妹、マルレーの事情(1)
父の再婚で、マルレーには姉ができた。
新しい母は男爵だった夫を亡くし、夫の弟が男爵家を継ぐことになったので家を明け渡し、娘と二人で平民として街で暮らしていた。そこへ縁あってマルレーの父と巡り会い、再婚を決意。そうしてやって来たのがここランブレヒト伯爵家だった。
新しい母は小柄で少しふっくらとしていて見るからにほんわか系。人の良さそうな性格がにじみ出ていた。その娘のアリーシェは明るく闊達な印象で、マルレーと同い年ながら、三ヶ月だけ早く生まれていたのでマルレーの姉になった。
ランブレヒト伯爵家はそこそこ名の通った貴族。アリーシェもこれから王立学園に通うことになるのだから、作法も礼儀も知らないようでは家の恥にもなるし、本人も学園になじめなくて困るだろう。
マルレーの心配は当たり、歓迎の夕食の席でアリーシェの礼儀作法は絶望的であることがわかった。テーブルクロスに跳ねたソースが点々とシミを作り、咀嚼音も気にせず、皿に当たるナイフの音はガチャガチャにぎやか。食べ物を口に入れたまま話す事も抵抗なく、その一挙一動がマルレーには気になって仕方がなかった。
このままでは駄目だ。
余計なお節介、そう思われるのは百も承知で、翌日からテーブルマナーの講習をすることにした。このままでは恥をかくのはアリーシェだ。伯爵家の家族になった限りは、マナーで人から笑われることは絶対に避けなければいけない。
マルレーが小うるさく指導した甲斐あって、アリーシェは何とか普通レベルには気を遣って食事が出来るようになった。食事を味わえない、とずいぶん恨みがましい目で見られたけれど、これは譲れないところだ。今まで母はちょっと放任過ぎたのではないかと疑問に思ったが、男爵令嬢として過ごしたのは五歳まで、と聞いて少し納得した。
アリーシェは姉としては全く頼れそうになく、立場的には姉であっても遠慮なく世話をしていこう、とマルレーは決意した。
当面のアリーシェの服や靴はマルレーが見立て、部屋に用意しておいた。どうやら喜んでもらえたようだ。そのうち仕立て屋が来たら自分で好きな物を選ぶ機会もあるだろう。王立学園の制服も気に入ったようだ。同じ学年だし、一緒にいることも多いはずだ。学園のことは自分の方が慣れているのだから、アリーシェが安心して学園で過ごせるようになるよう見守るつもりだった。
実際に学園生活が始まると、まずはマルレーは自分の知り合いに声をかけ、挨拶をした。残念ながら貴族の面々には貴族らしからぬアリーシェのことはあまり好意的に受け入れてもらえなかった。とは言っても、学園には裕福な平民の家の者達も大勢いる。気の合う者もいるだろう。そのうち自分から声をかけ、その人となりを見極め、信頼できる友人を得たようだった。そうなってくると、自然と一緒にいる時間は減っていったが、マルレーはそれも悪くないと思った。
マルレーはアリーシェが無理に自分と同じように生きる必要はないと思っていた。
貴族の生活は結構窮屈だ。数日一緒に暮らしただけで、アリーシェが自由を求める気質なのはよくわかったし、明るいアリーシェには友達も多く、それなりにうまくやっている。貴族と付き合うとなると多少問題な部分もあるが、マルレーの父は伯爵家は従兄にでも継がせ、アリーシェには自分の選んだ道を生きてもらえればいいと思っているようだ。
一方、マルレーには生まれたときから婚約者がいた。
両家の先代の間で交わされた約束で、アイブリンガー侯爵家の嫡男、ユルゲンと結婚することが決まっており、幼い頃から侯爵家に出入りし、家のことを学び、侯爵家にふさわしい学問を修め、必要とされることは手を抜かず学んできたつもりだった。
侯爵夫人からもよくお褒めの言葉をいただいていて、このままアイブリンガー侯爵家をユルゲンと二人で継いでいくのだと思っていた。
ところが、結婚に向けた段取りを確認する中、アイブリンガー侯爵家とランブレヒト伯爵家で取り交わされた婚約の書を見た時、父がある事実に気が付いた。
祖父母の代、まだマルレーが生まれる前に取り交わされた次世代の婚姻の約束には、
「アイブリンガー家の嫡男とランブレヒト家の長女の婚姻」
と書かれてあったのだ。
長い間一人っ子だったマルレーは、間違いなく長女だった。しかしこの度の父の再婚で、長女ではなくなっていた。
自分が必要とされているなら、婚約は結び直されるだろう。そう思っていたが、侯爵は不在で、父が侯爵に手紙で照会すると、アイブリンガー家からの返信には
先代の約束通り、ランブレヒト家の長女で問題ない
と書かれてあった。
