1、空の商人
鐘が鳴った。飛空商船の鳴らす警鐘だった。
その飛空艇の甲板で、寄港の準備に取り掛かっていたスローは、手を止めた。彼だけではない。巨大な空飛ぶ商船に乗り込んだ全員が、足をとめ、耳をそばだたせた。
目的地である空中都市ブラドは、目前だった。あと少しというところで、みな、困惑した。
「空賊だぁ!」
男の声が響いた。監視役の声だった。男は顔を引きつらせ再度、双眼鏡を覗き込み、左舷の空をみた。
自然、甲板にいる全員が、不安の色をみせながら、船べりに集まった。
清々しい青の大気が、広がっている。所どころ、漂う雲が映るだけで、なにもない。空賊の船など、どこにも見当たらなかった。
「お、おい! どこにいるんだ!」
船員の一人が、声を上げた。みな、せわしなく目を動かしている。一度芽生えた恐怖心が、船全体に伝播していた。
くすんだ金髪を風になびかせながら、スローも舷側から身を乗り出し、わずかな変化も見逃すまい、と目を凝らした。空賊という言葉を聞くと、そうならざるをえない。とくに、飛空商船は、恰好の的だった。
嫌な予感がした。こういった不吉な予感は、たいてい当たっている。
スローが、初めて飛空艇に乗ったのは、五年前だった。当時十八のスローは、空域で一、二を争うほどの、巨大な飛空商船に拾われ、空中都市や地上を、縦横無尽に駆けまわっていた。
飛空艇が誕生して以来、空賊も生まれたが、スローが飛空艇に乗り始めた頃から、特に活発な動きをみせるようになっていった。
飛空艇で商売をするクランにとって、常に悩みの種だった。現状、できることといえば、高値で傭兵を雇い、護衛艇として守らせることだった。残念ながら、この傭兵に関しても、悪徳な人物にあたれば、商業クランの悩みを増やすことになった。
スローは、舷側から身を乗り出し、あたりを見回している。スローが、最初に感じた異変は、音だった。低音で、一定のリズムを刻んでいる。
飛空艇のエンジン音か、と思ったが、確かではなかった。不吉な何かが、迫ってくる、そんな焦燥を覚えた。
そこへ、大きな足音と共に、勢いよく扉が開かれた。体格のいい男が、甲板へあがってきた。筋肉の鎧をまとい、褐色の肌に白髪で、顔に深い傷が残っている。この飛空艇の船長、オイールだった。
「何やってるんだ、貴様らぁ! 仕事をさぼるんじゃねぇ!」
とドスの効いた声で怒鳴りつけ、監視役の男のそばへ寄った。双眼鏡を奪い取り、唸り声をあげながら、一望する。
空は依然、静けさのなかにある。
「なんもねぇじゃねぇか…!」
船長の血管は怒張し、監視役の首元をつかんで、軽々と持ち上げ、
「馬鹿野郎! 不用意に鳴らしやがって! てめぇ、どこに目ぇつけてやがる!」
その時だった。
「船長!」
と、スローが、左舷後方にある雲を指さした。
「あそこにいるぞ!」
一つだけ、わずかに発達している雲があった。甲板にいる全員が、凝視した瞬間だった。
その雲を割って、勢いよく飛空艇が飛び出した。その舷側には、悪名とどろく空賊『ロス・レイス』の名が刻まれていた。
みな、血の気が引いた。
悲鳴を上げて、逃げる空挺員や、腰を抜かして、動けなくなるものもいた。甲板が騒然となった。
空賊の飛空艇のクラスは、フェザロールというもので、中型に位置する大きさだった。スローたちが乗る飛空商船のおよそ半分程度で、二基のグレス製、魔導ターボエンジンを搭載した高速艇だ。その最高速度は、音を超える。
スローたちの鈍重な商船では、まず、逃げ切れない。空賊に襲われた商船の末路は、みな承知している。死を覚悟して白兵戦か、パニックで船から飛び降りる者もいる。あるいは、従順な羊になるかだった。
つまり、この場にいる全員が、等しく絶望に呑まれていた。
ところが、飛空艇をみたスローが、あっ、と声を上げた。
空賊艇は、機関部から黒い煙を吐き出していた。二基の魔導エンジンも不整脈を鳴らして、火を噴いている。舵がきかないのか、空賊艇は、大きく旋回して、スローたちの乗る商船へ、船首から迫ってきていた。
「船長! 回避を!」
スローが叫んだ。
「馬鹿をいってんじゃねぇ! 何事も急には曲がれねぇんだ!」
と、オイール船長は、船橋へ声をつなぎ、
「砲撃の準備をしろぉ! あんな羽虫、叩き落としてしまいだぁ!」
「無茶です、船長! 船首上げます!」
船橋は、混乱を極めていた。背後で操舵や機関部の声が入り乱れている。
「馬鹿タレ! 急上昇して商品に傷をつけてみろ! てめぇ、責任とれんのかぁ!」
「そ、そんな! 船長!」
この時、飛空商船が、回避運動に徹していれば、船体に擦過する程度で済んだかもしれない。当然、積み荷はダメになるが、空賊に襲われれば、多くの商船は、幸運が降りない限り、全てを失う運命にある。
オイールは、強欲が過ぎた。
空賊と出くわし、それも、この空域で凶悪とされる賊に襲われてなお、積み荷も、飛空商船も守ろうとした。
もちろん、これは彼だけの責任ではない。本来、飛空商船には護衛の傭兵艇をつける。契約金は、安くないが、襲われても逃げ切れる可能性があった。
