chapter6:タバコのにおいが、しないキス
「ねぇコウタくん、また何か頑張ったらさっきのやってくれる?」
「さっきのって?」
「だーかーらー」
「ああ、どんだけ気に入ったの」
風呂上がり、冷蔵庫から缶ビールを出してテーブルのユキミの向かい側にぺたんと座る。なんだかこのポジションも定位置になりつつある。テーブルにビールを置き、カタンと音がする。ぼーっと焦点を定めない感じでコチラを見ながら、ユキミがつぶやく。
「……タバコのにおい、しない」
「え、ああ風呂上がりだからでしょ」
僕がそう答えると、ユキミはのそのそと寝る定位置になりつつあるリビングの隅に移動した。布団の上で膝を抱えて座っている。
「ねぇコウタくん、私やっぱり早めにここ出て行くね?」
ユキミは神妙な顔で言ってくるが、僕は最初から家に帰りなさいと言ってたはずだ。なんでまるで2人で相談して住み始めた人たちみたいな言い方をするのだろう。思うことはそれなりにあるが、せっかく帰る気になりそうなら大人としてのセリフを選ぼう。
「ぜひそうしてくださいな、親と喧嘩したままなのは、心配かけるだけだからね」
すぐに反論してこないあたり、きっとそれはユキミもわかっている。残りの缶ビールを飲みながら指でタバコの箱を手繰り寄せたが、中身を出すのは後まわしにした。ユキミが来てから、部屋の真ん中では吸わなくなった。
「大学生になったらオーディション受けていいっていう約束でね、受験頑張ったの」
「そうなんだ、どうりで歌うまいわけだ」
「大学にも慣れてきたし、夏休みだから応募するねって話したらダメって言われて…」
なるほどね、冷静に蚊帳の外から見る僕としては、どちらの気持ちもわかる。でもユキミにその気持ちがあるのなら、もったいないとも思う。
「ちゃんと説得して、応募したら?まだ夏休みは始まったばかりだし」
「うん…」
「僕と違って、ユキミが夢に向かってみないのはもったいないと思うよ、歌うまいし」
ユキミが俯いていた顔だけコチラに向けて、目を見開いた。僕が今日二度も褒めてきたことにビックリという顔だ。べつに僕はいつも、ユキミを否定しているわけじゃない。ただ、それでココにたどり着いた意味がわからないので家に帰ってほしいだけだ。
「ねぇ、コウタくんはギター続けないの?」
「僕はべつに、プロになる程じゃないから」
僕が即答すると、なぜかユキミが悲しそうな顔をする。
「全部最初から諦めてて、面白い?」
今度は珍しく、ユキミがまともな事を言う。その言葉が、少しだけ僕の胸の奥に刺さる。でもなんでもすぐに諦める癖がついている僕のココロは、諦めたりなかったことにすることで、その傷を一瞬で修復できる。最初から諦めることで、ガッカリすることもない。いつの間にかそうやって自分を守ってきた。
「楽なんだよ、この生き方が」
そう言って飲み干したビールの缶を捨てに、キッチンへと立ち上がった。僕に聞こえるよう少し声を張って、ユキミが話を続ける。
「ねぇ、コウタくんちょっと泣いてみてよ」
「え?」
「全力で頑張って、上手くいかなくて、ポロッと泣くとこも、号泣して咽び泣くとこも見てみたい」
「なんだよそれ、ドSかよ」
「コウタくんのギター好きだもん、続けてほしい」
缶を片付け終わりユキミの目の前まで歩き、しゃがんで同じ目線になり、あえてしっかりと目を見て真剣に答えた。
「僕は、できないことはやるって言わない」
「私の背中は押してくれるのに?」
「ユキミの夢は、叶うと思ってるから」
僕の本心だと伝わったようで、それ以上説得する言葉が見つからずユキミが困った顔をしている。僕の分も頑張ってほしい、と付け足すのは自分勝手すぎるから飲み込んだ。代わりに、いろんな想いを込めてキスをした。その叶いそうな夢を応援する気持ちと、だから早くココを出ていきなという気持ち。それから、まだココにいて欲しいという気持ちも少しだけ込めて。そんな正反対の想いが同時進行し始めていて、僕もどうしたらいいかわからないんだ。
「ねぇ、私やっぱり早めに出てくね」
「うん、それがいいと思うよ」
「あんまり長居すると、大嫌いなタバコのにおいまで好きになりそう」
「好きになればいい」
想定外の僕の無責任な返事に、一瞬ユキミが驚くが、すぐにいつもの調子に戻る。
「やめてよ、お風呂上がりはタバコくさくないとか知りたくなかったんだからね」
「ノドが大事なんだろ、大事にしな」
「タバコやめてくれるっていう選択肢は?」
2人のイタズラな視線がぶつかり、クイズの正解みたいに息を合わせて同時に答える。
『できないことは、やるって言わない』
2人で爆笑した。ユキミの夢を叶えたいのに、そんなタイミングで恋を始めるわけにもいかずどうしたらいいか正解が見えなくて、笑いながら涙が出た。笑うしかなかった。
ひとしきり笑って、おねだりされてないのにユキミの頭をくしゃくしゃに撫でてあげた。ユキミが、嬉しそうにくしゃっと笑う。この瞬間を、必死にココロに保存した。




