29 バディ
突然、奇妙な音が聞こえ出し、あたりの風景が歪んだ。
いや、歪んだだけじゃない。
それは、わけのわからない色彩と光の塊になって踊り出し、周囲はものすごい轟音に包まれた。
上も下もわからない。
自分がどこにいるかもわからない。
「シャノン! テルク!」
と叫んだつもりだが、自分の声さえ聞こえない。
目を閉じても見える。
耳を塞いでも聞こえる。
わけのわからない色彩と光と轟音が、容赦なくユーリの中に侵入してくる。
嵐の中で波に揉まれる木端のように、ユーリはなすすべもなくただ揉みくちゃにされるしかなかった。
ユーリは思わず、つかんでいたシャノンの手を強く握りしめた。
その手の存在だけが、今やユーリにとって唯一の確かな世界とのつながりだった。
「シャノン! シャノン!」
ユーリはこの瞬間に、自分がいかにシャノンという存在に支えられていたかを痛感した。
泣きながらシャノンの腕にしがみつく。
しがみついたユーリの腕に、シャノンが指文字を書きつけてきた。
『大丈夫だ。俺はここにいる。』
* * *
シャノンは少し走っては足で苔むした地面を弄り、記憶している地形と重ね合わせる。
相変わらず糸は探り当てられない。
この方向で合っているか?
ゲルドグのスピードも相変わらず遅い。
それは助かるが・・・。
ヤツはこちらを捕捉しているはずだ。なのに、なぜ走り出さない?
ゆっくりと散歩でもするような歩調で歩いてくる。
そうはいっても1歩が大きいから、徐々に距離は詰められているが——。
その時、右脇に抱えていたテルクが不意にシャノンの胸を片手でポンポンと叩き、体を起こして地面に足をついた。
そして、シャノンの腕に糸玉を押しつける。
シャノンは驚いた。
この状況の中で、魔界に精神を捕らえられても、テルクは糸を手繰っていたのか?
『シャノン こっち』
旅の中でユーリに教えてもらった片言の指文字を、テルクがシャノンの腕に書きつけてきた。
さらに驚いたことに、テルクはシャノンの右手を自分の肩の上に乗せると自分の足で歩き出した。
糸を手繰っているらしい。
さっきまでユーリと同じようにパニックになっていたのに、テルクの精神はどうやって魔界から抜け出したのだ?
だが、これはありがたかった。
抱えるのが1人になっただけでなく、方向がはっきりしたことで逃げる速度が速くなった。
ゲルドグの振動が遠ざかってゆく。
こちらの速度が上がって引き離しているのか?
やがて足裏に感じる振動が微弱になり、ほどなくして臭いも薄らいだ。
どうやらヤツは追いかけるのをやめて、森の奥に戻り始めたらしい。
逃げ切れた・・・のか?
どうにか危機を脱することができた——ようだ。
『結界だ。』
とユーリがシャノンの左腕に書き込んできた。
それから姿勢を変えて足を地面につけたようだった。
結界に近づいて、ユーリも魔界から抜け出せたらしい。
シャノンはユーリの体を抱えていた腕をほどき、その手を肩から腕へと滑らせ、いつものように手と手をつなぐ形に戻した。
そうしたら、シャノンの全身の緊張が一気に弛んだ。
うっかりするとへたり込んでしまいそうだ。
* * *
ユーリの耳をつんざいていた轟音が小さくなり、やがて消えると、同時に視界も戻ってきた。
森の風景だ。
前方に結界が見える。
『結界だ。』とシャノンの腕に送り、地面に足を下ろす。
そうしたらユーリはなんだか無性に恥ずかしくなって、ひとり顔を赤らめた。
テルクは? と見ると、目を瞑って糸を手繰りながら結界に向かって歩いている。その肩にシャノンの右手が乗っていた。
わ・・・わたしがシャノンに抱えられて泣き喚いてる間、テルクは糸を手繰ってシャノンを先導していたのか・・・?
わたしは・・・
・・・・・・・・
これまで「スリーセンス」なんて呼ばれて、シャノンの相棒として、いっぱしにやってきたつもりだったけど・・・。
何の役にも立ってないじゃない・・・。
テルクの方が、よっぽど相棒に相応しいじゃないの・・・。
「テルク。もう目を開けても大丈夫だよ。結界が見えるよ。」
ユーリはかろうじてそれだけを言うと、うなだれたようになってシャノンの手を放した。
ところが次の瞬間。
シャノンが狼狽えた。
表情が不安でいっぱいになり、テルクの肩から右手も放して両手を彷徨わせ始めた。
ユーリを探しているのだ。
その表情は、まるで迷子になった子どもだ。大人の冒険者の顔じゃない。
ユーリの匂いを頼りにだろう。その手先がユーリの肩を探り当てると、心から安堵したような顔を見せた。今にも泣き出しそうな顔を・・・。
あ。
とユーリは思う。
シャノンが必要としてるのは・・・。
ユーリはシャノンのその手に、急いで指文字を書き込んだ。
『大丈夫。わたしはここにいるよ。黙って手を放してごめん。』