は捕えましたが、ここはつい先ほどまで戦場だったのです」
別に男の言うとおりにしたわけではない。けれど私は気づけばベッドに座りこんでいた。
――首謀者は捕えた?
どういうこと?私はここにいるのに。でも。
なぜ、子供はいないのだろう。
やっぱり行かなきゃ。
私は再び立ち上がる。そして男がふさがる。
「どいて」
傷ついた獣の、唸りのような声だった。
男が目を見開く。
私は、自分の周りに魔力が渦を巻くのを感じた。
いつもは伏せる赤い瞳を真っすぐに向ける。
「分からないの?退きなさい」
「しかし……」
「退けっていっているのッ!!!」
私の双眸は、きっといつもよりもなお鮮やかに染まっているのだろう。
男は一瞬息をのんで、次の瞬間身体を退けた。
背中に絡みつく視線を感じながら、私は扉を潜る。
そこには、生々しいまでの現実が広がっていた。
人から正気を奪い去る、凄まじい臭気が身体を包む。
けれど、これは現実なのだ。自分が作り出した。禍々しい光景は。
自分の力の大きさに吐き気がした。どうしよもなく身体が震えて、地を蹴る足が滑りそうになる。
強く噛んだ唇の薄い皮が破れ、ぷくりと血が浮かんだ。
口の中いっぱいに、鉄の味が広がる。
だが、そのどれも気にはならなかった。
子どもがどこにいるのかなんて知るはずがない。けれど、魔力の気配で何となく感じることができる。
その気配が今にも消えそうなほど希薄だったから、焦りで足元が疎かになったのだろう。
あっと思ったときには遅かった。
声を出す暇もない。
何かに足を取られ、正面から床に激突する。
繊細に編み込まれた精緻な模様のレースが、何枚も何枚も重ねられたドレス。
上品でいて可愛らしく華やかなそれが、赤黒く染まる。
振り返れば足元に、人の形をとらぬモノが転がっていた。
どうしよもなく惨めで、心細くて、泣きたくなった。
――早く、子供の元に行かなくては……。
今やそれだけで、正気を保っている状態だった。
泣いてる場合じゃない。――そんな資格は私にはない。
その時、視界に階段が映った。
妙に目につくその先に子供がいることを、確かに感じる。
冷たく無機質なその様子から、おそらく地下牢への入り口だと思われた。
目につく人々を全て蹴散らし、ひたすら進む。――自分でも不思議だが、それらの人々は死んではいなかった。
そうしてしばらく行った先に、その姿を見つける。
求めていた姿を見て、けれど湧き上がったのは恐怖。
小さな牢。冷たくて、暗くて、決して清潔とはいえない。
そこの隅に壁に背を預け、小さな四肢を投げ出した子供……。
その手足は、いつもよりもなお細く見えた。
顔は白と言うよりも蒼白で、いっさいの血の気を感じられない。
震える手を格子に押し当て、魔力の圧力をかける。
粉砕するなり駆け込んで、小さな口元に手を翳し、安堵のあまり腰が抜けた。――生きている。
だが、そうも安心していられない。ことは一刻を争うのだ。なにしろバラを抜かれてしまったのだから。
人の形をとっていてもバラはバラ。本体はあくまで花だ。
バラは自分で、生きるための力を作ることができない。
生まれた時に神より与えられた力以外は、他のものから得るしかない。そのために、バラは強い匂いを放つのだ。
その匂いにつられ近づいた精霊から、力を奪う。あまりキレイな生き方とは言い難いが、そうするしか生きる術がないのだ。
だが大地から引き抜かれたバラには精霊が寄り付かない。
だから、もう本体は死んだも同然。
今子供の姿は、人の形を取るために送られた力の余剰分で、なんとか保っているにすぎない。
なら、力を注ぎこめは、子供が消える事はないのではないか?
それはもう、賭けに近かった。
誰も試した事はない。だから、不可能とも言い切れない。
不可能ではない。
その言葉に弄ばれて、ここまで来てしまったのに、また同じことをしようとしている。
でも、試さない理由がどこにある?そんなのバカらしい。
生まれてからずっと、疎み続けたこの力。今使わなくてどうする?
子供の額に手を翳し、魔力を注ぎ込む。
一気に送ってしまっては負担が大きすぎる。少しずつ、緩やかに。
額から、丸く汗が噴き出した。
強大な魔力を持つがゆえに、力の加減が難しかった。
どれくらいそうしてうたかは分からない。
窓のないうす暗い地下牢に、時を知るすべはなかった。
やけに時を長く感じたが、実際にはそう経っていなかったのかもしれない。
緩く瞼が震えた。
長い睫毛が揺れて、赤い双眸が現れる。
焦点を結ばずに宙を彷徨うその姿を見て、私は思わず抱き寄せていた。
「お姉さま?」
そう言葉が紡がれる。
またその声を聞けた。
奇跡のような、この瞬間。私は確かに幸福を感じた。
「どうして泣いてるの?ここはどこ?僕は、王になれたの?」
矢継ぎ早の質問。
その全てに、私は答えあぐねた。
だから、私は子供に笑いかけた。
「いつまでも、私はあなたを支えます。あなたに仕えましょう。小さな私の陛下…」
妙に改まった言葉。それが可笑しかったのか、その内容に安堵したのか、子供は小さく笑んだ。
けれどそれは、決して安息を感じるものではなかった。――頭のいい子供は何か感づいたのかもしれない。
湧き上がるのは、対象も分からぬ後悔、憎しみ、苛立ち。何よりも恐怖と絶望。
それらが思考を絡めとり、あれ以上は何も言葉を継げなかった。――後になって考えてみても、どうすればよかったのか、何も分からない。
…そう。もうあれは過去の事。
そのすぐ後のことだった。
抱きしめた子供の身体が急に重くなり、小さな顎が力なく肩をたたく。
私は目を見開いた。
信じたくなかった。知りたくなかった。認めたくなかった。
けれど、どんなに叫んでも、揺さぶっても、再び力を注いでも、二度と子供は声をあげなかった。
――私の愛した子供は。私のせいで、こんな惨めな死に方をした。