三話
「姉は事務員を恋人にする」三話
「船橋ですか?」
「いえ、県千葉です」
「どちらもすごいですが」
「何を言います。中学からの慶應は、別格です」
僕はお茶をいただき、それから首を振った。
「ご家族は、今も千葉ですか?」
「ええ。まだ元気です」
「春日はどうして?」
「意外と都会への憧れがありまして。幸仁くんは見るところ、そういうのはない、地元に落ち着いていらっしゃる」
「就職の場所にも依りますが、僕は住宅街というものが好きなので、郊外に住むような気がします。車を持ってこうやって、こう言ってはなんですが、親切を」
白川さんは微笑んだ。何回かうなずき、また笑顔を見せた。
「この辺りは、小さなマンションがたくさんあります」
「姉と、同棲されるのですか?」
「さあ、あまり考えていません。僕はそういう恋愛欲求があまり強くなく、特に所有欲もないので」
僕は少し安心した。姉が同棲することが嫌だったのではなく、姉の相手が節度ある人間であることにホッとしたのだ。
白川さんの部屋のリビングテーブルは広く頑丈で、重ねてある本のタイトルは、僕があまり読まない、理系的な読み物や、いわゆる専門の教科書までがチラチラと見えた。
「でも、これはメタ的な話題ですけど、僕たちはどうして仕事の話から始めるのでしょう」
「いい着眼点ですね。人となりがわかるというのか、なんなのかはわからないですけど、私は私の話よりむしろ、幸仁くんの話を、ぜひ聞きたいと思っています」
「僕の?」
「ええ」
白川さんは席を立って、ティーポットに湯を足した。
「それに絡めて、ココノさんの思い出なんかを」
「姉は、歳が離れていますから、結構僕を可愛がってくれます。父も母も忙しかったので、彼女は絵を描いて、僕は塾の宿題を。リビングはいつも鉛筆の匂いがしていました」
「興味深い」
「姉は、あの通りからっとした人間なので、しつこいところもなく、僕の邪魔もしない。僕も姉の邪魔をしません。でも、一緒にミルクティーを飲んだり、アイスを買いに二人で出かけるのは、僕にとってはとても、そうですね、愛されていると思える時間でした」
「ますますココノさんを好きになるエピソードですね」
「ご兄弟はいますか?」
「血の繋がりのない妹がいます。彼女のことが疎ましくて、僕は関東を出ました」
僕は、白川さんの顔から目を逸さなかった。少し俯いて、軽く自嘲気味に口から漏れる言葉は、自分を守るためというより、客観的な説明を模索する、極めて誠実な態度に見えた。「疎ましくて」。そこには白川さんを悩ませた、実際上の問題が生々しく横たわっていた。
白川さんは、紋切り型の表現を避ける。含みを持たせ、暗黙裡に情報を伝送してくれる。
まるで村上春樹の『騎士団長殺し』に出てくる免色さんのようだった。
「こういう言い方はあれですけど、私の家族には金銭のことが常に表面化していました。金で解決するのが、私の家族の『趣味』です。だから、私は人間関係は『金だ』と思う昏く長い時期を過ごしました。目を開かれる経験を、何度も何度も繰り返して、今ここにいます。私は、ある理由である程度自由にできる金を蓄えています。でも、私には道中さんのお家のように、温かさも愛情も思い出も、持ち合わせていません。それはまるで何かの欠落のように、私を悩ませます。それは、遺伝病を抱えて子どもを作るか悩む夫婦や、トラウマがあり、それによっていつも大好きな恋人を疑ってしまう若者の苛みに、ほど近いような気がします」
「姉は、愛情に濃やかな人です。安心してください」
「ありがとうございます」
「綺麗な部屋ですね」
「まあ少し散らかっていますけど、B型にしては耐えている方かと。道中さんの家は、隅々まで行き届いていましたね」
「実はあれ、母じゃなくて姉なんです」
白川さんは、びっくりした表情で、僕は笑ってしまった。「姉は、皿洗いも、掃除も大好きです。昔からそうです。驚きましたか?」
「ええ、ええ。意外です」
「手持ち無沙汰な時は、隅々まで掃除しています。でも、僕らが汚しても口うるさくない。姉は、とてもできた人間です。本当は役人が向いていると思います。図工の先生も、悪くはないですけど。姉は、優しいんです。世界に真に利他的な行為はなくとも、実に利他的な人間です」
もちろん真に利他的な行為がないというのは、利他的な行為があるという事実を打ち消すものではない。それは利他的な行為に受益する人が生まれることから簡単に導かれる。しばらく白川さんは考えた。
「私とは釣り合わないような気がしてきました」
僕はそれが冗談ではないことをわかっていたけれど、敢えて笑って流した。
お暇する時に、小分けされたのど飴をもらった。
僕はそれを放り込んでときわ台まで帰った。




