表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

いつもの電車といつもの本と

作者: めがね

 毎日は同じだから安堵するのだ。

 ひとつ違えば、全てが狂う。その狂いが人によってはストレスとされるのだ。自分はそういうタイプの人間だ。

 だから、今朝も同じ光景に安堵し、そして少しだけ心が落ち着かなくなる。その正体が何であるかはわからない。ただ、毎日同じ人を見る度、落ち着かないのだ。

 前から3両目、前方2つめの扉のすぐ横の椅子。座っているが背が高いだろうことはよくわかる。30代くらいだろうか。黒に近いスーツを着こなし、その姿勢はよく、長い足はきちんと揃えられている。その手には少し厚めの文庫本。もう片方の手は適度なタイミングでページをめくっていた。やや前髪に隠れてはいるが眉目秀麗と言っても過言ではない。切れ長の瞳は文字を追っていて、その間には黒で縁取られたメガネがあった。

 一度見てしまうと、どうしても視線を外すことができなくなる。

 毎日、毎日。

 同じ時間の同じ電車で、同じ場所にいるかの男。その男から、自分はどうしても目が離せないのだ。理由はわからない。遍歴をさらったところで、自分には女性の恋人がいただけで、そういった趣味嗜好はない。しかし、自分よりも背が高く、恐らく結構な年上であろう男を見てしまうのだ。

 目が離せなくなり、そして心が落ち着かなくなる。もう何ヶ月にもなる。その姿がない日はどこか心が重い石にでもなったような錯覚を覚えた。そして自分が降りる駅の2つ前のアナウンスが聞こえるとまた、石が増えるのだ。

 男は2つ前のその駅で毎日降りて行った。そこはいくつもの路線が重なる大きな駅で、主に周辺はビジネス街だ。サラリーマンだろうか。あれほど均整が取れた秀麗な男が営業職でもやっていようものならば、不可抗力で売り上げもよくなるかもしれない。

 仕事はなんだろうか。メガネ姿はどこか知的な印象を受ける。企業の内勤者か、もしかしたら起業家か。IT関連という可能性も大いにある。

 と、無駄な想像をしては、毎朝大学へと向かうのだった。





 大学生にとって休日とは、バイトに明け暮れる一日でもあるだろう。朝から15時までの家庭教師のバイトを終え、帰るころまたいつものくせで、同じ車両に乗ってしまった。無論あの席にいつもの男はいない。だが目が自然とそこに向くのだから仕方がない。

 休日だ。もしかしたら、どこかに出かけているかもしれない。いや、もしかしたら、と。急に心臓が嫌な音をたてる。なぜ、今まで考えもしなかったのだろうか。結婚をしていて子供と休日を過ごしているかもしれないではないか。きっと静かな場所で、本の続きでも読んでいるのだろうと勝手に妄想をしていただけに、新しく浮かんだその想像はかなり衝撃的だった。結婚はしていないにしても、あれだけの容姿の持ち主だ。恋人くらいいるだろう。ならば休日は共に過ごすに違いない。

 一般的なことだ。

 誰かを好きになって、恋人ができて、結婚をして、子供ができて…。なぜ、そんな簡単なことが考えられなかったのだろう。その答えはそれほど考えずとも、出てきてしまった。

 考えられなかったのではない。

 考えたく、なかったのだ。

 では何故、考えたくなかったのか。

 痛む心臓も、外せない視線も。

 ーーーーーー好きならば、仕方がないことだ。

 大きくため息をついた。

 恐らく一目惚れだろう。外見で惚れたのかと問われたならば、そうだと答えるしかない。しかも相手は同性だ。名前も知らない、話したことすらない。重ねていうようだが、相手は年上の男だ。

「いろいろ…絶望的だろ」

 思わず漏らした一言は誰にも聞かれることはなかった。ちょうど駅に到着した電車の扉がひらく音にかき消されたのだ。

 人々が移動をする。電車を降りる者、その後に乗り込んでくる人々。ここは商業施設がいくつもある大きな駅だ。休日のこの時間、たくさんの荷物を持って乗ってくる人が多いはずだ。自分が降りるのはまだ先の駅だ。まっすぐ帰って、レッスンでもしよう。そうしてまた、月曜の朝をむかえるのだ。いつもの毎日をーーーーーー。

「ーーーーーーっ…」

 つと、視界の端に入り込んだ人影。普段なら気にもしないそんなことに気がついたのは、それがずっと見続けていたものだからだろう。

 視界の端に、男を捉え心臓が大きく鳴る。この電車にあの男が乗り込んできたのだ。いつものスーツ姿ではない。キャメル色のコートを羽織り、その下にはモスグリーンのセータとジーンズ。スーツ姿ではないせいか、少しだけ若く見える。いつも本をもっている手には大きな紙袋が2つ。毎朝文字を追っている視線は、後に続いていた。

