60、幼い頃のアルベルト
「マザー、実は相談したいことがあるの」
紅茶を一口飲んで、私がそう切り出すと、彼女はまるで予想していたかのように、優しく頷いてくれた。
私は少し気恥ずかしくなり、お土産のクッキーの袋を開けて、テーブルに置いた。そして、非礼なのはわかっているけど、一枚取って口に放り込む。
(子供のフリをしてしまうわね)
「はい、何でもおっしゃってください。それにしても、たくさんクッキーを買って来てくださったのですね。さっき、子供達にも渡してくださったのに」
「ええ、マザーも食べてね。まだ他にもあるの。外出中の子供達の分が無くなるといけないからね」
「あらあら、お気遣いありがとうございます。確かに、数の計算はまだできない子が多いから、無くなってケンカになることもありますね」
(計算は、まだ無理でしょ)
私は、アルベルトに話してしまった嘘を誤魔化すアイデアを、マザーから引き出そうと考えていた。もちろん、素直に嘘をつきました、なんて言わないけどね。
アルベルトがどうすれば忘れるのか、私よりもマザーの方が、彼のことをよくわかっているもの。
私は、どう話すべきかに悩み、再び紅茶に口をつけた。
(やっぱり、少し変ね)
子供達が一生懸命に淹れてくれたのかと思ったけど、この紅茶に使われている水は、湖や井戸の水ではないみたい。
「マザー、お話の前に、ちょっといいかしら? 気のせいかもしれないんだけど……」
「紅茶でも水の違いを見抜かれるのですね。私達には、わからないのだけど……水が使えなくなったそうですよ」
(まだ何も言ってないのに)
マザーは、人のことをよく見ているから、私が何を言いたいのかを察したのね。アルベルトは、こんなところも彼女から学んでいる。
「どの宿にも井戸はあるわよね? 不具合なら他の宿の井戸を使わせてもらえないの?」
「昨日の夕方から、少し寒くなったからかもしれませんが、井戸の水が凍ってしまったそうです。だから、宿屋テンパルの方々が、魔法で水を出して配ってくださっているのですよ」
(宿屋テンパル?)
宿屋テンパルは、ハワルド家の定宿で、貴族しか宿泊できない宿だ。ということは料理長も、例のパイどころじゃないわね。
せっかく、あのパン屋に行くと催促だと思われると思って遠慮したのにな。
宿屋のチェックアウト時間を過ぎると、料理長が宿泊客を、あのパン屋に連れて行くことがある。パン屋には入らないけど、近くで見ていたりするのよね。
幼い頃の私は、そんな料理長の行動が面白くて、一人で尾行していたっけ。確かマザーと会ったのも、その尾行の帰り道だったと思う。
(いろいろ、思い出してきたわ)
「そう。だけど、夏に井戸水が凍ってしまうなんて、初めて聞いたわ。確かに少し寒いかしら」
「私も初めて聞きました。対岸の氷花祭の影響かもしれないと、宿屋テンパルの人が話していましたね」
(氷花祭の影響?)
橋がかけられないほど大きな湖だ。こちら側にいると、祭をしていることにさえ気づかない。影響を受けるのだろうか。
「まぁ、井戸の水が昨夜に凍ったのなら、昼間になれば溶けるわね。昼間は、長袖では暑いもの」
「ええ、そうだと思いますよ」
(待ってくれてるわね)
マザーは、私が話しにくくて別の話をしていることに、気づいている。だけど、急かしたりしないのね。私が話せるようになるまで、優しく待ってくれている。
「マザー、アルベルトのことなんだけど、最近、何か、私のことを言ってなかった?」
(まずは、状況確認からだわ)
こないだ会ったとき、マザーは婚約破棄のことを知らないみたいだった。だけど今日の彼女は、私に話があるということを予想していた気がする。
普通に考えれば、この二日間でアルベルトに会って、婚約破棄を聞いたってことよね?
「レイラ様に嘘はつけません。確かに、一昨日の夜遅くに、アルベルトさんは林檎酒を持って訪ねて来られましたよ。レイラ様に関する話も少ししましたが、アルベルトさんからも口止めをされてしまいました。困りましたね」
(ん? 口止め?)
「アルベルトが、マザーに話したことを口止めしたの?」
「ええ、彼は子供の頃から、少し負けず嫌いなところがありますからね」
(なるほど……)
アルベルトとしては、私からの婚約破棄は、屈辱だったってことね。ずっと私を教育してきたのにね。
でも彼は、これで自由になることもできる。私が母に、上手く進言すれば、殺されずにハワルド家から縁を切ることもできるはず。
(でも、嫌だわ)
婚約者じゃなくても、アルベルトには近くにいて欲しい。彼が離れていくなんて、想像したくない。
「マザー、アルベルトは、どういう子供だったの?」
私がそう尋ねると、彼女は優しく微笑んだ。あー、私がまた話を逸らしたと、わかっているみたいね。
「アルベルトさんが、孤児院に来たのは、彼が6歳のときでした。そのときは、彼の目は何も映していなかった」
「あっ、孤児院に来るまでの記憶が、まだほとんど戻ってないんだったわね。名前や年齢はわかったの?」
「ええ、彼を連れて来た人が、わずかな情報を記録した手紙を置いていかれましたから」
「その連れて来た人って……」
「ここからは、私の想像ですが、レイラ様にも知っておいていただく方が良いでしょう。アルベルトさんには、話していないことです」
そう言うとマザーは、まるで私を試すように、私の顔を真っ直ぐに見た。
「話してちょうだい。私は、他言しないわ」
私の答えに安心したのか、彼女はふわっと笑みを浮かべた。
「アルベルトさんは、一部の方にとっては、望まれない子だったのだと思います。おそらく、家族の元に置いておくのは限界だったようです」
「えっ? アルベルトは平民じゃないの?」
「わかりません。ただ、6歳の彼は、読み書きも算術もできる子供でした。それに逃げ足が速い。非常に音に敏感で、なかなか馴染めなかったのです」
「まるで、暗殺対象者のようね」
「ええ、だから私は、彼の両親のいずれかが、名のある方だと考えています。6歳の彼を連れてきた男性は、冒険者風の装いでしたが、仕草が洗練されていました」
「どこかの執事かしらね」
私がそう呟くと、マザーは大きく頷いた。




