『七日目のカセットテープ』
僕の「のろま」には、理由があった。
世界で一番必死な、何千時間もの理由が。
――ジャンルを超えて仕掛けられた、無数の違和感。
ラスト一ページ、すべてのピースが狂気的なカタルシスへと変わる。
怒濤の伏線回収を体感する、SF×日常ミステリー。
一、
藤代航という人間を三つの単語で説明するなら、「のろま」「不器用」「ワンテンポ遅い」になる。
「ほら航、また遅れてる! 青信号に変わってから歩き出すまで、なんで三秒もかかるのよ」
幼馴染の宮園栞が、呆れたように振り返る。彼女のポニーテールが、七月の抜けるような青空の下で快活に揺れた。
「いや、なんか、頭がぼーっとするというか……世界がゆっくり動いて見えるんだよ」
「はいはい、お得意の言い訳ね。早く行かないと学校遅れるよ」
航は自分の不器用さに、底知れない劣等感を抱えて生きてきた。
体育の授業でバレーボールをすれば、ボールが目の前に来てから手を出すので空振る。テストでは、頭の中では答えが分かっているのに、鉛筆を動かす手がどうしても追いつかず、いつも時間切れになる。脳の歯車と、現実の肉体の歯車が、どうしても噛み合わない。そんな感覚が幼い頃からずっと続いていた。
その日の放課後、航は通学路の片隅にある、今にも崩れそうな古本屋「文脈堂」に立ち寄った。店の奥にある「ジャンク品・ご自由にお持ちください」と書かれた段ボール箱。その中に、それを見つけた。
プラスチックのケースがひび割れた、骨董品のようなカセット式ウォークマン。
中には、ラベルの剥がれかけた一本の古い磁気テープが入っている。
なぜか強烈に惹かれるものがあり、航はそれをポケットに突っ込んで自宅に持ち帰った。
自室のベッドに寝転び、単三電池を入れ替えて再生ボタンを押す。
「ガサガサ……ピー……」
激しいノイズ。やはり壊れているのか、そう思った瞬間、ノイズの向こうから「声」が聞こえてきた。
『――聞こえるか、俺。驚くなよ。これは、お前の声だ』
航は跳び起きた。イヤホンから流れる声は、紛れもなく自分自身のものだった。しかし、今の自分より少し掠れていて、ひどく怯えている。
『時間が、時間がないから、一度しか言わない。よく聞け。今日、七月七日の午後五時ちょうど。駅前のスクランブル交差点に、ブレーキの壊れた赤いトラックが突っ込んでくる。俺は……俺はそこで死ぬ。栞を、宮園栞を絶対にそこに近づけるな。これを変えないと、お前は――』
「ブツッ」という鈍い音とともに、テープは切れた。巻き戻して何度もボタンを押したが、それ以降はただの砂嵐のようなノイズしか流れない。
「悪質な悪戯か……?」
自分の声をサンプリングして作られた、タチの悪いドッキリ。そう思おうとしたが、嫌な汗が背中を伝う。
何より不可解だったのは、テープの声を聴いている間、航の右ポケットの奥に「硬い違和感」があったことだ。指を突っ込んで引き出すと、それは茶色く酷く錆びついた、見たこともない古びた「鍵」だった。
いつ、どこで手に入れたのか、全く記憶にない。けれど、それを握ると、なぜか胸が締め付けられるように痛むのだった。
二、
運命の、七月七日。午後四時五十五分。
航は駅前のスクランブル交差点の手前に立っていた。
「悪戯に決まっている」と思いながらも、どうしても足がここへ向いてしまったのだ。周囲は買い出しの主婦や、帰宅途中の学生で溢れかえっている。平和そのものの景色。時計の針は、まもなく五時を指そうとしていた。
「あれ? 航、こんなところで何してるの?」
背後から声をかけられ、航は心臓が跳ね上がるほど驚いた。
振り返ると、スーパーの袋を下げた栞が立っていた。今日の夕飯の買い出しの帰りらしい。
「し、栞……! なんでここに」
「お母さんに頼まれてさ。それより航、顔色悪いよ?」
「いいから、ここから離れよう。今すぐに!」
航が栞の手を掴もうとした、その瞬間だった。
「プーーーッ!!」
けたたましいクラクションの音が響き渡る。交差点の向こうから、猛スピードで蛇行しながら坂を下ってくる「赤いトラック」の姿が見えた。
(本当に、来た――!)