「買いすぎじゃないか」

 そんな声とその視線の先には、女性がいた。

 初めて聞いた男の声が、何度も頭の中で再生される。とても綺麗な声だ。少し低めで、喉の奥から掠れるような音が心地よい。容姿に比例している。だがその言葉を向けた先には、女性がいるのだ。

 先程の妄想が、現実となった。

 男の美しい声と引き換えに、何もはじまることがなかった一目惚れが終わったのだ。どうにかなることだと思っていたわけではないが、こうも呆気なく終わるとは情けなかった。

 それでも、男から視線が外せないのだから、やはり恋というものは、馬や鹿になることなのだろう。今度は小さなため息が出る。

 帰宅したら、ショパンだ。そう決めた。




 それから毎朝、乗る車両を変えた。

気持ちとしては、いつもの場所に行きたかったが、恋愛ばかりに頭を悩ませている時期ではなくなってきたのだ。

 卒業試験というものが迫っていた。無論、このためにこれまでずっと練習をしてきた。毎日、毎日。同じ時間の電車で学校へ行き、帰宅してからもレッスンを続けていた。結果としては問題はなかったが、自分に欠落していたのは、「何がしたいか」というところであったと気がついた時、すでに周りの友人たちは就職先や自身の身の置き場を決めていたのだ。

 幼稚園の頃から続けていたピアノを弾くことで大学まできた。だが将来、ピアノを弾く職業に就きたいのかと真に考えた時、自分には「したい」という気持ちが足りていなかったのだ。

 スマートフォンを手に、見上げたのはとある屋敷。地図アプリがなければ、とてもたどり着けそうにない。ここは都内とはいえ、かなり奥地でもう少し進めば山も近いそんな場所だ。不釣り合いな大きな洋館は、まるで映画のセットのようであった。だが今日から自分はここで働くのだ。単なる事務員として。古風な言い方をすれば住み込み。やや怪しい求人かもしれないとは思ったが、大学の就職課に情報があったということは保証はされているのだ。そして何より自分の興味を引いたのは、ピアノがあるということだった。自由に弾いて良いというのだ。代表者が音楽好きだから、自分が通っていた音楽大学に求人があったのだろう。

 とにかく、自分はここで頑張ると決めたのだ。今は、この扉を開ける以外、選択肢はない。

 重い音がするインターホンを押した。

 名を名乗ると、すぐに女性の声が返ってくる。大きな扉が開くと、その先はやはり映画のセットような洋館であった。

 中にいた女性ににっこりと微笑みかけられる。と、なぜかそこで既視感に襲われる。可愛らしい女性だ。歳のころならば20代半ばだろう。会ったら忘れないくらいには可愛らしい女性だが、覚えはない。だが何かがひっかかる。

「まだボスはミーティング中だから、少しだけここで待っていてね」

 そう言われ、通されたのは休憩室のようなところであった。コーヒーマシーンに、電子レンジ。クッキーやフルーツが置かれたカウンターが部屋にはあった。自由に飲んでいいということなのかもしれない。福利厚生がしっかりと設定されていたことも、良い就職先の条件だ。

 すると部屋の扉が3回ノックされた。ついにここのボスがきたようだ。自分を卒業ギリギリの時期に採用してくれた、この屋敷の持ち主であり、ここの代表者。

「失礼します」

「ーーーーーー!」

 扉の向こうから聞こえてきたその声に、一瞬、息が止まった。

 低い、声だ。

 ゆっくりと扉が開き、入っていたのはまだ若い男だった。

「待たせてすみません。どうぞおかけください」

 そう、低い声だ。とても美しい。喉の奥から掠れるような声。一度聞けば、忘れられなかったそれ。

「ーーーーーーは、い…」

 緊張をしていたが、今は別の緊張が全身を駆け巡っていた。いっその事、息が止まった方が楽な気さえしてくる。

 男は黒縁のメガネを外すと、それをきっちりと着こなしたスーツの胸ポケットにしまう。切れ長の瞳が、前髪の間からこちらを見た。

「では、まずは自己紹介をお願いします」

 やはり、息ができていなかった。

 ずっと目が離せなかった。あの電車の中で。いつも姿を目で追い、どんなことがあるか想像をしていた。声を聞いたのはたった一度だけだったが、忘れることはなかった。美しく、低めの声。

 あの男が今、目の前にいて、自分に話かけてきている。

 これは明らかにーーーーーー。

 これまでと同じ毎日ではない。

 違う日々が始まる。

 そう、思った。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