発熱
翌日の朝。
ベッドから体を起こすと少しだけ熱があった。
風邪なんて最後にひいたのは何年前だろう。
学園に入学してから、毎日少しずつ疲れが溜まっていたところに水を被って、体調を崩してしまったようだ。
でもこの程度なら大丈夫そうなので登校した。
(……あ)
廊下を歩いていると、もう少しで教室に着くというところで、前からあの執着男が歩いてきた。
朝から出会ってしまうなんて運が悪い。緊張しながらも何とか通りすぎる。
真横に来たときに睨まれた気がして、思わずビクッとなってしまった。
その後も後ろからじっとりとした視線を向けられているように感じたけれど気のせいに違いない。気のせいだと思わずにはいられない。
私は学園内を歩いている時に、ごくたまに誰かに後を付けられることがある。やっぱりあの人だろうか。怖くて確認できていないが、あの人かもしれないと思うだけで気が滅入ってしまう。
教室に入って席につくと、どっと疲れが押し寄せてきた。
まだ一時限目すら始まっていないのに、とてつもない疲労感だ。何とか気合いを入れて過ごさないといけない。
そうやって過ごしたけれど、一時限目が終わる頃にはもう限界を迎えようとしていた。
「うぅ…………うえぇ……」
熱が上がって頭がぼーっとする。
それでも必死に幻影魔法をかけ続けていたら、頭痛がしてきて気持ち悪くなってきた。吐きそう。
これは今すぐ帰った方が良さそうだ。
「シーラちゃん、大丈夫?」
レベッカさんが心配して私の席まで来てくれた。
ふへへ、嬉しいな。
「ありがとうございます。今から帰ろうと思います」
「そっか。ゆっくり休んでね」
「はい」
レベッカさんの優しさに癒されてから職員室に行き、早退の手続きを終える。
そしてふらふらしながら寮へと向かった。
「……うぅ……遠いよぉ……」
歩いても歩いても辿り着かなくて、ようやく学園の建物から出たところ。寮までの道のりがとてつもなく長く遠く感じる。
思考はふわふわして、頭と身体は鉛のように重い。
足が思うように動かなくて立ち止まっているのに、ずっと波にゆらゆら揺れているような感覚だ。気持ちが悪い。
幻影が少しずつ綻んでいくのが分かる。
どうにか誰にも出くわさずに帰れることを願いながら、足を進めた。
(あー……だめだ)
後ろから誰かが近づいている気配がする。
声をかけられたらどうしよう。顔は手で隠せたとしても、髪色だけでも何とか保たないといけない。
幻影魔法を維持するため、ぐっと力を入れて魔力の流れをどうにか整えようとした。
目の前がぐにゃりと歪む。
立っていられなくなり、その場に座りこんで地面に両手をついた。
もう無理だ。
諦めた途端にプツンと魔力の継続が切れた。
次の瞬間、頭の上からバサリと何かが落ちてきて、視界が黒に染まった。
「わわ……?」
一体何が起こったのだろう。
驚いていると、ほんのりと甘い匂いが漂ってきた。
これは……
「シーラさん、大丈夫……じゃなさそうだね」
頭に被せられた何かをめくって私の顔を覗きこむ人物は、私がよく知っている優しい声を発した。
ぼんやりとした視界の中に二つの青がゆらゆらと揺れている。
「テオさんですか?」
「ん、そうだよ。寮まで連れて行くから、このまま俺の上着被ってて。嫌だろうけど少し我慢してもらえるかな」
そう言って彼は私を軽々と持ち上げた。
(え? え?)
まさかの行動に狼狽える。
流れるような動きで持ち上げられてしまった。
テオさんに横抱きにされている。お姫様抱っこである。私は今、女子の憧れのシチュエーションを体験している。
(ひゃぁぁぁ……!)