テープの予言は本物だった。トラックは歩道に向かって突っ込んでくる。
航は叫んだ。「栞、逃げろ!」
しかし、航の肉体は、ここでも「ワンテンポ遅れる」という呪いに縛られていた。頭では栞を突き飛ばそうとしているのに、足が、腕が、コンクリートに固められたように動かない。一秒、二秒の遅れが、決定的な破滅を生む。
トラックが視界を塞ぐ。
激しい衝突音。悲鳴。
航は衝撃で地面に叩きつけられていた。かすむ視界の中で、数メートル先に倒れている、ピクリとも動かない栞の姿が見えた。衣服が赤く染まっていく。
「嘘だ……嘘だろ……」
航は這いつくばりながら彼女の元へ行こうとした。しかし、視界が急速にブラックアウトしていく。
その瞬間、頭が割れそうなほどの激しい耳鳴りが襲った。
キィィィィィン――。
それは、カセットテープの早戻しを聞いているかのような、奇妙な音だった。
「……航、起きなさい! 遅刻するわよ!」
母親の声と、カーテンを開けるまばゆい光で、航は目を覚ました。
ベッドの上に跳ね起き、自分の体を見る。傷一つない。携帯電話の画面を確認する。
【7月1日(月) 07:15】
一週間、時間が巻き戻っていた。
夢じゃない。航は、自分が「タイムリープ」したのだと確信した。あのカセットテープは、未来の自分からの、本当に警告だったのだ。
「待ってろ、栞。今度は絶対に助ける」
二度目の七月一日。航は生きる姿勢を変えた。
七月七日の午後五時に、栞をあの交差点に行かせなければいい。ただそれだけだ。航は徹底的に栞の行動を監視し、彼女が駅前に行かないよう細心の注意を払った。
そして、二度目の七月七日、午後五時。
航は栞を強引に自宅に引き留め、自分の部屋で一緒に勉強をさせていた。駅前の交差点には誰も行っていない。赤いトラックの事故は、ニュースで遠くの出来事として流れた。
「やった……変えられたんだ」
航が安堵の息を漏らした、その三分後だった。
ベランダで涼んでいた栞が、突然苦しみ出した。
「あ、れ……息が、できない……」
彼女は激しい喘息のヒドい発作を起こした。栞にそんな持病はなかったはずなのに。救急車を呼んだが、搬送先の病院で、栞の心臓は停止した。
世界が歪む。また、あの耳鳴りが響く。
気づけば、三度目の「七月一日」の朝だった。
それから、地獄のようなループが始まった。
ある時は、学校の階段から落ちてきた生徒に巻き込まれて。ある時は、看板の落下事故で。ある時は、通り魔の刃に倒れて。
どんなに工夫して交差点から遠ざけても、七月七日の午後五時になると、因果律が無理やり辻褄を合わせるように、形を変えて必ず栞の命を奪いに来る。そして彼女が死ぬと、航は強制的に七月一日に引き戻されるのだった。
十回、二十回、五十回……。
何回ループしたか分からない。栞が死ぬ瞬間をその都度見せつけられ、航の精神は限界を迎えていた。
ただ一つ、奇妙な変化があった。
ループを繰り返すたびに、航の右ポケットに入っている「錆びた鍵」の茶色い汚れが、少しずつ、剥がれ落ちるように綺麗になっていくのだ。今やそれは、鈍い黄金色の輝きを放ち始めていた。
三、
「……カチ、カチ、カチ……」
何度目かのループの最中、航は自室で、あのウォークマンのテープを再び再生していた。ノイズの裏側、自分の怯えた声の後ろで、かすかに響いている「規則的な音」に、今更ながら気づいたのだ。
重く、鈍く、しかし絶対に狂わない、金属の擦れる音。
(この音、どこかで聞いたことがある……)
航はウォークマンを掴み、家を飛び出した。向かったのは、栞の自宅である「宮園時計店」だ。
「あら航、いらっしゃい。栞なら二階にいるわよ」
店番をしていた栞の母親に挨拶もそこそこに、航は店の奥へと進んだ。そこには、店の象徴である、高さ二メートルを超えるアンティークの大きな振り子時計が鎮座している。
「カチ、カチ、カチ……」
これだ。テープの裏で鳴っていたのは、この時計の秒針の音だ。
「航? どうしたの、そんな怖い顔して」
二階から降りてきた栞が、不思議そうに航の顔を覗き込んだ。
「栞……お願いだ。ちょっとこれを聞いて、解析してほしい」
航はウォークマンのイヤホンを栞の耳に押し当てた。
