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十話

「姉は事務員を恋人にする」十話


 歳の離れた姉さんは、僕のことをどう思っているのだろう? そんなことを想像する必要もないくらい、お互いがお互いの生活圏を侵害しない。


 受験がかぶることもなかったし、進路も全然違った。


 姉さんは独特の生活の香りがした。


 少し悲しげな感じがするけれど、全然力強くて、問題という問題を問題としていなかった。


 昔、母はよく姉さんの絵を見ていたと言っていた。素朴な絵を描く母が見ていた姉さんは、流行りに流されることなく流儀を作った。


 姉さんの絵を好きな人は多い。わずかも手を抜かない。テーマは正直凡庸だけど、力がある。


 世の中は頭を使う瞬間がないと言えるくらい、頭を使うことが当たり前だけれど、姉さんほど頭を使っている人はいない。


 人をよく見ているし、不安なことも打ち明けない。


 だから、子どもができた時の姉さんの顔は、少し見ものだった。見ものというか、珍しい。


 それは不安ではなかった。たぶん姉さんは子どものための自我を作れる人ではないから、どうやって子どもに接すればいいのかわからないのだろうし、子どもの成長を追体験できる人生を送ってこなかったから、僕に比較対象としての意見を求めたのだろう。


「男の子だったら、とか、女の子だったらとか、そういう次元じゃないの。単純に愛が湧くとも思えないし、愛が湧かないとも言い切れないし」


「適当でいいんじゃない? 面倒なら母さんに丸投げすれば? あの人子ども育てるの好きでしょ」


「私みたいな子どもを育てたら事件だから、それは嫌」


「おいおい」


「冗談はさておき、子どもってずっと抱っこしてなきゃいけないんだよね?」


「寝かしとけば?」


「泣いたら?」


「ほっとけばいいよ」


「ゆき、子育てに向いてるね」


「姉さん。真に受けないでよ」


 姉さんはくすくすと笑うと「帰るわ」と言って帰った。姉さんも僕の姉だ。僕が言ったことの雰囲気はわかっただろう。


「答えのない問題に時間はかけない」


 これに尽きる。


***


 梨純は帰ってこなかった。


 待っているのは疲れるけれど、僕は待っているのでもよかった。


 それは悪くない時間だったから。


「そういうことはあります」


 白川さんは言った。姉さんの子を抱いて、年末年始にときわ台の実家に集まった時に、久しぶりに顔を見た。


「孤独な時期もあります。そういうものです。物事は遅れてやってくるし、大概連絡がありません。それに、大切なことは一つだけです。決して『どうすればいい?』と人に聞かない。これだけです」


「おっと」


 白川さんは笑った。


「なぜかわかりますか?」


「答えがない問題だから」


「百点満点です。が、つけ足しておくとさらにいいでしょう。答えはあるんです。でも決してわからない。この違いは重要です」


 白川さんは子を背負いながら作ったという黒豆をタッパーに入れて持ってきてくれた。それはとても甘く美味しくて、おせちの中で最速でなくなった。


「前もって答えがわかる戦いは、学生時代で終わりです」


「でも必ず答えはある」


「その通りです」


 姉さんは自分が何をやっているのかわからないまま、子どもを抱っこしてあやし、茫然自失の状態で、ミルクをあげていた。虚空を見ている。でも「代わろうか? 少し休んだら?」と聞くと、わずかに首を振ってそれを遠慮した。


 姉さんは自分が何をしているのか、たぶんわかっていない。姉さんの特質は快適さを求めることだから、わざわざなんで面倒を背負いに行くのかわからないはずだった。


 わざわざ面倒を背負いに。


「結婚するのはでも、面倒なことなんじゃないの?」


「ゆき。そんなこと考えたことないよ」


「自由の対価が孤独で、不自由の対価が幸福なんじゃないの?」


「自由とか不自由とかって、単なる性格じゃない?」


 姉さんは言った。


「だとしたら?」


「幸福になるか、孤独になるかはすでに決定されているってこと」


「そんなわきゃないよ」


「どうしてそう言えるの?」


「人は苦しみだって幸福に変えることができる」


「大して苦労してないくせに」


 姉さんは吐き捨てた。その言葉は僕を結構傷つけた。姉さんがそういうせりふを言うのは珍しい。ままならないのか、理解できないのかわからないけれど、たぶん一緒に絵が描ける歳になったら、そんなこと忘れてクレヨンで部屋を彩るのだと思う。


***


 僕は孤独な性格なのだろうか。


 梨純のことを忘れるべきなのだろうか。


 彼女は単なる幼馴染で、偶然隣にいただけなのだろうか。


 僕には価値がないのだろうか。

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