3-1
台所の窓の外では雪が降っていた。
しばらく窓越しに僕は雪を眺めていたが気分転換に外に出ることにした。
二階にダウンジャケットとニット帽をとりに上がる。音を立てないように下に下りると、玄関で靴を履く前に仏間の建具をそっと開けてみた。
女将は口を開いて仰向けに寝ていた。鼾のたびに腹部を上下させるこの生き物はまるで冒険者の行く手を塞ぐモンスターのように見えた。女将は小さく「辰男」と寝言を言うと僕に大きな尻を向け寝返った。
サッシを開け外へ出るとあたりはすっかり白く彩られていた。来た時は地道の肌を露出させていた里道も、綿を振りまいたようにふかふかしている。それをブーツで踏むときゅっきゅと鳴った。誰かが空で氷を篩ふるいにかけているのだろうか。やさしく丁寧に雪は舞い落ちていた。
新雪を踏む遊びを楽しむうち、僕は知らず知らずに丘の上の方まで昇っていた。
気が付けば民宿から十メートル以上離れている。これより上には行かない方がよいと思い、来た道を引き返すことにした。
とその時、身体が腰まで雪の中に滑り堕ちた。
(しまった。谷の雪だまりだ!)
はやりそうになる心を落ち着かせる。そしてこれ以上沈み込まないように、静かに右足の爪先だけを動かし昇るための土手を探った。
幸いブーツの先に固い地面のようなものが当たる。そろりと向きなおると両手で固い地面を探した。大きく深呼吸をしてその地面に両手を押し付け身体を持ち上げようとしたら左足のブーツが脱げてしまった。
慌てて体勢を戻しブーツを履こうとしたものの、上手くブーツに足が入らなかった。どうやらブーツの中に雪が入ってしまったようだ。とりあえずブーツは諦めることにしてここから脱出することを最優先にした。気を取り直しもう一度踏ん張る。しかし今度は身体が滑り上手く持ち上がらない。不安がよぎった。
心を鎮めようと深呼吸をしていると、目の前に一本の手が差し伸べられた。
驚いてその手の主の方を見上げた。
すると前髪を眉のラインで真っすぐに揃えた長い髪の女性が腰を屈めていた。
二十才くらいだろうか、鼻筋の通った小顔で切れ長の美しい目をしている。彼女はなぜかこんな寒空の下で、白い着物に赤い帯を締めただけの薄着でいた。僕をみつめる表情はやさしげで一瞬その顔に見惚れてしまう。僕は彼女の手を掴むと、反対の手で一気に地面を押し身体を持ち上げた。今度はなんとか上手く登れた。ぜいぜいと膝に手を付き息切れしている僕の傍で彼女は子供のように両手を叩いて喜んでいる。そうだ礼を言わねば、顔を持ち上げると彼女はハグを求めるように僕の方へ腕を開いた。
「ありがとう。本当に助かりました」
僕は感謝しながら彼女の背に手を回した。
二度ほど肩甲骨のあたりを軽く叩いて離れようとすると、今度は逆に彼女が僕にしがみついてきた。僕の左の鎖骨あたりに彼女の綺麗な黒髪の顔が埋まる。
(えっ?どういうこと?)
僕の胸を彼女は愛しむように頬ずりしている。
気が付くといつの間にか先程までの雪は止んでいた。なぜか辺りは満天の星空だ。
こんなことってあるのか?
まるで映画の中にいるようではないか。
まるで宇宙の真ん中で二人が抱き合っている気がした。
彼女の身体は氷のように冷たかった。
こんな薄着でずっといたからだろうか?
僕は彼女の背に手を回し暖めるように彼女を抱きしめた。
不思議とそうすることが当たり前のように思えたからだ。
左手で彼女の背をさすり、右手で彼女の頭を撫でつける。
彼女の美しい黒髪が背中に流れ、とても白くて初々しい首筋が僕の眼前に表れた。
それは今まで妄想していたどんな首筋よりも美しく欲情的な曲線をしていた。
僕は思わず息を飲み込んだ。
そしてその白い肌に噛みついた。
その肌は氷のように固かった。僕はさらにもっと強く歯を立てた。
――ピキッ。
歯が割れた肌を突き破るように刺さる。その音が脳内に響きわたる。
「うっ」
彼女は小さな声をあげ仰け反った。
僕の中でバンパイアの血が小躍りしているようだ。
彼女をもっと強く抱きしめると、さらに深く歯を突きたてた。
歯と氷のような肌の周辺から彼女の生き血が滲み出してきた。
その生き血は氷柱から溶け出した水滴のように冷たく清涼で甘露な味だった。もはや全身は身震いするほど興奮している。溶けだした彼女の血液が僕の口に溜まり、少し暖められて喉から食道へ零れていく。
その度、僕は自分が少しずつ透明になるような気がした。身体中の全ての毛が逆立つ。全身が硬直していく。あまりの幸せにどんどん気が遠くなっていく。このまま僕は失神してしまうのだろうか。
(これか――!これが生き血を吸うバンパイアの絶頂なのだな)
そして僕は完全に凍りついた。
(第一部 了)