マルレーはこれまでの努力を思い返し、その事実に衝撃を受けた。
アイブリンガー侯爵家に嫁ぐからこそ苦手だった語学も、簿記も、領地経営も逃げずに学び、本当は人見知りなのに社交にも取り組んできた。婚家のことを把握するよう努め、領地のことだって学んできた。それが、いともあっけなくなかったことにされてしまった。
さすがに父もその回答は信じられなかったようだった。当然マルレーが選ばれ、新たな婚約を結び直すものと思っていたのに、娘の努力を認めてもらえなかったことに憤りを感じたが、相手は侯爵家だ。伯爵家から異論を唱えるのは難しい。
こうして伯爵家長女となったアリーシェがユルゲンの婚約者となったのだった。
数日後、アイブリンガー家への訪問を打診したが、侯爵夫妻は所用で他国に行っており、当面戻れないとのことだった。侯爵代理を務めているユルゲンが侯爵に代わって応対するというので伯爵は二人の娘を連れて訪問したが、先の手紙と内容は変わらず「長女」との婚約で継続となった。同行した新しい長女アリーシェの印象も悪くなかったということだろう。
アリーシェもまんざらではない様子で、
「よろしく頼む」
と差し出されたユルゲンの手を握り、笑顔を見せていた。
ユルゲンとマルレーは仲が悪かったわけではないが、マルレー自身、さほど気に入られていたわけでもないことは薄々感じていた。マルレーは真面目なのが取り柄だが、隙のないきつめの顔には朗らかさも愛嬌もない。ずっと侯爵家に出入りしていたマルレーはユルゲンにとってもはや家族のようで新鮮味がなく、それに対して新しく婚約者となったアリーシェは見た目もかわいらしく、気取ったところがなく、明るく、ころころ変わる表情もわかりやすく、好感が持てたのだろう。
ユルゲンがアリーシェに好意的であるほど、マルレーは自分を否定されているような気がした。
マルレーはアリーシェと顔を合わせることができなくなっていた。決してアリーシェに恨みがあるわけではない。しかし、素直におめでとうと言うには、今までのつらかった日々が重すぎたのだ。
その様子を見ていた父が、
「おまえがユルゲン君の婚約者でなくなったことで、あちこちから結婚の申し出が届いている。おまえさえよければ、次の婚約者を決めてしまっていいんだよ」
とマルレーに数枚の釣書を見せてきたが、マルレーはただ黙って首を横に振った。
侯爵夫妻が留守の間頼まれていたことをこなすため、マルレーはあえてアリーシェと重ならないように侯爵家に出向き、用件をこなした。ユルゲンの補佐的な仕事も振られたが、これも早々にアリーシェに引き継ぐことになるだろう。
案の定、一月ほど経つと、ユルゲンから今までマルレーが教わってきたことをアリーシェに引き継いでほしい、と依頼があった。
これまで世話になってきた家だ。最後の務めとお礼を兼ねて引き受け、アリーシェがアイブリンガー家に行く日に合わせ、マルレーも同行するようになった。
ユルゲンとアリーシェがお茶をしている間に侯爵家の仕事を片付け、引き継ぎはその後に行った。
屋敷にかかる肖像画は、初代から順番に侯爵家の当主とその家族を描いている。いつかは自分もこの絵の中に入るのだと、幼心に思っていた時期もあった。
そろそろ気持ちを切り替えなければいけない。ずいぶんと長い間当然と思っていたことも、簡単に揺れて消えてしまうものなのだ。
それにしても、アリーシェの物覚えの悪さにはどうしたらいいのか、マルレーも悩んでしまった。歴代の侯爵の名前も覚えられず、家の歴史も物語でも聞くかのように
「へぇ、すごいですねえ」
止まり。その他の侯爵家に所蔵する絵画も、作者も作風も全く関心がなかった。美しい食器も壺もただの器にすぎないようで、その産地や手触り、絵付けや色合いの特色も、語れば語るほど独り言のように反応がなく、時にはあくびで返された。
自分の家では侍女やメイドもアリーシェの育ってきた背景を知っていて、父の計らいもあってそのままのアリーシェを受け入れてくれているが、侯爵家の執事や侍女侍従達はアリーシェの反応に不安を感じているようだった。
…本当に大丈夫なんだろうか。
間もなく自分とは関係のなくなる侯爵家のことでありながら、心配を隠せなかった。
侯爵家で開かれるガーデンパーティは、以前から侯爵夫人と共にマルレーが準備してきたものだった。侯爵夫人が出席できなくなり、そのままアリーシェに引き継ぐわけにもいかず、マルレーも参加し最後のパーティを仕切ることになった。
パーティ用にユルゲンからアリーシェに贈られたドレスを見て、マルレーは絶句した。
「こんなすてきなドレスを送っていただけるなんて! すてき!」