逞しい腕に包まれていることを実感してドキドキしてた。更に熱が上がってしまいそうだ。
恥ずかしすぎて今すぐ下ろしてくださいと言いたいところだが、いかんせん今の私にはそんな元気はない。
恥ずかしいけれど、運んでもらえてとても助かっているのは事実だ。
「すみません」
「気にしないで。シーラさんにはいつも無理を言って付き合ってもらっているから、たまには俺も役に立たせて」
テオさんは私が気負わなくていいように優しい言葉をかけてくれた。
私は彼から無理を言われたことなんてないのに。
私はいつも彼と一緒に楽しんでいるから、そんな風に思ったことは一度もない。
お姫様抱っこされたまま寮に到着した。
私の姿を見た寮母さんは驚いていたけれど、私が見せた身分証とテオさんの説明に納得してくれたようだ。
ついでに同情もしてくれた。
テオさんは寮母さんの案内で私を部屋まで運んでくれた。
「お手数おかけしました」
「気にしないで。ゆっくり休むんだよ」
「……はい。ありがとうございました」
テオさんは私の頭を優しくぽんぽんっとして、帰って行った。
部屋で一人きりになり、先ほどまでの出来事を頭の中で反芻する。
上着をかけてくれて、抱っこされて、部屋まで運ばれて、頭をぽんぽんってされた。
「うぅぅ……」
ベッドの上でクッションを強く抱きしめる。
あの人は誰にでもあんな風にするのだろうか。あそこまで優しくされたら、勘違いしてしまっても仕方がないと思う。
逞しい腕に包まれた感触、温かな体温を思い出してクッションに顔を埋めた。
熱でくらくらする頭は更なる熱に悩まされた。
* * *
二日間大事をとって学園を休み、翌日にはすっかり元気になった。
「シーラちゃん、もう大丈夫?」
「はい。元気になりました」
「良かった」
今日もレベッカさんは可愛くて優しい。
レベッカさんとクラスメートの仲は、私が休んでいる間に何事もなかったように元に戻っていた。
侯爵令嬢はあの後すぐに退学になったらしく、取り巻きさんたちは謹慎処分を受けているようだ。
これで一安心。私はまたぼっちに戻り、今まで通り教室では自分の席で本を読むふりをしながらひっそり過ごすことにする。
昼休憩になった。1人で食堂に行こうと席を立ったら、レベッカさんがやってきた。その後方では彼女の友人たちが待っている。
「シーラちゃん、お昼一緒にいこっか」
「……え? いえ、私は1人で行くのでお構いなく」
「行こっ、シーラちゃん」
「え? あの……」
レベッカさんに強引に手を引かれて、一緒に食堂に来てしまった。
彼女とお友達の皆さんが楽しく会話しているところに入るのは申し訳ないのに。
私は会話に参加できないから、楽しい雰囲気を壊してしまうだろう。
「あの、私は人と話すことが苦手なので一人でいます」
「話さなくていいよ。一緒にいよう、シーラちゃん」
レベッカさんはいつもの天使の笑顔なのに、全く引いてくれなさそうだ。これ以上断るのは気が引けて、レベッカさんが良いなら良いかと断るのは諦めた。
昼食の後はレベッカさんたちと別れて、屋上にやってきた。
流れる雲、暖かな日差し。
ぽかぽかして気持ちが良い。水を掛けられるならこんな日が良かったとしみじみ思う。
ぼーっとしながら雲を眺めていると睡魔が襲ってきた。
瞼が重い。
うとうとしているうちに眠っていたようだ。
予鈴の音で目が覚めて、隣に人の気配を感じて顔を向けた。
「……テオさん。こんにちは」
「おはよ。元気になった?」
「はい、お陰さまで」
「ん、そっか」
いつの間にかテオさんが来ていて、嬉しくなって自然と顔が綻んだ。
「何か良いことあった?」
「そうですね。良いことばかりです」
「それは良かった」
今現在とても良いことが起こっている最中だが、教室に戻らないといけない。
立ち上がって自身に幻影魔法を施す。
「あのさシーラさん、えっと、また今度で良いんだけど……」
テオさんは何かを言いかけて口ごもった。私が病み上がりだから言いづらいようだ。
「次はどこに行きましょうか。もう元気なので私は今日でも大丈夫ですよ。甘いものが食べたい気分です」
そう切り出すと、いつものようにパッと笑顔の花が咲いた。
あぁ、好きだなぁ。なんて心の中で呟いた。
* * *
放課後はテオさんと一緒にドーナツ店にやって来た。
チョコドーナツ、いちごクリーム入りドーナツ、シナモンドーナツ、キャラメルドーナツ。たくさん買って山盛りになった紙袋を抱えながら食べ歩く。
テオさんは今日も私の隣でにこにこと嬉しそうな笑顔。可愛いけれど、やはり色っぽさの方が勝っていて、口の端についたドーナツの欠片をペロリとする仕草にどきりとした。
