巻ノ一三 overture~始まりの旋律~
バラと言うのは特別な花だ。ただの花に意志はない。ただの花に力は無い。しかしバラはその馥郁たる香りも持って、精霊を支配した。そしていつしか自身にも強大な力を持った。それに気付いた人間は、それがどういった理にあるものかも知れぬまま、浅はかにも力を求めた。バラたちも力は持っても、本体のバラの姿では何をすることもできず、何を伝えることもできないのでその馬鹿な人間たちを利用しようと考えた。
バラは人間の世界に本体を置く。そこからは動かせない。力を与える代わりに、人にそれを守らせることにした。
バラは人間を見下して蔑んだ、しかし同時に憧れてもいたのだ。自由な姿に。
やがて、ひと際強い力を持つバラが生まれ、王となり、空間を作った。バラだけが生きる世界を。そこでバラたちは人型になり、国を作って、統治を行い、人間の真似ごとを始めた。
ただ、雨が降る日などはバラの香りも霧散する。そうすれば、魔力は弱くなり、場合によっては人の姿も保てなく。嵐の時期には、世界から誰もいなくなる日だってあった。
その世界で、たった1人。いつもわたしだけがいた。
どんな激しい嵐だって、わたしの力を寸分も弱めることはできない。姿をゆがませることさえない。
それは、ただの一貴族にすぎぬわたしには、過ぎた力だった。
怯えた動物は決してわたしには近づかなかった。子供は気配を感じるだけで泣いた。
使用人たちも恐怖と憎悪を滲ませた。父はわたしの存在に怯え、疎んだ。
そして、母は……。
「こないで……こないでよ、化け物!!」
ガタガタと震えて、地獄の扉でも覗きこんだように目を見開く。後から後から流れる涙は瞳を覆い尽くし、わたしは実の母の瞳の色を知らなかった。
わたしだって、母を脅かしたいわけではない。
その場から逃げて、逃げて、自室で1人蹲る。
――化け物。
でも、声はどこまでも追ってくる。どんなに耳を押さえても、どんなに目を固く閉じても。あの瞬間は消えてくれない。
――化け物!
これまで何度も言われた言葉が重なる。誰もが言った。誰もが怯えた。誰もが泣いた。
…誰も、わたしの存在を望まなかった。
――化け物!!
「そんなの、分かってるわよ……」
きく相手もいないのに、力なく漏らす言葉。窓のない部屋の中には、闇しかなかった。
だから、誰も叫びを重ねなかった。でも、誰も否定してはくれない。
誰も誰も。何も言ってはくれなかった。
いつだって、わたしの周りには闇しかない。
わたしは誰にも望まれない。
わたしは、他人とは違う。
わたしは人間ではない。
母から生まれたのに、わたしは違う。
わたしは……。
――化け物。
そう、その通り。わたしは、化け物だ。
虚ろな瞳は焦点を失い、暗い世界に漂う。まるで何かを探すように。
深く切りつけすぎた傷は、痛みも感じない。感じることができない。気付かぬままに傷は広がり、膿んでいく。
深い、深い闇だ。
深淵の闇が広がっている。唯一わたしを包むものだ。
わたしはそれを覗きこんで、そうして、光を失ってしまった。
何も、見えなくなった。
闇さえ、見えなくなった。
無、という理もなかった。
本当に、何もなくなった。
その中で、長い時が過ぎたのだろう。わたしはそんなことは分からなかった。
でも、ある時ふいに感情が蘇った。きっかけなんて、あったのかも分からない。
ただ、思ったのだ。どうして誰も、迎えにきてくれないんだろう、と。
誰も気付いてくれない。
誰も心配してくれない。
みんな、どこにいるの?
どうして、話しかけてくれないの?
