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八話

「姉は事務員を恋人にする」八話


 姉さんと白川さんは結婚した。


 白川さんは東京郊外に比較的広い家を借り、姉さんの画材と書籍を収容した。


 白川さん自身はあまり物がないようで、いらないものを処分して、姉さんに部屋の配置を自由に任せた。


 安くて機能的な車を一台買い、休みの日は県を跨いでいろんなところに行くみたいだった。


 姉さんは家ではほとんどやらなかった料理を「これくらいできますが?」みたいな顔で白川さんに振る舞った。でも、皿洗いは白川さんがやってくれるらしい。


「事務作業はほとんど皿洗いみたいなものです」


 どこかで白川さんはそんなことを言った。


 生活の中に「浸かる」ことを、白川さんは恐れない。それがなんの意味もないと駄々をこねたりしない。


 時間を味方につけること。それは小説で主人公が勝利する基本要件の一つだ。


 姉さんは、稼ぐと画材や本を買って手元に残さない。


 家計に対する貢献なんか、頭をよぎることもないだろう。供出を要請することを白川さんはしなかったから、慌てて母さんが、毎月十万円、姉さんを通さずに白川さんに渡した。


 でも姉さんはそれを知らないけど、自分の振る舞いに無頓着なわけじゃない。単にそういうことを言葉にしないだけだ。


 悪いかなぁ、とか、申し訳ない、とか、お返ししなきゃ、とかを、姉さんとて思わないわけではない。ただ、それを言語化する語彙をアクティブにしていないだけだ。


***


 エジプト土産はエジプトコットンのハンカチだった。


 姉さんは、そういう旅行が好きだ。


 計画はかなり練ったらしい。


「僕からの注文はカイロ大学だけです」


 そういうさりげないせりふが、白川さんの好感度を上げる。写真をプレゼンテーションにして、僕と僕の両親に送ってくれた。


 姉さんの笑顔を見ると、本物だということを感じる。一つとして同じポーズをとっていない、自由な姉さんが弾けていた。


 エジプトで見聞きしたことは、姉さんの創作意欲をかきたてたみたいで、しばらく風景画もピラミッドっぽくなっていた。


「ココノさんの絵には遠景があって、そしてその向こうがあります。私の世界観にはないものです」


「白川さんの世界観とは?」


「箱庭です。全てが布置であり、配置です」


「僕はそういう意味では、虚無かもしれません」


「箱庭は、小さなこだわりです。虚無とは、究極の一貫性ですね」


「一貫性、ですか? 僕はそういうタイプではないと自分で思っていたのですけれど。素朴で」


「柔らかいです。でも、一貫性ではなくて、究極の一貫性です」


「何か違うんですか?」


「その場しのぎの一貫性ではないということです。孤独であれば、孤独を楽しむことができる。カオスの肯定です」


「肯定、してるんですかね?」


 僕は右に頭を振った。


「言語を信じていないご姉弟ですからね。言語的な首尾一貫性は、あくまで暫定的な整合性です。本当の、あるいは究極の首尾一貫というのは、一つの大きな宇宙に対する接続です。わかるとか、知るとかではない」


「なんとなくわかりますけど、宇宙というのは?」


「あるはずのものがない状況です。欠落を意味づける行為を、私は宇宙への接続と言います」


「それはだいぶ哲学的な接近ですけど、その欠落は、どこかのタイミングで『埋まる』ものですか?」


 白川さんはしばらく考える仕草をした。


「たぶん埋まります」


「信じることができるかどうかという感じもしますけど」


「幸仁くんは、懐疑一辺倒の人ではない。慶應はそういう学風ではないですよね」


「徹底的な懐疑は、少しお子様な感じがして、いつもわからなくなります。それは自分に対する説明で、証明でもなんでもない。哲学的な証明手続きを、そういう意味で懐疑しています。懐疑しているというか、距離を感じます」


「では、その欠落は、きっと埋まりますよ。自己実現予測のようなものです。予知できる人にしか望む未来は開けない」


***


 僕は、なんのかんのあって就職した。


 社会学が役に立つ職種なんか聞いたことがないけれど、例によって事務員サラリーマンをやっている。


 役に立つスキルが、仕事をする上で必要がないことは、あらかじめレクチャーされていたから驚かなかった。


 必要なのはタイピングの速さくらいで、それはどちらかというと生まれ持った資質のような感じもして、僕はほどほどだったので、とりあえず失望されるようなことはなかった。


 仕事に出るということが、こんなに億劫なのには閉口した。でも、それは風呂敷で覆い隠す類の事実だということもわかっている。誰もがそうしている。


 研修でできた仲間と、軽く飲みに出かけたり、一緒に昼を食べたりとかして、なんとか船を漕ぎ出した。


 確かにスキルではない。


 知らない人だらけの事務室で、人の性格を低めに想像しながら、実際の仕事ぶりを知って見上げる時、学歴を使うのは一瞬だけだと、白川さんが言っていたのを思い出す。


 同期の中で修士をとっているのは僕くらいだけど、それは一体なんなのだろう? 大学という研究機関に入れば、学部出身の人の方が少ないだろうに。不思議だ。


「学業は、仕事のためにあるわけではないので」


 自分の口から、簡単にそういう言い訳が出たのに驚く。でもそれはジョン・ステュアート・ミルが『大学教育について』で言っていたことだ。


 僕は、ただただ降ってくる文書を捌くだけの生活に、人生で初めて「疲れ」という状態を経験した。


 働いた夜、本が読めないというのは、三宅香帆の言っていた通りだけど、それは誰にでも訪れる。


 夜更かしもしなくなった。睡眠時間が翌日の体調と仕事のクオリティにもろに影響する。


 そんなこんなをあれよあれよという間に把握して、僕はまた一つ自分の新しい側面を知った。


 頭を使うのは、人にもよるけれど、そんなに難しいことではない。それだけが評価軸というのは、実に楽な世界なんだ。文系とはいえ修士はそれなりに大変だと思っていたけど、仕事の属性が不変な以上、自分を変えなくてはならない。


 自分を変えなくてはならない?


 たかが仕事如きで?


 最初にそう思ったのが陥穽で、仕事を侮ったのが運の尽きだった。


 自己評価が高すぎるのは、あまりいいことではない。


 そもそも査定がされないことの方が多い。


 つまり事務の仕事は、やはり雰囲気なのかもしれなかった。

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