それを目撃した道行く女性は頬を染める。
「テオさんってすごくモテますよね。デートに誘われたりしないのですか?」
「っっ、ごほっごほっ」
率直な疑問を投げかけると、質問をしたタイミングが悪かったようで、テオさんは激しくむせてしまった。
「大丈夫ですか?」
「っ、大丈夫。こほっ、そうだね、誘われることはたまにあるけど、誰ともそんな関係になったことはないよ」
「そうですか。よりどりみどりでしょうに」
テオさんからの返事は意外なものだった。彼がその気になれば、誰とでもお付き合いできそうなのに。
ふと、テオさんに意中の相手ができることを想像してみた。
(あぁ、そうしたら、この関係もおしまいかぁ……)
そう思ったら、チクりと胸が痛んだ。自分から言い出したことなのに、何だかとても辛い。
「シーラさん、俺はね────」
テオさんが何かを言いかけた時、前から歩いてくる人物の姿が目に入った。
その瞬間、私は息を詰まらせた。
あれは、あの人は。
キョロキョロしながら誰かを探している、波打つ黒髪の人物。
あの人に間違いない。私を探している執着男だ。
そう気付いた瞬間、私はテオさんの背中にとっさに隠れた。
怖い。絶対に見つかりたくない。決して見つからないように、大きな背中にぎゅっとすがり付く。
「っっえ? シーラさん?」
私は髪色が分からないように帽子を被っているけれど、顔を覗き込まれたら気づかれてしまう。
震えながら背中にぴったりくっついていたら、テオさんもあの男の存在に気付いたようだ。
テオさんはじっと動かず、黙ったままでいてくれる。
ドクドクと響く自分の心臓の音を聞きながら、頼もしい大きな背中に身を任せた。
「シーラさん、もう行ったから大丈夫だよ」
テオさんの声にはっとなった私は、大きな背中からパッと離れた。
「あ……」
目の前のシャツがしわくちゃになっている。
どう考えても私のせいだ。私が強く握ってしまったせいで、テオさんのシャツがみすぼらしくなってしまった。
罪悪感がこみ上げてくる。
「ごめんなさい……強く握ってしまって、私のせいでテオさんのシャツがしわしわになってしまいました」
素敵なシャツだったのに、見るに堪えない状態になってしまった。
「シワなんて勝手につくものだから気にする必要ないよ。俺の背中が役に立ったならそれで満足だから。それより大丈夫?」
「ありがとうございます。テオさんのお陰で大丈夫、です」
テオさんはシワなど全く気にしていないといった素振りで、私を気遣ってくれる。
とても心配そうに私の顔を覗き込んできたので、気丈に振る舞おうと笑顔で答えた。
まだ手が震えている。本当はまだ落ち着いていないけれど、心配をかけないようにしないと。
テオさんは困ったような顔をして、私の頭を手で優しくぽんっとした。
「シーラさん、もしかしてあいつのこと怖いの?」
「……はい。すっごく怖いです」
「何か嫌なことされた?」
「そう、ですね……」
テオさんは、私があの侯爵令息に執着されているということしか知らない。
私は今まで口に出したこともなかった、あの人との恐ろしい出会いを説明することにした。
「えっとですね……初対面の数秒後に『君は僕の運命の人だ』と言って近づいてきまして……」
「もうすでに怖いね」
「その数秒後にいきなり手の甲にキスされました」
「え?」
あまりの急展開にテオさんはポカンとした。
私はありのままを話しているだけなので、そのまま説明を続けた。
「私の頬に触れながら『結婚しよう』って言われて、意味が分からなくて……」
「…………そう、あとは?」
テオさんの声はとても低くて怖いものになった。
執着男の奇行にドン引きしてくれているようだ。
「その、唇を奪われそうに……」
「されてないよね?」
「もちろんです。何とか求婚をお断りしたら、『許さない』って言いながら、爪が食い込むくらい強く手と肩を掴まれました」
「……」
「怖くて動けなかったけれど、何とか魔法を発動させました。素性を知られる前にその場はどうにか逃げて、後はご存じの通りです」
テオさんはいつもの優しい表情からは想像できないほど、冷えきった顔をしている。
やはり客観的に見てもあの男の行動は異常なのだなと再認識した。
私は初めて人に話すことができて、少しだけ気持ちが軽くなった。
「……そっか、怖かったね。………………やっばりあいつ殺しておこうかな」
「え?」
テオさんはすごく低い声でぼそりと呟いた。
殺しておこうかなって聞こえた気がするけれど、テオさんがあの執着男を殺す理由なんてないと思うので、きっと気のせいだろう。
その声はとても小さなものだったので、正確に聞き取れなかっただけだろうと思うことにした。