10、純恋花に関する写本
午後の授業後、屋敷に帰宅すると、転移魔法の着地点となる裏庭には、薬師のシャーベットがいた。薬師の正装である深緑色のローブを身につけている。
「あら、シャーベットがこんな場所にいるなんて、珍しいわね。出掛けていたの?」
「ええ、王家の書物庫に調べ物に行っていたのですよ」
シャーベットは、シーッと口に人差し指を立てて目配せをしてきた。秘密の話があるみたい。
着地点には警備がいるし、何よりこの場所での会話は、屋敷の何ヶ所かに聞こえてしまうもんね。
「そう。だから、そんなローブを着ているのね。ちょっと重そうね」
「確かに、少し重いですよ。それに外だと暑いですね」
「じゃあ、早く着替えればいいよ」
「ええ、まぁ、室内なら大丈夫ですが」
(ん? 何だろう?)
シャーベットは、警備の人達を背にして、また目配せをしてきた。よくわからないけど、いつものでいいか。
「私、剣術の試験で、ちょっと右ひじを打ったんだよね」
(あっ、笑った。これで良かったみたい)
「まぁ! じゃあ、早目に処置をしましょう。調合室へご一緒しましょうか」
「ええ、お願いするわ」
◇◇◇
「レイラ様、シャツをめくって、右ひじを診せてください。打撲ですか?」
調合室に入るときに、シャーベットは大きな声でそう言いながら、扉を閉めた。
「えー? 見るの?」
私がそう尋ねると、彼女はクスッと笑って、誰かを手招きした。緊張した表情の若い女性が、こちらに近寄ってくる。
(知らない顔ね)
私はある意味、調合室のヌシみたいなものだから、薬師の顔は全員覚えてるんだけど。
「レイラ様、彼女は、数日前に雇った調合師なの」
「えっ? 調合師って、高度な薬を調合できる人よね? こんなに若いのに凄いね。シャーベットと同じ能力だよね?」
私がそう返すと、二人とも同時に頭をふるふると横に振った。なんだか仕草が似てる? シャーベットの弟子かしら。
「レイラ様、は、初めまして。わ、わっ、私は、アーシーと申します。調合師の認定をもらったばかりで、全くの新人です。よ、よろしくお願いします!」
(ガチガチだわ)
「アーシーさん、よろしくお願いしますね。私は頻繁に、調合室に逃げてくるから、かくまってね」
「へっ? に、逃げて? か、かくまう?」
さらに混乱させてしまったみたい。アーシーは、とても真面目な人みたい。
「アーシーさん、レイラ様は幼い頃から、何か理由を見つけては、ここに来られるのよ。この部屋が落ち着くそうよ。先程、調合してくれた治癒ポーションは、これかしら?」
アーシーがガチガチの挨拶をしている間に、シャーベットが小瓶を持ってきた。治癒ポーションにしては小さな瓶ね。
「は、はい。私が見つけた調合方法で作りました」
「じゃあ、レイラ様に試していただきましょう。成分的には、普通の治癒ポーションね」
(私が実験台なの?)
まぁ、シャーベットが成分サーチをしたみたいだから、大丈夫か。
「別に右ひじは痛くないんだけど、飲んでみるわ」
私は、小瓶を受け取り、蓋を開けた。
(えっ? 爽やかな香りだわ)
治癒ポーションは青臭いのに、この小瓶は、ハーブのような香りがする。そして飲んでみると、美味しいとは言えないけど、とても飲みやすい。
「すごく爽やかで飲みやすいわね」
「レイラ様、面白いでしょう? アーシーさんは、薬草ではなく、花から治癒ポーションが作れるのよ。もちろん薬草からも作るけどね。調合に治癒魔法を組み込んでいるみたいよ」
「治癒魔法? すごい! 薬師って、普通は治癒魔法は使えないよね?」
「ええ、薬を作る能力がある人は、治癒魔法は使えないわ。調合も魔力を使うけどね。調合は込める魔法、治癒魔法は放つ魔法だから、両方使える人は、ほとんどいないわ」
(全然わかんない)
私が変な顔をしていたみたい。シャーベットは、クスクスと笑っている。なんだか、シャーベットってお母さんみたいなんだよね。あ、彼女は独身のはずだけど。
「シャーベット、彼女を紹介するために、私を招いたの?」
「あら? レイラ様が右ひじをぶつけたからじゃ? ふふっ、冗談よ。これを見せたかったの。例の書物よ」
シャーベットは、すっごく厚い本を、作業台の上にドンと置いた。
(例の書物?)
中を見てみると、まるで絵本のようだった。似たような絵と、その下には数行の文章が書かれている。
「これって、もしかして……」
私は、調合室の真ん中の柱に視線を移した。上の方には、やはり球体のやわらかな光が見える。
「ええ、純恋花に関する写本よ。持ち出しができなかったから、写本を依頼したの。この本は、後で、あちらの書棚に入れておくわ」
「写本って、高いよね? 私のわがままで……」
「ふふっ、高いわよ。でも、今日に間に合ってよかったわ。レイラ様、お誕生日おめでとうございます」
「えっ? ありがとう。でも、16歳だよ? お祝いなんて……この写本は、誕生日の贈り物なの?」
「まぁ、いいじゃない。それに、この調合室にあると便利だからね。新しい薬を作るときは、純恋花の導きを正確に把握すれば失敗しないから」
「ふぅん、じゃあ、よかった」
ペラペラとページをめくっていく。でも、花びらや花の形ばかりが出てくる。私が見えている球体がない。
(あっ! あった!)
かなり後ろの方に、球体の絵があった。私は、自分が見えているものと同じ色を探す。
(見つけた!)
淡いオレンジ色の球体。これが示す導きは……。
『新たな目覚め。新たな心。動き始める変化の兆し。これまでとは違う何かが生まれた証。変化の始まりを怖れないことが大切』
(ん? 意味不明よね)
「レイラ様、そろそろ夕食にしませんか? 今日は、客室でということなので、ご一緒させてもらえたら嬉しいです」
「あぁ、たまに、食事の間が使えない日があるよね」
そういえば年に数回は、私は、薬師達と客室で夕食を食べている。
「アーシーも一緒に行きましょうか。ハワルド家の方も使用人も、全員が年に数回、客室で夕食を食べる理由を説明するわ。あっ、レイラ様は、着替えられますか?」
「そうね、制服だもんね」
「では、着替えが終わる頃に、部屋にお迎えに参りますね」
(ん? なぜ、わざわざ迎えに来るの?)