プロローグ
夜の帳が下り、天に浮かぶ月のみが淡く照らす街の中を歩く女性が一人。
建物の壁に手を添えつつ、乱れた呼吸を繰り返し、脚を引きずりながら進んでいく。
女性の足が止まる。
視線の先には人工的な明かりで存在を主張する店があった。
光を求めるように店の方へと吸い込まれていく。
木造建築の小洒落た飲食店だ。
やや立て付けの渋い扉を開くと芳醇な酒の香りが鼻腔を吹き抜けた。
さほど広くはない内装は隠れ家的な雰囲気を演出している。
女性は崩れるようにカウンター席に座り込む。
他の客が居たら怪奇の目で見られていただろう。
だが、店内に居るのは店主の男性のみ。
眩しい金色の髪、精悍な顔立ち、服の上からでも分かるほど引き締まった身体付き、年齢以上の風格を兼ね備えた青年だ。
店主は驚きの色に染めつつ、心配そうな声色で女性に話しかける。
「大丈夫か?」
黒いベールに覆われているため表情は分からないが、大きく上下する肩を見るにかなりの疲労が蓄積されているのは容易に想像できた。
テーブルに乗っている彼女の腕。長袖と手袋の隙間から覗き込む素肌には悍ましい傷跡が刻まれていた。
先程より重い口調で問いを繰り返す。
「……大丈夫か?」
女性は掠れた声で今一番求めている物を口にする。
「申し訳ありません。……お水をいただけませんか?」
店主はすぐに水を用意する。
この仕事に就いてから何十、何百と繰り返してきた動作を行う。
だが、その手際にはほんの少しだけ動揺が隠れていた。
胸に手を当てて呼吸を整えてから、女性は両手でコップを持ち口元に運ぶ。
何度か水を飲んだ後、落ち着いた女性は感謝を述べた。
「ありがとうございます。お幾ら支払えばいいでしょうか?」
「水一杯に値段はつけてないから分からないな」
「でしたら一杯頂いてもよろしいでしょうか?」
「こちらとしては有難いが、だいぶ疲弊しているのに酒なんて飲んで大丈夫か?」
女性はベールの奥でくすりと笑う。
「お気遣いありがとうございます。少しくらいなら問題ありませんので。それにこんなに素敵なお店の味を知らず帰るのは勿体ないです」
店主は店を褒められたことに複雑な感情を抱きつつ注文を聞く。
貴方が一番自信のある品、と注文されて苦笑いを浮かべながら自慢の一品を作り始める。
その最中、女性のことを観察する。
紫混じりの腰まで伸びた黒髪、上等な仕立ての漆黒のドレス。
どこか浮世離れした落ち着き方、全身から醸し出される上品さを鑑みるに貴族か、それに準ずる上流階級の人間だろう、と店主は予想する。
とはいえ突然、雪崩れ込むように店に入ってきた存在。
黒いベールで顔を隠していること、腕の痛ましい傷痕も相まって訳ありなのは確かだろう。
店主の内心に微かな期待が芽生える。
「俺の最高傑作だ。御賞味あれ」
やがて、出された店主自慢の一品をひと口飲んだ女性は感嘆の声を溢す。
「とても美味しいです」
「喜んで貰えて良かった。ゆっくり味わってくれ」
「ではお言葉に甘えて」
店内に二人きりということもあり自然と会話は続いた。
ただ、会話をしている中でも店主の眼は女性の傷痕だらけの腕へと向いてしまう。
視線を感じた女性は裾を伸ばして僅かに見えていた素肌を隠す。
「お見苦しいものを見せてしまいました」
「いや、謝罪するのは俺の方だ。無遠慮に見てしまってすまない」
どうしても気になってしまった店主は問いを投げかけた。
期待が着実に膨らんでいくのをひしひしと感じる。
「失礼を承知で聞くが、その傷痕は?」
「御伽噺の世界に足を踏み入れた代償です」
店主は大きく反応する。
カウンターテーブルに手を置いて、客側に勢いよく身体を傾けた。
「──魔女か?」
「……お顔が少々近いです」
前のめりになっていたことを自覚し、店主は身体を引っ込める。
「すまない。初対面なのに無礼を重ねてしまった」
「どうかお気になさらずに。その昂ぶり……魔女に特別な想いがあるんですか?」
魔女、という単語を聞いて大体は二択の反応がある。
一つは拒絶。
一つは憎悪。
女性はある単語の部分だけ語気が強くなった。
上手く隠しているようだが、それは間違いなく憎悪だ、と店主は結論付ける。
「俺は魔女によって祖国を滅ぼされた」
「………………」
「今は魔女を滅ぼすために活動している」
「このお店は隠れ蓑ということですか?」
店主は腕を大きく広げる。
店そのものを強調するように、溢れんばかりの自信を表現するかのように。
「生活、実益、趣味、仲間集め──全てを兼ね備えた俺の城だ。蓑ではなく本拠地と思ってくれ」
「仲間集め、というのは?」
「ああ、仲間の一人に魔術師がいてな。魔女に縁がある者を引き寄せる術式を店に組み込んで貰ったんだ。効果は折り紙付きで既に二人も仲間になったんだ」
「その術式では魔女そのものを引き寄せてしまう可能性もあるのではありませんか?」
店主は不敵に笑う。
「標的が向こうからやってきてくれるなら好都合だ」
そう言ってから、店主は真剣な瞳で女性を見据える。
「魔女に復讐したいと思うなら、俺と、いや、俺たちと共に行こう。──正義は我等にあり、だ」
「それは……」
「俺はいつも此処に居る。決心が付いたら教えてくれ。もちろん、ただの客としても歓迎だ」
にこやかに笑った店主につられて女性も笑う。
「お名前を教えていただけませんか?」
店主は金色に輝く髪を揺らし、凛とした佇まいで己が存在を明かす。
「俺はエリオット・オースティン。魔女の殲滅を目標に掲げる──『魔女に与える鉄鎚』の創設者だ」