【後編 水葬レクイエム・フィアンセ】
24
無名となったわたしを包む三角の手が、空海の裏返りに合わせてくるりと反転した。
重力は相変わらず方向を忘れ、炎のような冷水が上へ降る。
灯を抱えたシグネッタ・グルームのローブが**紫煙を散らし、風谷雪兎の白髪が水光**を撒いた。
『名の代償は空洞。でも、空洞は音の器になる』
わたしの内側で鏡片が最後の震えを残し沈黙した。
25
尖塔が音もなく崩れる。
砕けたガラスは雫へ変わり、舞い上がって逆さの虹を描く。
その中央へ――降海の鐘女が再び舞い降りた。
白仮面の涙孔から零れるのは水泡ではなく鈍色の“空気の化石”。
雪兎が指を鳴らすと、水路が十字に割れ、鐘女の鎌を遮る膜を張った。
「儀式は終章……ここからは交響だ」
視線の奥で、**海燕**のような執念が火花を散らす。
26
グルームは紫炎を扱う指で、わたしの背に淡い印を描く。
「恐怖を溶かすには甘味より苦味。舌を噛んで**真黒**な血を招きなさい」
命令ではない。それでもわたしは歯を立てた。
鉄と塩とバニラが一瞬で交じり、粘つく甘苦が喉奥へ滑落。
血の雫は水と混ざり、微かな渦を孕んで鐘女へ飛ぶ。
白仮面の表面で雫は瞬き火を上げ、
――仮面の奥に封じられていた無数の眼球が、**蒼光**の泡となって噴き出した。
27
鐘女が鎌を振る。だが刃は泡へ呑み込まれ、形のまま溶ける。
代わりに、わたしたち三人の影が束ねられ、ひとつの**海獣**を模った。
影の背に雪兎、舌にグルーム、心臓に無名のわたし。
不揃いな鼓動が重なり、単調を拒む三拍子を奏でる。
28
海獣の鼻先が仮面へ触れた瞬間――
鈍い破裂音。
白仮面は粉砂糖のように砕け、鐘女の身体は霧となって拡散。
残ったのは錆びた**錘**だけ。その穴の空洞で、太鼓に似た振動がまだ生きている。
雪兎が錘を拾い、「君の空洞へ入れて」と差し出す。
わたしは胸の**空隙**を開き、錘を沈めた。
重さはない。それでも確かに、無名の鼓動が新たな節を刻む。
29
「終わらない終章だ」
グルームの紫炎がゆらりと漂い、空海全体が深い呼吸を一度ついた。
雲のような水は再び静まり、逆さだった虹は水平線の輪郭へ吸い込まれる。
雪兎はわたしの手を取り、薄い微笑みを載せた。
「名を捨てた君へ、代わりの呼び方がいる?」
わたしは首を横に振る。空洞の**鈍音**が、それでいいと鳴った。
30
グルームがランタンを閉じ、その火を雪兎の掌へ移す。
火は水棲の白兎を透過しながら、バニラと鉄を混ぜた甘苦の匂いを増幅させる。
――甘さは割れて初めて香る。苦さはそれを運ぶ舟。
わたしは無名の喉でその香りを呑み込み、骨の奥へ灯した。
31
空海の水平線がじわじわと開き、向こう側へ“途中”の文字が浮かび上がる。
ゴールでもスタートでもない座標。わたしたちは三影一体で、その文字を跨いだ。
重力が戻り、潮の香りが懐かしい地表を思い出させる。
けれど足の裏はまだ水。
振り返ると、ガラス片一粒が宙に残り「ばらばらこそ――」と無声で瞬く。
わたしは欠片へ背を向け、鉄と甘味の呼吸を深く吸った。
*こころメモ*
境界は踏むと割れる。割れると光が滲む。
その光には痛みが混ざる――だから眩しい。
32
雪兎が歩幅を揃え、「途中を行こう」と言う。
グルームはランタンの火を風へ渡し、「祈りじゃなく動きで」と笑う。
わたしは頷き、胸の錘を確かめた。
行先のない道が海霧の奥へ伸びる。
潮風にまぎれた太鼓の残響が、まだ小さくドゥムルと鳴る。
わたしたちは歩きながら、断片を拾い、ほどき、また拾い――
終わらない途中を、終わる強さで抱き続けた。
――おわり。
読了ありがとうございます。
このお話は、水にまつわる境界で“迷うこと”そのものを抱きしめるラブホラーとして書きました。怖さと甘さの配合は少しビター寄りですが、別口で 童話版『まいごのチョコレート』 を Tales に投稿しています。
Tales版の特徴
・文体をやわらかく、読み聞かせしやすいテンポに調整
・怖さは控えめ、余韻はそのまま
・5才~8才まで想定
https://tales.note.com/noveng_musiq/ww9yw0cdd6e66
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それでは、また“途中”でお会いしましょう。ありがとうございました。