2-1
三十才になった。未だ僕は童貞だ。これは大声で自慢できるようなことでもない。
バンパイアにとって性交渉と生き血を吸うことは同意語である。どちらの方が重要かというともちろん生き血を吸うことだ。好きなタイプの女性の身体の上に乗り丹念に舐めあげた首筋に噛みつくことや、彼女を背後からひしと抱きしめ、やさしく掻き上げた髪の下からのぞく首筋に歯をたてること、そんなことばかり考えていた。父からはいつになったら代用血液から卒業出来るんだと揶揄われているが、陰キャラな僕は彼とは違い、多くのバンパイア種が好むタイプの、健康的でどこを噛んでも血液がどくどくと溢れ出しそうな肉感的な女性と出会う機会もなかった。
それまでは。
*
誕生日を迎えた年の暮れ、僕は一人で旅に出た。太宰治の『津軽』を読んで本州の袋小路と書かれた竜飛岬に行きたくなったのだ。
竜飛漁港に着いたのは夕方の五時前だった。港の奥に屏風のように広がる帯島は岩場の地肌のところどころに雪が積もっていた。これから雪が本格的に降るのであろう、海の空は重く不気味で、海面はその不安を溶かし込むかのように鉛色の肌をうねらせていた。僕は潮の香りと魚の生臭い香りを嗅ぎながら、陽が完全に沈む前に宿を探すことにした。
孤独感と寂寥感を満喫するために、きっと誰も行かないであろう素泊まり四千五百円の漁港近くの民宿を選んでいた。宿は漁港の前の通りから岬の丘に抜ける里道のような地道に面して建っていた。赤いトタン屋根に灰色に経年劣化した横板張りの壁、そこに黒いペンキで民宿富岡と書かれていた。一見それは廃屋のようにも見えたが、ブロンズの玄関サッシの奥からは室内の明りが透けていた。
僕はサッシを開けた。
民宿というより普通の住宅だった。玄関の突き当りの部屋に向う廊下があり、その右脇に二階に上がる階段、そして右手にはおそらく和室。建売住宅なんかによくある間取りだ。
「すみません。予約した今田ですが」
僕は玄関で声をあげた。
「はーい――」
奥の方から明るい声が返って来た。
よく分からない小紋の紫の割烹着に首からタオルを巻いた五十代くらいの女関取のようなおばさんが奥の部屋から現れた。どうやら民宿の女将のようだ。
「今田さんだが。遅ぐであっただね。素泊まりですたね。すたばって今日は、ええイガどええホタテが入ったんで、ばげまま(夕食)に如何だが?二千円にすとぎますじゃ」
女将は言った。
「ええっと、夕食ですか?イカとホタテ・・・。たしかにこの時間ならもう食べる処を探すのも大変なので、お願いしようかな」
僕は女将の割烹着の模様をなんとか理解しようと努めながら答えた。
「そった方がいい。そった方がいい。そうだ、先に湯さ入りますか?」
おそらく温泉に入るかと訊いているのであろう。僕は頷いた。
「そいだば着替え持って、あの奥の部屋へ来へじゃ。案内するはんで。その間にばげまま作っておぐはんで。そうそう。それがらお客さんの部屋は階段上がった突ぎ当たりの部屋だ」
女将は階段の上を指さした。
予約の際に部屋は洋室と言っていたが、入ったらそれは単なる子供部屋だった。そこには二十年以上は経つであろう学習机と二段ベッドが置かれていた。僕はジャージに着替えると一階の奥の部屋をノックした。
「どうぞ――」
女将の返事を聞いて取っ手を回した。
部屋の真ん中に小さなテーブルが置かれた八帖のダイニングだった。女将はイカをさばくのに忙しいのか、案内をせずに顔だけ振り返り、左奥のドアの方へ行くよう目で指示した。
小さな洗面室には洗濯機の蓋の上にバスタオルと浴用タオルが用意されていた。その横の明りがもれる折れ戸の中は0・75坪タイプ(一畳半サイズ)のユニットバスで、小さな浴槽に、なみなみと緑の湯が張られていた。温泉ではなくバスクリンのようだ。肘が壁にあたりそうな小さな洗い場で身体を洗った後、浴槽で膝を抱え、まるで友達の家に泊りに来たような不思議さを味わっていた。
浴室の外で、洗面室のドアが開く気配がした。霞ガラスの陰に大きな人影が映った。
「お客さん、お背なが流すべが――」
女将の声がした。
(オイオイ、こんな小さな洗い場に女関脇のような女将が入って来るのか?)
僕は思わず股間を抑えながら叫んだ。
――結構です!
女将が、残念そうな鼻息を吹かせながら、洗面室から出て行った。
僕は、バンパイアの性フェロモンがダダ漏れしているのではないかと心配になって、自分の脇のあたりを嗅いでみた。フェロモンは無臭のせいか自分では判断が付かなかった。
(2-2に続く……)




