二話
「姉は事務員を恋人にする」二話
「事務員のいいところは、その仕事の内容が、うまく言えないことにあります」
「それだけで興味深いせりふですね」
白川さんは、酔った姉さんが寝ている後部座席で、姉さんの手を握りながら、僕と話していた。
僕は運転のために酒を飲まなかったのに、姉は馬鹿みたいに飲んでいたから、ちょっとムカつく。
「この世界で学歴が効くのは、限られた瞬間だけです」
「?」
「形のない仕事ですから、スキルなんて使ったことがないんです。総合的な雰囲気で、仕事の出来不出来が決まります」
「でもそれは、とてもわかりやすい言語的説明です」
「言語が不十分な媒体だといういい証拠ですね。言いやすいことと言いにくいことがあります。大工なら家を建てている。造形師はフィギュアを作っている。事務員は?」
「雰囲気ですか」
「部屋を整理するのに似ています。分類し、物を動かし、スペースを作り、髪の毛を集めて捨てる」
「=生きること」
「そうとも言えます」
「姉を玄関に置いていきます。お送りしますので、少々お待ちを」
「電車で帰りますよ。面倒でしょう?」
「家はどこですか?」
「春日です」
「なおのことお送りしたくなりました」
「はは、なぜでしょう。でも、もし甘えてよければ。車は暖かくて微睡んでしまいますね」
「寝ててもいいですよ」
僕は家の前に車を停めると、鍵を開けて母を声で呼び、姉さんを預けた。
「あんたは?」
「姉さんの彼氏を送ってくる」
「損な子ね」
「どうだろう」
***
車の中は、暖かい。
都心への道は少し混んでいた。
混む時間帯じゃないから、どこかで事故でもあったんだろう。
「雰囲気で決まると、おっしゃいましたっけ?」
「ええ。でもすみません、ひと種類じゃないんですよ。いろんな力の見せ方があります」
「たとえば?」
「自信の発露というのは一つです。緻密さや慎重さも表情に出ます。行動力というのも指針になります。でも、知的だという資質が、事務の何かに具体的に発揮されるというのは、見たところないようです。親切さは知性に勝りますし、親切な人は知性を持っています。最低条件ですね」
「つまり頭がいいだけでは事務はできない」
「そうです。能力の総合値が事務処理能力であり、それはIQでは決して測れません」
「他に何かあるのですか?」
「同僚を包摂できない職場で、事務はできません。仕事は個人プレーではないですし、たとえ『できない』人がいたとしても、その人を置き去りにするのは、最悪の状況の際だけです。そこには、倫理性も求められるわけです」
「何か聴きますか?」
「国風を」
僕は中国の国風音楽をかけた。「赤伶」は譚晶が歌う。
「勉強は楽しいですか?」
「いいえ」
僕は答えた。それからしばらく車内は静かだった。
車線を変更し、裏道に入る。しばらく暗い。その景色は東京では少し珍しい。しばらくしてまた大通りに出た。
「姉は、どうですか?」
「とても、よく物を考える人ですね。話題の半分は取り留めないものですが、それは単に私を喜ばせるための飾りで、その背後には他者への思いやりとは別の、特別な部屋や景色が、あるような気がします」
「こういう言い方は、誰もが好むところではないですけど、姉は、勉強していれば東大に行けた頭脳です」
「同感です。彼女は実によく本を読む」
「姉が、リビングで絵を描いたり、本を読んだりしているところを見るのが好きでした。集中していて」
「それに、ココノさんは指がとても長い」
「ああ、そうですね」
「知的で、なおかつ手先が器用に見えるし、実際そうです」
「姉は、世界に窓を開いている。僕はそれを羨ましく思います」
「でも」
「はい」
「まとまり方がいいのは、幸仁くんの方ですね」
「小さく。指針を失って自己保存に汲々としています」
「いい姉弟です」
車は春日につき、白川さんを降ろした。
僕は路駐が嫌なので、駐車場に停めた。
「寄っていきませんか?」
白川さんは僕を誘った。
春日の綺麗なマンションの一室が、白川さんの部屋だった。
通された部屋は広めのリビングルームで、それと寝室の一部屋が、白川さんの住まいだった。
意外なことに少し雑然としていて、けれど整理されていないわけではなかった。テーブルには腕枕が置いてあり、いくつかの本に栞が挟まっていた。
ありがたかった。申し訳ないけれどお手洗いを借りた。白川さんは嫌な顔をしなかった。僕を慮ってくれていたのだろう。
トイレから出ると、白川さんは温かいお茶を用意してくれていた。
「カフェインは入っていません」
「ありがたい」




