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十一話

「姉は事務員を恋人にする」十一話


 長い間恋人を作らずに、僕は三十になって偶然知り合った年下の女の子と結婚した。


 梨純のことはどのタイミングでも好きだった。でも諦めるとか諦めないとかのレベルの話ではなかった。


 結婚した時にはもう姉さんは三人の子どもがいて、仕事をしながら子育てをしていた。


 上の子は独特の間がある子で、一人遊びが好きだったけれど、下の子にはとても優しかった。


 姉さんは上の子を可愛がり、一緒に絵を描いて遊んだ。下の子二人はまだ手がかかり、ときわ台の実家にあずけることもあった。


 姉さんは僕の結婚をとても喜んでくれた。


 義姉として、年下の僕の奥さんに、飄々とした感じで接してくれた。奥さんは僕の家にある程度安心したらしかった。


 水戸に実家がある女の子で、歳は僕より七歳下だった。


 僕はこの通り素朴な人間だから、恋愛の起伏は激しくなかった。リードしてあげるとかそういうこともなかった。お互いの穏やかな部分が静かに共鳴したのだろう。


 いろんな推しがいる子で、ある程度付き合って推し活をした。


 僕はとても孤独だった。


 梨純が欠けた喪失は、いつまでも埋まらずに人生が進んでいった。自分の笑い声が空虚に思える。一緒に過ごす時間がドラマみたいに作り物に見えた。


 それは単なる代替案でしかなく、決して本当に欲しい物ではなかった。


「そういうものですよ」


 白川さんは言った。


「姉も、白川さんにとって何かの代わりでしたか?」


 白川さんは首を振った。


「百パーセントの女の子というのは、原宿にしかいません」


 僕は笑った。


「そして、完成された人間と完成された結婚をするのは、人間の悪徳の一つです。それも、恐ろしいほどの悪徳です」


「それは慰めですか? それとも事実ですか?」


「両方です。欠落は一つの美徳です。例えば写真を残すか残さないかは、家庭それぞれです。ココノさんは子どもの記録を残しません。記録しないのは、流儀ですらあります。残しておけばよかったと思う時もあれば、そうじゃない時もあります。幸仁くんは、記録を残さないタイプです。であれば、百パーセントの女の子など、じきに忘れるでしょう」


「忘れたいのか忘れたくないのか、僕にはよくわからないんです」


「渾然一体となっている感情を、わざわざ論理的に腑分けする必要はありません。忘れたくもあり、忘れたくなくもある。私たちの昔に流行りました『元カノ』という言い方がありました。そういうちゃらけた認識じゃないことに、僕は幸仁くんの建設的な価値を見出します」


「正確に言えば彼女ではないんです。幼馴染なんですよ」


「向こうもそう思っているはずです。なんらかの理由で連絡を取れる状況にないだけですし、それは今の幸仁くんにとって、必ずしも悪いとは言い切れない。全てが決定した世界は、生きにくいはずです」


「全てが決定した世界を、うまく回避する方法があるんですか?」


 僕は聞いた。


「ああつまり、世界が決定していないとどう証明できるかという話ですか?」


 僕はうなずいた。


「正直に言って、それはわからないです。でも、私たちが結果や属性的帰結と思っていることが、単なる過程なのかもしれません。結婚は契約で、契約の前と後では確かに意味的には違う。でも、時間の流れは感知できる範囲では全ての人に平等です。川の流れの淀みは、果たして結果と言えるでしょうか。すみません、決定していないというのは、流れ続けているという比喩でしか表現できないのです。奥様にご不満でも?」


 僕は首を振った。


 想像力が欠如していたことを、僕は自分に謝らなくてはいけなかった。


***


 渋谷で一人いた。梨純も偶然そうだった。


 それは僕が三十六になる時の一コマで、僕にはその時一人娘がいた。


 サクラステージのツタヤシェアラウンジで、本を読んでいたところ、声をかけられた。


「やあ、懐かしいじゃん」


 僕は、咄嗟に鼻で笑った。ふん、と。


「立たなくていい。連絡しなくて悪かったな」


「いや。それが逆によかったのかもしれない」


「私のことをよく知っている人でも、ここまで薄情とは思わなかったんじゃないか?」


「わからない。でも薄情とは思わなかったな」


「探しに来なかったから、興味がなくなったんじゃないかと思って」


「梨純がすり抜けただけだよ」


 梨純の眼差しを受けるのは、実にスリリングでドキドキした。どんなふうな言葉を言うか、口調は予測できるのに、内容に関しては全くわからなかった。


 それが、僕が梨純に惹かれていた理由だった。


「もう遅い?」


 梨純は笑った。


「連絡もなく遅刻したら、やっぱり置いていかれるだろ?」


 僕はできうる限りの皮肉で応戦したつもりだったけど、生来の人の良さがわざわいして、単なる悪態になってしまった。


「遅刻ね。悪かったよ」


「誰かいい人を見つけたの?」


 僕は、何年も前からずっと続けていた口調で、梨純に聞いた。


「いいや」


「今は?」


「特段のことはない。教師をやっているよ。君は?」


「普通の事務員だよ」


「結婚した?」


「した」


「そっか。少し残念だ」


「でも、僕らはずっと幼馴染だ」


 梨純は悲しそうな顔をした。

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