喜ぶアリーシェとは別に、マルレーの心は冷めていった。
自分が先日侯爵家で仕立ててもらった物と全く同じデザイン。いくら姉妹とは言え、婚約者とその妹が同じドレスを着ていくなどということはあり得ないだろう。
初めの頃は侯爵家で見繕われ、送られてきたドレスも、最近では侯爵家に来た仕立屋に自分で好きなデザインを選ぶようになっていた。ユルゲンは婚約者のために自らドレスを選ぶのも面倒なようだったが、自分も気に入った物が着られるからそれでいいと思っていた。まさか自分が頼んだ物と同じ物を新しい婚約者に送るなんて。
「…最っ低…」
マルレーはユルゲンが婚約者でなくなったことを良かったと思うようになっていた。
パーティまで日数がなかったので、以前着たドレスからあえて地味なものを選び、着回しに見えないように工夫した。
アリーシェは今回はまだ客扱いで、できれば手伝ってほしかったが、声をかけるより先に自分が呼び出されてしまい、お願いすることもできなかった。
段取りが整っていることを確認し、不足する椅子を追加で出してもらい、変に伸びていた枝を見つけて切ってもらう。料理に飲み物、グラスにお皿、他に不足がないか何度もチェックした。客が来れば本来なら挨拶をするところだが、今のマルレーはただの手伝いに過ぎない。あまり人と積極的に話すのは好きではないマルレーはむしろ気楽で良かった。
時間になるとアリーシェがユルゲンのエスコートを受けて会場に入り、婚約者として正式にお披露目されていた。
マルレーがこれまで侯爵家で婚約者として扱われていたことは周りの人たちも知ってはいたが、公式にはまだ発表されていなかった。婚約者交代の事情もそれなりに把握されていたようで、その場ではあえて口にする者はいなかった。少し陰に隠れれば、失脚した伯爵令嬢としてマルレーの悪口も聞こえてきたが、気にすることもなく、胸を張って姉の晴れ姿を見守っていた。
しばらくして、ユルゲンがほかの来客の相手をしているうちに、アリーシェのもとにアイブリンガー家と親交の深いレーネ王国の客が近づき、声をかけてきた。
しかし、アリーシェは首をかしげてぽかんとしていて、やがてあいそ笑いをしながら逃げようとしていた。
これはまずい。次期当主の婚約者へ挨拶をしているというのに。
マルレーは後ろからそっと
「ユルゲン様の新しい婚約者の方ですか、と聞いているわよ」
と声をかけた。するとアリーシェは安心したように笑顔を見せ、
「そうです。アリーシェと申します」
と言って礼をした。所作は何とかなっているが、自己紹介も自国の言葉だった。それくらいは言えるだろうと思っていたマルレーは、思わず眉間にしわが寄りそうになったが、何とか笑顔をとり繕った。
後ろでマルレーが通訳をすると、来客もマルレーを通訳として雇われている者だと思ったのか、マルレーを頼って話しかけてきた。それからしばらくマルレーはアリーシェの通訳として来客とアリーシェを取り持つ羽目になった。
レーネ王国の来客が立ち去ると、アリーシェはほっとした様子で
「ありがとう」
と礼を言った。しかし、マルレーはアリーシェが自己紹介くらいはレーネ語で話せたのではないかと不満を持ち、気がつけば
「レーネ語も話せないなんて…」
と非難していた。拗ねたように口をとがらせたアリーシェが
「仕方ないわ、だって習ったことないんだもの」
と言い訳したところで、侯爵家に嫁ぐとなると逃げるわけにはいかない。
「アイブリンガー家には外国からも多くのお客様が来るわ。外国語も身に付けておかなければ、いざという時に困ることになるわよ。特にレーネ王国にはご親戚もいらっしゃるし」
アリーシェはそれを聞いても、少しも「頑張る」とか「やってみる」といった前向きな言葉を口にすることなく、むしろいいことをひらめいたように両手をパンと合わせ、にっこりと笑った。
「侯爵家はお金持ちなんだから、通訳を雇っていただければ大丈夫よ」
それを聞いて、ああ、駄目だ、と思いながら、気付いてしまった。
通訳を雇う、それだけのこと。
できて当然、あなたがやるのよ、そう言われて仕込まれていたことも、確かにお金で解決できることはある。至らないところがあるアリーシェを選んだのは侯爵家なのだ。侯爵家ができることをすればいい。すべてをアリーシェにさせようと考える方がおかしいのだ。
確かに自分は自分なりに頑張ってきた。しかしそれをアリーシェにも求めるのは、少なくとも自分がアリーシェにそうしろと言うのは間違えている。
自分が出過ぎていたことに気がつき、そこから言葉が出なくなった。