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十二話

「姉は事務員を恋人にする」十二話(完結)


「受験した時のこと覚えてる?」


 梨純と駅まで歩く道で、軽く会話した。


「よく覚えている。僕たちは塾のツートップで、満足のいく戦いをした」


「と、そこまでは私も共有しているんだけど、私たちはどうして付き合ってたんだっけ?」


「さあ、ぼくも覚えていない」


「私はとても野蛮で」


「でもとても可愛かった」


「ありがとう」


「それに正確にはツートップではなくて、梨純が常に一位だった」


 梨純はとぼけた顔をした。


 特段踏み込んだ話もなく、僕たちは別れた。その時間は僕にとってとても大事な時間だった。


 こういう機会はたぶん人生で二度とない。でも、それに相応しいだけの用意が、僕にも、おそらく梨純にもできていなかった。


 思い出の声と口調だけが、完全に保存されていて。


***


 食材を買って家に帰り、奥さんと協力して食事を作る。


 子どもに飯を与え、皿洗いをし、風呂に入れる。


 それはまるで事務作業のようで、楽しくもなく、途切れることもなく、能力と気力を常に要求する。


 子どもの手が徐々に離れた、楽になってきたかと思うと、自分が、翻って徐々に衰えていくのを知る。


 簡単に考えられたことが、日々の記憶の滓に埋め立てられて、錆びついて僕から剥がれていく。


 慣れからくる流暢さが、まるで自分が仕事ができるかのような錯覚を覚えさせ、その実、脂がまとわりついた包丁のように、どんどんなまくらになっていく。


 自由に考えることが難しいなんて、ありえなかったのに。でもそれは、自由に考えることができていたという、単なる幻想だったのかもしれない。


 才能というプロパガンダを、無邪気に信じていたからかもしれない。


「頭のいい人が決して言わないことですが、頭の悪い人が言いがちなことに、『頭を使って働きたい』というものがあります」


 白川さんは、いつものように僕に話しかける。


「そんな仕事はありません。頭を使うのはどの仕事でも当たり前のことです。そして頭を使う仕事のほとんどは、もしそれがあるとしたら、ものすごく割に合わない、虚しい仕事だということです」


「一貫して、白川さんは専門性を肯定しないですね」


「頭を使うという言葉が意味するのは、他者を自分より劣位に置きたい『気分』です。雰囲気的な良し悪しに左右されている。それは愚かではないですか?」


「白川さんは、仕事の本質は何だと思います?」


「自分を育てるということですよ」


「存外、簡単なものですね」


「何かをするだけでいい、というのは、人生のどのシチュエーションでも変わらないことです。存在だけで自分を肯定するには、少し工夫が必要ですが」


「僕は思うんです。仕事って、究極的には何かをしているけど、何もしていないとも取れるじゃないですか」


「何も生み出していない、ということですか? それはそうかもしれません。例えば、文章を書くことを仕事にしている人でも、文章を書いて読者を得てそれで生計を立てていても、たぶん同じことを思うのでしょう。何もしていないと」


「それはどうしてなんでしょうね」


「何かをしていると思うことが危険だという直感があるのだと思います」


 僕はため息をついた。そんなことのために、自分のことを抑圧して、不愉快に生きなくてはならないのかと思うと、慨嘆する。


「謙虚さを押し売りされているんですか?」


「いや、というより、事実は何かを生み出しているけれど、それは時間と共に消えていくということなのでしょう。定期的な掃除は心を浄化します。それは一度では無意味なんです。たった一曲のヒットソングで、人生を乗り切るのは難しい。そうじゃないですか? 一曲のヒットソングは賞賛に値しますが、その曲によってその人の人となりを肯定するまでにはならないのではないでしょうか。継続は力なりですし、継続は力の証明と言えるでしょう」


「継続という簡単な言葉で、人生を表現するのには抵抗があります」


「人生という感情の融合体に、適切な言葉はありません。手垢のついた言葉で、薄塗りするしかない。感情に価値はないですし、人生に価値はありません。物理現象ですから」


 物理現象という最後の言葉だけが、白川さんの人生の捨て方だった。


***


 姉さんはずっと図工の先生をしていた。


 子どもを眺める恰好の職業なのに、子どものことは最後までわからなかった。もちろん、最初の子どもはchildrenで後の子どもはson、またはdaughterなのだけれど、それにしてもである。


 年々に大きくなる姉さんの子どもにお年玉をあげて、それだけの関係なのに、自分の子より、成長が気になった。僕の子どもとよく遊んでくれて、僕は彼らに感謝した。


 ときわ台の家は僕たち姉弟の家族が入るともういっぱいで、年始の鍋も、三台は必要になるくらいだった。


 白川さんは、変わらない声で、髪だけ真っ白くなっていった。姉さんの子どもは白川さんのことを地蔵か何かのように思っているみたいで、とんがった口調に白川さんが頑張って応戦するのが見ものだった。


 子どもたちがゲームをやっているディスプレイから離れたテーブルで、姉さんと僕と白川さんはカタンをやっていた。一人年長の姉さんの子どもが参加していた。カモである。


「賞賛されるべき人生や、仕事があまりにあっさりと評価されていいんですか?」


「逆に、幸仁くんは?」


「まあ確かに、どうでもいいというのでしょうか」


「自分がよくやったなと思っていれば、その他のことはどうでもいいんですよ。昔の大人は言ったものです。その日の酒が美味けりゃいい、と」


「もしそれが本当なのだとしたら、そうかもしれません。でもそれは、単なるポーズなのではないですか?」


「でもその人たちは、本当に毎日酒を飲んで、翌朝二日酔いになりながら仕事に行きました。彼らの中では一応そのようなものだったのですよ。そういえば、私、最近事務屋が高じて取締役になりましてね。その時に思ったのは、これで同期にもカッコがつくな、程度のことです」


「おめでとうございます」


「わかられなくてもいいんですよ。自分がわかっていればいいし、自分がわかっていないとしたら、それはきっと誰もわかっていない『懸賞問題』と考えて、差し支えないんじゃないですかね」

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