分からなくって、なのになぜか、むしょうに悲しくなって…。
お願い、教えて。教えてよ。
気付けば、叫んだような気がした。
「わたしはどこにいるのっ」
多分、その瞬間。そこにバラが満ちた。
濃厚な、吐きそうになる匂いが溢れかえる。
オレンジ色の花弁が、視界を塗りつぶしていった。
それは激しい風に攫われて、次々と支配を広げていく。
わたしは、また、何も考えられなくなった。頭の中身が石になったみたいに重くて、指の先を動かすのも億劫だった。
だからただ、身を任せた。
そこから膨張していく、強大すぎる破壊の意志に。
力の奔流にもみくちゃにされながらも、わたしはやっぱり何も考えられなかった。
その中で、長い時間を彷徨ったきもするが、そんなの分からない。いったい何が起こったかなんて、知ろうともしなければ、知りたくもなかった。
でもある日、急に世界が明るくなったのだ。
まなうらに滲んだ朝日のような、憎々しいけれど愛しい心地だった。だからだろうか?なんとなく思った。
ここに、わたしはいる。
ゆっくりと目を開いて、ドキリとした。
無造作に並べられた家具や装飾が、遠い記憶を呼び起こしたのだ。
ベッドの中で、がくがくと震える。また、あの言葉を言われるかもしれない。また否定されるかもしえない。また、また…!
その時ふいに、衣擦れの音がした。はっとそちらを見れば、クルミ色の癖っ毛をした、小さな男の子が首を傾げている。
わたしは恐怖で目が離せず、子供を見つめ続ける。そして気付く。彼がわたしを恐れてはいないのだと。
小さな瞳に案じるような光を浮かべ、言葉は紡がれる。柔らかい笑みと共に。
「目が、覚めたんだね」
ただ、それだけ。それだけの言葉。なのになぜか、わたしの視界は激しく歪んだ。何も見えないほど歪んだのだ。きっと顔は、いつもの母のような有様だろう。でもそこに秘められたものは、全く違う。
わたしは何度も頷いた。
静かな、時だ。
窓から光が差し込んでいる。生き物の気配がする。
誰からも、逃げなくていい。
逃げなくていいのだ。
そう思っていると、子供がわたしの顔を覗きこんだ。大きな、零れ落ちそうな瞳を、ビクリとするほど無機質に固めながら。
「あなたの、名前は?」
わたしは、身を固くした。
真っ白な子供が、怖いと思った。
思い錨に引かれるように、闇に落ちていくのを感じた。
あの名は、わたしのものではない。
あの名は、化け物のものだ。
わたしは、ここで化け物ではない。
それなら、あの名はわたしのものではない。
でも。そうだとするのなら。
わたしは、誰なのだろう?
口ごもるわたしに、子供は優しく微笑んだ。
「忘れてしまったの?誰も呼んでくれないから?」
どくんと鼓動が跳ねた。
ずっと隠していた秘密を当てられたような、どうしよもない絶望感が身を苛む。
でも、わたしがまた沈み込んでしまう前に、子供は言ったのだ。
「僕も、そうなんだ」
無垢過ぎる、白すぎる笑みで。
「みんな僕を忘れちゃったんだ。見えないみたいにするんだよ?ねぇ、あなたには僕が見える」
何も、感じていないような笑みで。
透明なその子供を見て、わたしは何かを思い出した気がした。
遠い過去の、忘れたい何かを。
それを封じ込めるように、わたしは子供を抱きしめていた。しとしとと涙を零れさせつつ、それでも力は緩めない。
「わたしには、見えるから」
遠い日の自分に声をかけたかった。
「あなたが、見えるから」
そうしたら、救われたろうか?誰かがわたしを見つけてくれたなら。
大きな瞳をさらに大きく見開いて、子供は思わずというように、
「あなたの名前が見つかるまでは、僕と一緒にいて」
ただ、ささやかな望みを口にした。
――それが、わたしと愛しい子供との出会い。
何もかもを捧げていいと、捧げたいと、本当にそう思っていたのに。
えーとぉ…なんかもう、気にしないでください。