九話
「姉は事務員を恋人にする」九話
僕はあまり残業をしない。
残業をするというのがどういうことなのかも、あまりよくわかっていない。仕事がいっぱいあるということなのか、仕事が遅いということなのか。
一介の事務員がわかることは少なく、わからなくても別に気にならない。
配属された職場でちまちま仕事をして、退勤するとレストランを探し、行きつけを作ることに腐心する。
ターミナル駅で梨純と待ち合わせ、食事をした後、本屋に行き、読みもしない小説を買って、帰りの電車で眠る。
寝る前にシャワーを浴びるのが面倒で、朝に回すようにすると、それはそれで悪くないと思う。
金は、僕にとっては問題じゃなかった。
変な時間だと思う。苦しいとも、楽しいとも思う。同じ時間に感情が混ざり合っている。ベルクソンが言ったことは間違っていなかった。感情は腑分けできない。
「嫌だとか、つまらないとか、思う暇がない」
「へえ、あなたにはつまらない瞬間があるんだ」
「どういうこと?」
「私は、人生はいつでも楽しいから。思う暇がないだけで、実際はつまらないんでしょ?」
「でも、思わなければ、事実は事実の意味を失う」
「そして、気づかないうちに消耗する」
僕はその「緩慢な死」についてあまりよく知らない。
「消耗? それは日本語?」
「認めたくないの?」
「梨純ほど想像力があるわけじゃない」
「褒められているのか、貶されているのかわからないわね」
「たぶん、そのどちらでもない」
「私、近いうちに留学するけど」
「ドイツ? アメリカ?」
「イギリス」
「ケンブリッジ?」
「そう」
***
「友人が華々しい試みに挑戦する時、私は一体何なんだと、ええ。そりゃあ、思いますよ」
「恋人が人生を賭けて留学する時に、僕はそれを単なる裏切りにしか感じられない」
僕は飲み物をあおった。
「一つには本当に裏切りなんですよ。そういう側面は否定できない。でも、大切なことはそこで幸仁くんが自暴自棄になって、本当の裏切りをしないようにすることです。苦しい時間は続きます」
「苦しいのか、苦しくないのかは、僕にはわからないんです。まるで感情を感じない」
「そういうのは、想像できることです。何かを感じない代わりに、実務能力というものがあります。感じてはいけないんです。絶対に」
僕はその口ぶりに少し違和感を感じた。白川さんのトラウマか何かだろう。
「感じないことと、実務能力には相関があるんですか?」
僕のとぼけた質問の意図に気づいたのか、白川さんは何回かうなずくと、その話題を流した。
実務能力という言葉が、意味しているものは「単に仕事ができる」のとは少し違うものだろう。
おそらく、文脈的に想像して、それが「時間の変化に抗うこと」を示しているような気がした。実務能力というかっちりした語彙には「静止した時間」が含意されている。気がする。
***
積もり積む仕事を片づけて、作った行きつけに一人で行って、アルコールを少しだけ含む。
職場の同期が飲み会をしているのに参加せず、レストランで腹を満たしていると、中高の同期から「出会いの場」に来ないかと連絡をもらう。
慶應を傘に面倒な自意識を拗らせた、愛すべき友達で、それを丁寧に断る。
「とても眠たくて」
その後の面倒なチャットは全て無視して、僕は就職してしばらくして借りた、自分の部屋に戻った。
部屋に入ろうとマンションのエレベータに乗って出ると、姉さんが待ち構えていた。
「どしたの? 連絡くれてた?」
「ううん。ちょっと距離を置きたくて。連絡するとゆきなんのかんの言って追い返すでしょ?」
「部屋にスケッチブックはないよ」
「大丈夫。小さいの持ってるから」
「入りなよ。お土産ある?」
「ごめん、ない」
「珍しいね」
僕は「何かあったの?」と聞くのをためらった。
部屋の電気をつけ、姉さんを洗面所に案内して、電子ケトルで湯を沸かした。
幸い明日は金曜日で、デカフェの紅茶を用意して、姉さんの籠城に付き合うこととした。
姉さんはリビングテーブルに積んであった本を読み、紅茶をすすりながら、無言を提供してくれた。
おそらく、姉さんの高貴な生活ぶりが、白川さんと衝突したのか、衝突というより単に姉さんが逃げてきたかのどちらかだろう。大概のことはその二パターンに収斂する。
眠そうな顔の姉さんにベッドを渡し、僕はリビングの机に突っ伏して寝た。
姉さんが浴びるシャワーの音で目覚め、それがまだ早朝の五時であることを知ると、僕はもう一度眠った。
姉さんは朝コンビニで卵とベーコンと野菜を買ってきて、勝手に朝ごはんを作り、リビングの僕を起こして、朝ごはんを供食した。米がないと小さい声で嘆いた。
僕を伴って軽く散歩し、最近読んだ夏目漱石の小説の話をする。
「『道草』を買ったの」
「食うために?」
僕のさりげない冗談は一顧だにされなかったが、とりあえず言いたいことは言えた。
「結婚すると、夏目漱石が面白くなるのね」
「姉さんは読書家だものね」
「ゆきほどじゃない」
僕は首を振った。
「どうしたの?」
「なんでも、な、いや、なんか子どもができたらしくて」
言い淀むようなことか? とは思ったけど、しばらく驚いたふりをして、間を作り、それから言った。
「名前は決めた?」