栞は最初、怪訝な顔をしていたが、声を聴くうちに顔が青ざめていった。
「これ……航の声? なんで? それに、この後ろの音……」
彼女は振り返り、大きな振り子時計を見つめた。
「うちの店の、時計の音だわ。間違いない。ネジが擦れるこの独特の軋み、世界に一台しかないものよ」
栞は工具箱からいくつかの道具を取り出すと、時計の文字盤の下にある、重厚な真鍮の裏蓋を調べ始めた。
「この時計ね、おじいちゃんが遺したもので、不思議な伝承があるの。一度もネジを巻いていないのに、ずっと動き続けてる。『この時計は時間を刻んでいるのではない。時を巻き戻すたびに、その不可逆なエネルギーを蓄積する歪みの器だ』って」
「時を巻き戻す……」
航は呟き、右ポケットから「黄金色の鍵」を取り出した。
「栞、この鍵、この時計のものじゃないか?」
栞は目を見開いた。
「それ……おじいちゃんのノートに書いてあった、時計の暴走を止めるための『制御鍵』だわ! ずっと行方不明だったのに、なんで航が持ってるの?」
その瞬間、航の脳内に、堰を切ったように強烈なビジョンが流れ込んできた。
それは、今の自分ではない。
もっと髪が長く、目が虚ろで、精神が崩壊しかけた「別の世界線の自分」の記憶だった。
(そうか……そういうことだったのか!)
パズルのピースが、一気に嵌っていく。
タイムリープをしていたのは、「今の航」が初めてではなかったのだ。前の世界線で、何百回、何千回とループして栞を救おうとし、それでも救えず、絶望した「未来の航」がいた。
デジタルデータや記憶は、ループの膨大な負荷で消滅してしまう。だから彼は、あえて磁気テープというアナログな媒体に自分の声を吹き込み、古本屋に売り払うことで、過去の自分(今の航)へ警告を残したのだ。
そして、航の「不器用」の本当の意味。
「何をやっても人よりワンテンポ遅い」のは、生まれつきの脳の欠陥ではなかった。
航の脳は、前世の自分が重ねてきた、何千、何万時間分もの膨大な「ループの記憶」を、無意識の奥底に抱え込みすぎていたのだ。現実の一秒に対して、脳が処理しなければならない情報量が多すぎて、肉体の動きが遅れてしまっていた。
彼はのろまで不器用な落ちこぼれではなかった。
誰よりも長く、たった一人で世界と戦い続けてきた、孤独なヒーローだったのだ。
右ポケットの鍵が錆びついていたのは、時間の風化(何千回ものループ)の証明。そして、今それが輝きを取り戻しているのは、時計に蓄積されたタイムリープのエネルギーを吸収し、本来の「システムを破壊する鍵」へと覚醒したからだった。
「航……? あなた、何を泣いてるの?」
栞が心配そうに航の手を握る。
航の頬を、涙が伝っていた。それは悲しみではなく、ようやく真実にたどり着いた確信の涙だった。
「なぁ、栞。僕は不器用なんかじゃなかった。君を救うために、僕はもう、何年も前から戦ってたんだ」
航は時計の裏蓋にある、小さな鍵穴を見つめた。
「次の七月七日の午後五時。すべての因果を、ぶち壊す」
四、
そして、運命の七月七日、午後四時五十五分。
航は再び、あの駅前スクランブル交差点に立っていた。
隣には、栞がいる。今回は、あえて彼女をここに連れてきた。場所を変えれば別の原因で死ぬ。ならば、全ての始まりであるこの場所で、正面から運命を叩き潰すしかなかった。
「航、本当に来るの……? トラックが」
栞は航の腕を強く掴み、震えていた。彼女も、これまでのループの記憶がかすかにデジャブとして脳裏をよぎっているようだった。
「来るよ。五時ちょうどにね」
航は静かに言った。ポケットの中で、黄金の鍵が脈打つように熱を持っている。
四時五十九分五十五秒。
五十六、五十七、五十八、五十九――。
「プーーーッ!!」
五時ちょうど。坂の上から、あの赤いトラックが猛スピードで突っ込んできた。周囲から悲鳴が上がる。トラックは一直線に、航と栞のいる歩道へと向かってくる。
いつもなら、ここで航の体は硬直するはずだった。
しかし、今の航は違った。脳の奥底に眠る、何千回もの事故のデータ、トラックの軌道、周囲の群衆の動き、風の向き――そのすべてが、一瞬にして覚醒した。
(遅い。世界が、止まって見える)
