七話
「姉は事務員を恋人にする」七話
「姉さんは、新婚旅行はどこに行きたいとかあるの?」
「地味にね、エジプト」
「あー、イメージ通りだわ」
***
「出世するって、結局どういうことなんでしょう?」
「さあ、でも私たちが小さい頃無邪気に思い描いていた出世と、実際の出世は、少し違う気がします。的確な言い方が思い浮かばないですけど、偉い方がいいとは一概には言えない」
「肩書き的にと言うことですね?」
「この世界は、評定では測れないですよね。自己評価と周りの雰囲気との一致不一致で、人は満足不満足を感じます。それは、哲学的には主客の合一です。合一が重要であって、評価の高低は実はそれほど問題ではありません」
「具体的には」
「たとえ世間から非難を受けている社長がいても、社内がその社長を信頼しているなら、社長は仕事ができます。でも、世間の評判が良くても社内の人望がなければ、裸の王様になるでしょう?」
「ええ」
「総理大臣の支持率と一緒です。薄いマジョリティと濃いマイノリティの対比は、いつも統計を裏切ります」
「それは、統計が個別の意見や環境を反映していないということですか?」
「ええ。人には一人理解者がいればいい。必ずしも薄いマジョリティの支持を取り付けて安心する必要はないし、滑稽ですらあります。私は、マジョリティになることを、出世すると定義しています。うまく言えないのですが、マジョリティを『作り上げる』行為は、リーダーではなく芸術家の資質によるものです。現況の多数派を統率することが、出世することの現実です。そこには権力というつまらない虚飾が見え隠れします。それはマジョリティに対して働きかける力です。芸術家は、例えば音楽でマジョリティを作り上げます。一方出世とはつまり、空気を測定観測する試みです」
僕が白川さんの口元を見ていると、白川さんが意味ありげに笑った。
「すみません。つまらない話で」
僕は白川さんの言葉に首を振った。
「幸仁くんのいいところです。鵜呑みにしない」
読まれたな。僕は反省した。姉さんみたいにまぶしていないから、表情に出る。
メタレベルの(メタという言葉でなければ言語行為的な)情報のやりとりに、白川さんはとても敏感だ。それは、折り合いのつかない矛盾を丸呑みしたことのある人にしか出せない、円熟味のある心配り。
僕は顔を歪ませて、しばらく黙った。
「幸仁くんは、間違っても人をかっこいいとか、頭がいいとか、思わないでしょう」
「骨まで拾ってもらえるようで」
「そんなそんな。ちょっとした気づきです。時には、丸呑みするのも悪くないですよ? それは人の口に上った言葉です。それだけで存在エネルギーがありますから」
「言葉は存在しないですよ?」
「そうかもしれません。でも私は、存在を信じています。幸仁くんの中で、神と言葉は、等号で結ばれますか?」
「神は存在します。他者が存在しているので。でも言葉は常にどこにもありません。思惟が反芻する思考は言葉という無媒介によって成立しています。思考も言葉も、成立していますが、それを存在と認めることは、僕にはできません」
「それにはある形で反論できます。存在していないことを認めるのはやぶさかではありません。でも、言葉が存在していると信じることは、個人的な信仰であり、信仰はおそらく自由です。蒙昧な宗教かもしれないですが」
「なぜその宗派に?」
僕は、その言葉をこぼした後笑った。
「逆です。不在なのに意味が生じている事態には、幸仁くんの方に説明を加える必要が生じます」
「意味がわかっているわけではないということです。僕たちは本当に意味がわかっているわけじゃないと、僕は思っています。意味は今のところ受肉していないから。わかっていない意味に、存在性を認めることは、少なくとも僕はしません」
「では存在とは?」
僕は笑った。
「『遠さ』です。他者が、あるいは物体が、近くにいるのに理解できない時の隔絶の実感です」
「『実感』という言葉遣いはずるいですよ」
「これ、なんの話でした?」
***
このように「事務員というのは哲学的存在だ」という証明は、図らずも済んでしまった。
我が家の広いリビングテーブルで、姉さんは黙々と絵を描き、僕は中国語をやる中に、新しく姉さんの恋人が、かりかりと何かの論文に鉛筆でメモを書き込んでいる。
時間ができたらCivilizationをやって、それから食事を作って食べる。
まるでこの世界に「仕事」というものがないみたいに、仕事の話は僕たちの口に上らない。
なんとなく僕には、世界の問題の全てが隠蔽されているように感じられたが、よく考えるとそれは、僕らが世界を構築する上で、一番気をつけて守っている生き方だ。
世界の問題が表出している場合、いかにそれが実際のことであっても、口に出すのは好ましくないということに、僕は思い至った。