しかし、オイールと彼の所属する商業クランは、商船を武装することで、安易な解決をはかった。それが、あだとなった。
「いいから砲撃だ! 連打しろ!」
「間に合いません! 都市ブラドへ救援を求めるべきです!」
それこそ、間に合わないことだった。都市ブラドは目前とはいえ、航空軍艦の出動するころには、この船は地上の塵となっているだろう。
もはや、船橋に冷静な判断は下せなかった。
彼らの悲痛な叫びも届かず、オイールは、自ら砲手となって、空賊の船へ咆哮した。25ミリ魔導弾を、間断なく撃ちこんでいく。砲撃の反動で、オイールの筋肉は、声をあげて喜んだ。
「うおおお! あたれぇ!」
飛空商船は、砲煙にまみれ、火を噴いた。遅れて、他の砲口も攻撃に加わった。
頭から突っ込んでくる空賊艇は、弾雨にさらされ、船体がもぎ取られていく。黒煙と猛火に包まれながら、それでも、勢いは衰えない。
スローはマストの中ごろまで登って、空賊艇を見据えていた。
堕ちない。
スローの眼には、商船が沈む未来が、映っていた。
「おい! スロー!」
仲間の空挺員が、救命具を投げてよこした。
「早くつけろ! この船はもう、終わりだ!」
他の連中も、我先にと救命具を手に入れるが、震える手で、うまくつけられない。混乱と悲鳴が、商船を支配していた。
スローは、マストに腕を括り付け、空賊艇から眼をそらさなかった。迫る劫火を、身体一つで受け止めようとする様だった。
「衝撃! くるぞ!」
スローの一声で、みな、頭を低くした。
次の瞬間、天地がふるえるほどの轟音が、鳴り響いた。
船体中央が、割れた。
衝撃で、多くの空挺員たちが、投げ出された。
空賊の船は、左舷に突き刺さっている。勢いが衰えない。魔導エンジンは、発火してもなお、出力し続けていた。商船胴体にめり込み、船体を引き裂こうとしている。
飛空商船は、うねり声をあげて、右舷へ大きく傾いた。
スローは、傾く甲板にしがみついている。周囲には、まだ、何人か残っていたが、みな、救命具を頼りに、次々と飛び降りていく。途中で、落下傘が開く。
船体の裂け目が、音をたてて広がっていく。商船が、地に落ちるのも、時間の問題だった。スローも救命具をもって、脱出しようとした時だった。
野獣のような声が、鼓膜を震わせた。
オイール船長だった。
船体の裂け目を伝って、空賊艇の船首に登った。腹に刺さった木片をそのままに、
「馬鹿タレがぁ…」
と空賊艇を、睨みつけた。
「船長!」
スローは、力を振り絞って、甲板を登っていく。
どうにか、空賊艇に乗り移ると、
「船長! これで脱出を! あとはあんただけだ!」
スローは、持っていた救命具を手渡そうとした。
オイールは、それを一瞥して、
「お前がつけろ。オレはいらん」
スローは、怪訝な目で、オイール船長の視線を追った。
「まさか、捕まえるつもりですか!」
「当たり前だ。この商船に、一体どれだけの価値があったと思ってやがる」
オイール船長は、腹に刺さった木片を押さえて、
「タダでは帰れん。それじゃぁ、死人と同じじゃ」
「船長…!」
スローの制止を振り切り、オイールは、咆哮した。
「出て来い! 賊がぁ! 清算の時じゃ!」
その叫びに呼応してか、空賊艇の操舵室から、一人の女が飛び出してきた。
その姿に、スローも、オイール船長も、言葉を失った。
肩まで伸びた白髪で、細く、白い腕が露になっている。
「空賊?」
スローは内心、驚いた。
彼女が、本当に空賊なのか、と目を疑った。齢は、スローより若く見える。
「関係ないな。賊は、賊だ」
オイール船長が、腰のホルスターから小型のハンドガンを引き抜いた。おそらく、護身用のもので、威力はない。
すると、白髪の彼女は、
「この空賊の船なら、まだ使える。急いだほうがいいよ」
そう言い残して、空賊の船から飛び降りた。
「お、おい!」
スローが、手を伸ばすまえに、白髪の彼女は、地上へ向かって落下していた。
オイール船長にいたっては、引き金を引くのを忘れて、それを目で追うだけだった。
その後、どこからか小艇が現れて、彼女はそれに乗り込んだ。
彼女は、一度こちらを見ると、手を振って、どこかへ去っていった。
「ぞ、賊がぁ…!」
オイールは、絞り出す声で、憎しみを吐き出し、倒れ込んだ。
腹からの出血がひどい。
「船長!」
スローは、駆け寄ると、一刻の猶予もないことを悟った。
オイールの巨体を引きずって、空賊の船内へ運びいれた。
操舵室には、激しい戦闘の跡があった。スローは、一瞬血の匂いがして、ひるんだ。
しっかりしろ、と頭を振って、機器類と向き合った。白髪の彼女が言ったように、確かに、まだ動く。
「さすが、空賊の船だ。しぶといな」
エンジンの出力は止められない。おそらく、一度止めると、再点火は難しい。このまま、商船を突き破って、発進するしかない。
「船長、船は諦めてもらいますよ」
スローは、スロットルレバーに、手をかけた。魔導エンジンが、悲鳴をあげている。出力は、まだある。
「頼む、まだ、終われないんだ! 頼む…!」
身体をのけぞらせ、祈るように操縦桿を引いた。