26 結界
「あそこから中に入ってはならんじゃ。」
村の古老はそう言った。
* * *
ワゴウ村は、王国の中では人が住む最西端の地である。
王都からは3日の旅程が必要だった。
ワゴウは農地に適した場所が少なく、あちこちに沼地があって、王国の中でも貧しい村である。
沼地で漁れる泥ハゼや森に自生するナクランの実が村の唯一の産物で、泥ハゼの燻製やナクラン酒などを王都に持って行って売ることで僅かな現金収入を得ていた。
人の気質は穏やかで、シャノンたちも温かく迎えてもらったが、あの定食屋のおばさんと同じようなことを言われもした。
「あんたたちも冒険者かい? 悪いことは言わない。木熟のナクランの実でも食べて話のネタにして帰った方がいいよ。」
「忠告を聞かずに森に入って行った冒険者は、1人も戻ってこないんだよ?」
村の子どもたちの話では、これまでに13人の冒険者が結界を超えて森に入っていったという。
そして、1人も戻ってきていないと。
「あそこから先は魔物の国なんだよ。人間は入っちゃいけないんだから。」
「1人も帰ってこないって、すげー話ですよね。師匠?」
テルクにしては珍しく怯えたような目をして言う。
「どんな魔物が棲んでるんだろう?」
『村にそいつが出てくることはないのか、聞いてみてほしい。』
シャノンがそう伝えてきたので、ユーリは宿として泊めてくれた家の主人に訊いてみた。
「結界からこっちに魔物が出てきたという話は聞かない。土居下のスグリ爺さんに訊いてみるといい。村一番の古老で物知りだから。」
土居。というのは村の居住地を囲むあまり高くない土手のことだ。
高さは2メートルそこそこしかないが、これでも迷いゲルドグを防ぐことはできるということだった。
このワゴウの近辺では、日干レンガに向いた土が採れない。
岩場から採ってくる石と沼の泥をこね合わせて土手を作るので、あまり高いものは作れないらしい。
「冒険者を雇うような金も、村にはありませんからの。ただ、幸いなことに黒い森の近くにありながら、今までゲルドグに襲われるようなことはあまりなかったですじゃ。」
村の集落と黒い森の間には無数の湿地と沼地があり、そこは泥ハゼの漁場であると同時にゲルドグに対する自然の障壁のような役割も果たしているようだった。
体重のあるゲルドグは沼を渡って来られないようなのである。
森までは細い道もあるが、それはナクランの実や蜜を採集に行くためだけのもので、村人は決して結界の向こうへは行かないという。
「あの結界は、今から100年ほど前に作られたという話じゃ。」
作ったのはアンドロという人物で、彼は森の奥から生還した唯一の人間だということだった。
「帰ってきた時、アンドロはまだ40そこそこだというのに老人のような顔になっていたということじゃ。」
森に最も近い沼の縁で発見された時、髪が真っ白になった彼はただただ震え続け、怯えるだけで、誰の問いかけにも答えなかったが、やがて日が経って落ち着いてくると「魔界に足を踏み入れた」と語ったという。
その後彼は村の親しい男たちに手伝ってもらって、あの場所の岩から岩に綱を張り、それを「結界」と称して、そこから先は魔物の国だから誰も入ってはならんと言ったということだった。
「なんせ、100年前のことじゃでな。わしとて聞いただけの話じゃ。」
翌日、シャノンとユーリとテルクの3人は森に続く細い道を通って、結界まで行ってみることにした。
結界は、3つの自然の大岩を結ぶ綱で造られていた。
あたりは、沼から巨岩がにょきにょきと突き出したような奇観を呈している。
観光地とするにはたしかに悪くない景色ではあるが、その先が魔獣の棲む黒い森とあっては・・・。人が気軽に訪れることのできる場所でもあるまい。
これをぶち破って森を開発しようと考えるカリンドア大臣の頭もまた、普通ではないな——とユーリは思った。
綱は古くはない。
ケーフの綱といえども弱ってくるので、7年に1度張り替えるのだとスグリさんは言っていた。
綱には赤く染められた紐が、等間隔に結んである。この紐の赤色が褪せると結界の力が弱まるとされ、年に1度は村の男と女が3人ずつ出て結び替え、魔界のものが出て来ないよう儀礼を行うのだという。
その話はスグリ爺さんに聞いたとおりシャノンにも伝えてはあるが、シャノンが「赤色」という概念を理解できたかどうかはわからない。
そもそも、色についての会話などユーリとシャノンの間ではほとんどしないのだ。
そうした村人たちの活動のためだろう、結界の前は少し開けた広場のようになっていた。
開けているといっても、結界の岩のあたりは草が生え放題の藪になっている。草が生えるのは大きな木の枝が空を覆っていないから光が差し込むせいだ。
その先は、鬱蒼とした大木の枝が日光を遮るため、苔とシダくらいしか生えない黒い森だ。
その草の藪の一部が刈り取られている。
先に行った冒険者が通っていった跡だろう。
『ゲルドグの臭いはしないが、かすかに人の血の臭いが風に混じってくる。』
シャノンがユーリの手に伝えてきた。
ユーリはそれをテルクにも伝えた。
「先に行った冒険者、喰われたんでしょうか?」
テルクがちょっと怖気付いたような顔をする。
『喰われたかどうかはわからない。魔獣という言い方も正確とは限らない。村の古老は「魔界」と言っていた。』
「この結界の先に、魔界への入り口があるってこと?」
ユーリはテルクにもわかるように、口に出しながらシャノンに訊いた。
『わからん。何も変わった臭いはしない。』
ユーリがテルクにシャノンの言葉を声に出して伝えたあと、シャノンはユーリに指文字を送ってきた。
『一度宿に帰って準備をしよう。考えられる限りの。何が起こるかわからない。』