【前編 漣のオルター・サイド】
01
港町シオディエの夜は、みずかぜが塩砂をまき散らし、防波堤の継手を軋ませていた。
わたし――**雨鳥星火**は、白波よりもやわらかな月光を背に、首筋へ張りつく潮のざらつきを舌先で想像していた。
潮は甘く、ほんのり鉄の匂い――血液が夜へ溶ける前触れの味。
水面下から届くのは声ではなく振動だけ。
『ここだよ』――誰かが海膜を揺らし、世界の音量をひと息で抜き取った。
視界は一転、鼓膜は真空。それでもわたしの脈だけが耳朶を叩く。
02
苔の隙間を縫って、銀青色の指先が現れる。
続いて水を纏った青年が“匣割り”の妖術で立ち上がった。
「風谷雪兎。水鏡の遠泳者だ」
指は白鳥の嘴、瞳孔は暗礁の深黒。
わたしは胸奥で彼を〈漂光者〉と命名する。名付けはわたしの癖。
03
雪兎が問い掛ける。
「君は何を沈めに来た?」
「わたし自身」――迷うことなく応えた。
“行き場のない道”を探し続けた幼い日々。終わりを拒むなら、そもそもの始まりを水没させればいい。
雪兎は笑いもせず、わたしの手首をとる。
冷たい。その瞬間、脈拍の噛み痕が互いの肌へ刻まれた。
04
防波堤の割れ目でするりと足場が崩れ、ふたりは下方へ落下――いや浮上。
潮騒が裏返り、わたしは逆さの街〈転潮界〉に着水した。
宙を泳ぐクラゲの街灯。苔と貝殻を敷き詰めた石畳。
そこで黒檀色のローブを翻すシグネッタ・グルームが待っていた。
「境界潤滑師、シグネッタよ。水の縫目に油を差すのが仕事」
彼女はわたしたちを一瞥し、潮香に混じるバニラの匂いを残して踵を返す。
導きとも拒みともつかぬ背中。けれど影だけが小躍りし、招くように伸びた。
*こころメモ*
境界の油は甘いのか、滑りを良くするため苦いのか。味見はまだ、怖くて楽しい。
05
影に誘われて進むと、夜は渦を巻いて縮んだ。そこに佇むのは錆色の回転木馬。
木馬たちはおが屑を吐きつつ、たてがみに空洞を抱える。
「この馬、何を食べるの?」
「ため息だけよ」
グルームがたてがみを撫でると、空洞から塩辛い空気が噴き出した。
わたしはその空気を肺へ含み、自己の輪郭が薄く透明になるのを感じる。
*こころメモ*
空は軽い。軽いから飛べる。飛べるけど、着地先を忘れたら?
06
木馬が勝手に回り始める。
がらん、と金属が摩れる音は渋い苦味だが、リズムだけは陽気。
わたしは鞍代わりの熊に跨がり、宙へ浮く蹄を愛おしんだ。
グルームが囁く。
「ゴールを踏むと、人は消える。だから皆ゴールと鬼ごっこ。でもあなたは跳びたがるのね」
「脚がどこにも着かない方が“自由”だから」
わたしの声はガラスを弾いたように澄み、その破片が夜へ散った。
07
“破片”が水滴へ変わり、天から零れ落ちる。
雨ではなく、涙でもない。それは影汗――影がかくした恐怖の排泄。
足元には鋸歯の影だけが残る。
グルームがわたしの手を取る。冷たく、硝子質で滑らか。
「錆が怖い?」
「怖いけど、嫌いじゃない」
わたしは笑顔を薄く塗り、その温度差を楽しむ。
08
遠くで太鼓が鳴る。
――ずんちゃ、ずんちゃ。
揺っくりと胃袋を撫でる低音。
グルームは耳朶を傾け、「くねくねパレードの招待曲ね」と呟く。
09
そのとき夜風が鏡――枠のない水面鏡を運び、わたしの目前へ落とした。
のっぺらぼう。けれど裏側で誰かが欠伸している気配。
「夜が水玉を覗くための目よ」
グルームが鏡を蹴ると、水光が炎のように跳ねる。
わたしは掌で表面を撫で、薄い膜の向こうに眠る“もう一人のわたし”を指先で揺らした。
10
『ばらばらこそ、まとまり』――境界のない声が脳裏で波紋を描く。
すぐそばで太鼓が音量を上げ、夜景を脈動させた。
鏡の奥に映るメリーゴーラウンドは砕け、木馬は水滴へ解け、影汗がさらに増殖。
わたしは鏡を抱き、胸の内側で割った。
ぱりん――硝子が夜を刺し、黒光りの雫を散らす。
*こころメモ*
鏡の破片は星に似ている。痛みを灯す小粒の光。光は暗闇を飼って育つ。
11
散った破片が月光と混ざり、夜は少しだけ明るくなる。
壊れた木馬の代わりに、遠方へ太鼓の列――くねくねパレードが進軍してくる影。
雪兎が足元の水紋から再び顔を出し、「次へ行こう」と手を差し伸べた。
わたしは割れた鏡の欠片を懐に仕舞い、かすかな躊躇を潮風で洗い流す。
――途中はまだ終わらない。けれど途中をゴールにできる可能性が、わたしを前へ押す。
12
太鼓が腹底を鳴らし、影が行進のリズムを刻む。
夜は再度膜を張り替え、塩味にバニラを混ぜた匂いが**招待状**として漂った。
グルームは木靴の踵でリズムを刻み――導き手でもあり、狂言回しでもあり。
雪兎の白髪が湿気を含み、星火の頬へ弾ける水滴を散らす。
わたしはその煌めきに目を細め
「とける前に、甘いを覚えたい」
と呟いた。
グルームが黒檀のローブを翻し、しっとりと笑う。
「なら、わたしが“甘い”を破ってあげる。甘さは割れて初めて香るもの」
ぱちん。
ライトが一つ消え、夜が新たな天蓋を組み直す。
ずんちゃ、ずんちゃ――太鼓が胸骨を揺らす低音。
*こころメモ*
進むでも戻るでもなく、夜の方からわたしに近づいてくる。
だから怖い。でも、跳ぶほど軽い。
――そして、くねくねパレードのリズムが足元を満たしたところで
前編、終わり。