航の脳は、極限の集中状態に入っていた。ワンテンポ遅れる脳の特性が、ここでは逆に「一秒を無限に引き延ばす」という最強の武器へと昇華していた。
航は、隣にいる栞の腰を抱き寄せた。
突き飛ばすのではない。トラックの風圧、跳ね返るガードレールの破片、すべてを完璧に計算に入れた最小限の動きで、彼女を自分の背後に引き込む。
スローモーションの世界の中で、赤いトラックのフロントガラスが目の前を通り過ぎていく。運転手の焦った顔、飛び散る火花。
航は、ワンテンポ遅れる肉体を、完璧なタイミングで爆発させた。
ドンッ! という凄まじい衝撃音とともに、トラックは彼らの数十センチ横を通り抜け、街路樹に激突して止まった。
周囲に立ち込める白煙と、静寂。
「航……?」
背後から、栞の震える声が聞こえた。
航は自分の体を見た。無傷だ。栞を見る。彼女も、擦り傷一つない。
「助かった……? 私たち、生きてる?」
「いや、まだだ」
航は息を荒くしながら、栞の手を引いて走り出した。
「まだ、元凶が残ってる!」
二人は全速力で宮園時計店へと向かった。
店に飛び込むと、奥にある大きな振り子時計が、見たこともない激しさで「カチカチカチカチ!」と異常な音を立てて時を刻んでいた。文字盤のガラスにはヒビが入り、今にも爆発しそうなほどのエネルギーが渦巻いている。
因果律を捻じ曲げられた時計が、世界をもう一度「七月一日」へ巻き戻そうと、暴走を始めているのだ。
頭の中に、あの激しい耳鳴りが響き始める。キィィィィン――。視界が白く染まりかける。
「させるかよ!」
航はポケットから黄金の鍵を引き抜き、時計の裏蓋の鍵穴に力任せに突き刺した。
そして、これまでのすべてのループの想いを込めて、一気に鍵を回した。
「これで、終わりだァァァッ!」
ガキィィィン! という、金属が噛み砕かれるような凄まじい音が響き渡り、振り子時計の内部から目ばゆい光が溢れ出た。
次の瞬間、時計の大きな振り子が、ピタリ、と動きを止めた。
耳鳴りが消えた。
激しい静寂が、店内に満ちていく。
航は疲れ果てて、その場にへたり込んだ。手のひらにあったはずの鍵は、煙のように消え去っていた。
五、
鳥のさえずりが聞こえる。
まばゆい朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
航は恐る恐る目を覚まし、枕元の携帯電話を手に取った。画面を表示する。
【7月8日(火) 07:15】
「……七月、八日」
航の口から、自然と笑みがこぼれた。
一日が進んでいる。昨日と同じ今日ではない、誰も死なない、新しい明日が、ついにやってきたのだ。
ベッドから立ち上がった瞬間、航は自分の体に奇妙な軽さを感じた。
いつも頭の奥を支配していた、あの重苦しい霧のような霞が、完全に消え去っていた。
試しに目の前で手をグーパーと動かしてみる。脳の命令と、肉体の動きが、完全に一致している。のろまだった歯車が、驚くほど滑らかに噛み合っていた。脳の奥に溜まっていた膨大な記憶のデータが、ループの終わりとともに綺麗に整理されたのだ。
学校への通学路。
「あ、航! 待ってよ!」
後ろから走ってきた栞が、航の隣に並ぶ。
「もう、今朝は歩くのが早いのね。いつも置いていかれるのは私の方だったのに」
栞はぷんぷんと怒ってみせたが、その表情はとても晴れやかだった。
「ごめんごめん。なんかさ、体がすごく軽いんだよ」
航は笑いながら、青信号に変わった横断歩道を、力強く一歩踏み出した。もう、三秒待つ必要はなかった。
ふと、通学路の脇にある古本屋「文脈堂」が目に留まった。
店の前のジャンクコーナーの段ボール箱。その中を覗き込んでみたが、あのひび割れたウォークマンも、剥がれかけたカセットテープも、もうどこにも無かった。最初から存在しなかったかのように。
「航、何見てるの? 早く行かないと遅刻しちゃうよ!」
前を歩く栞が、笑顔で手を振っている。
「今行くよ!」
航は声を張り上げ、彼女の元へと駆け出した。
彼の右ポケットには、もう何の違和感もない。ただ、未来へと続く確かな時間が、心地よい風となって、二人の背中を通り抜けていった。




