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僕が氷を齧るようになったのは母の影響だ。母も重度の貧血症だった。小学五年生の時、僕が貧血で苦しんでいると、母が僕の口の中に氷を一粒入れ、「齧ってごらん」と言った。僕は生え変わったばかりの奥歯でそれを思いっきり噛んだ。「ガリッ!」、その瞬間、衝撃と音が口腔で増幅され脳内に流れ込んだ。脳に向う神経が一斉に点灯し脳のどこかのスイッチを切り替えた。世界を眺めるピントが一瞬にして合い、ボッとしていた世界から澄んだ雨上がりのような世界が出現した。それから僕は苦しくなると氷を齧るようになった。
貧血患者の多くが鉄欠乏性貧血症で、この場合は造血剤といわれる鉄剤を補給することにより症状は改善される。血が薄い僕の母も毎日これを服用していた。しかし僕の貧血は造血剤では改善されない。ある意味これは僕の持つ種の宿命、すなわち、遠い先祖から受け継いだバンパイア(吸血鬼)と呼ばれる者のさだめなのだ。先祖のように首に噛みついて人の生き血を吸えば貧血も簡単に癒されるだろう。しかし僕の一族は曾祖父の代から、人間を襲うことを止めひっそりと社会で暮らす道を選んだ。
人間とバンパイアでは種の違いはあれ、外見では全く区別できない。人間の血を吸い続けた結果、バンパイアも人間へと共進化したのだ。今では血液の成分もヘモグロビン濃度以外は人間となんら変わらない。ドラキュラ伯爵に代表されるバンパイアのイメージは、かなり脚色されている。たしかに僕達には多少の特殊能力はある、しかし目も赤く光らなければ、超人的な運動能力もない。またニンニクや十字架を見せられても、喚きながら後ろに飛び下がることもない。都内で焼肉屋をやっているバンパイアもいれば神父のバンパイアだっている。
現にヘビメタのミュージシャンをやっている僕の父なんかは、頬から胸にかけてスカルクロスのタトゥーを掘り込み、耳からクロムハーツのピアスをぶら下げている。それでは太陽の光はどうかと言われると、これも紫外線に当たると血中の酸素量の消費が大きくなる程度で、太陽の光で皮膚が溶けるわけでもなく、日焼けクリームとUVカットの眼鏡さえあれば、プールサイドで寝そべってトロピカルカクテルを飲むこともできる。もはやバンパイアと人間に差異を見つけることは困難なのだ。
しかし、人間にはない能力もある。それが強い性フェロモンの放出力と唾液に含まれる強力な皮膚再生力だ。これこそバンパイアがバンパイアたる所以であり、種が持つ捕食能力である。我々は人間に寄生して生きると言ってよい。バンパイアは異性の人間を性フェロモンで惹きつけパートナーにする。そしてその人間から毎夜少しずつ血を頂くのだ。血を大量に吸うとパートナーが死んでしまうため、小さな噛み傷程度のものをつけパートナーの造血能力に見合う分だけの血を啜る。バンパイアの性フェロモンは強力でパートナーの脳内に大量の快感ホルモンを分泌させ、少々の痛みも快感となる。そしてその噛み傷も唾液の皮膚再生力により朝までには完治しているのだ。そうやってバンバイアは愛するパートナーからやさしく生き血を頂いている。
父と母の関係もそうだ。父がバンパイアで母はノーマル。他の家族ではこの反対の関係もある。僕は小さい頃から夜な夜な彼らの喘ぎ声と絶叫を聞いて育ってきた。母の血が薄いのも父が血を頂くからであり、母は愛する父の為に鉄分を多く含む食品を食べ、出来るだけ睡眠不足にならないよう常に気を付けている。
このバンパイアの捕食能力は大人にならないと備わらない。メスのバンパイアの方がオスよりも若干早く十五才程度でその能力が現れる。僕の場合は成長が遅く、二十歳くらいになってやっとそれは発現した。人の生き血を吸えるのは大人のバンパイアだけだ。それもパートナーだけという暗黙の掟がある。子供のバンパイアは大人になるまで人間の生き血を吸うことは許されず、乾燥血液を溶かした代用血液を夕食の時に盃一杯程度飲んでいる。そのため思春期を迎えた頃からバンバイアは、毎晩人間の生き血を啜ることばかりを考え悶々としているのだ。




