君は僕の運命の人だ
フォンデル子爵家の娘である私シーラは、今日も王立学園の学生寮の自分の部屋で、鏡に映る自分の姿を念入りにチェックしていた。
学園の制服である紺を基調としたプリーツスカートにブレザー。
焦げ茶色の長い髪に茶色の瞳。銀色の細いフレームが上品な楕円形の眼鏡。
可愛くもなく不細工でもない、どこにでもいるような平凡な容姿で、貴族の娘としての品のよさを少し感じさせるような絶妙な姿であることを確認する。
「よし、大丈夫」
今日もいつものように、地味で目立たない真面目そうな女生徒が出来上がったことに満足した。
学園を卒業するまであと二年と十ヶ月。
まだまだ先は長いけれど、絶対に逃げきってみせると、いつものように意気込んだ。
* *
「フォンデルさん、おはよう」
「おはようございます」
私が王立高等学園に入学して二ヶ月が過ぎた。
クラスメイトと挨拶を交わした後は、自分の席に座って鞄から取り出した本を開く。
授業中と昼休み以外はいつもこうやっているため、私はクラスメイトから『本好きで物静かな人』と認識されていることだろう。
本当は開いたページの一行どころか一文字すら読んでいない、なんてことは秘密だ。
真剣に本を読んでいるフリをして、できるだけ話しかけられない状況を作り出していることを悟られるわけにはいかない。
私はただ何事もなく一日を終えられるように、別のことに集中し続ける必要があるから。
そうこうしている間に予鈴が鳴って、一時限目の授業が始まる時間が近づいていた。
読んでいるフリをしていた本を閉じて机に置き、鞄から筆記用具などを取り出す。
ふと前方で談笑していた令嬢たちから視線を感じ、ちらりとそちらに目を向けた。
そのうちの一人がこちらに向かってきたため、私は気を引き締めるために右手を強く握った。
「ねぇフォンデルさん、私たち今日の放課後にカティアさんの邸宅にお邪魔する予定でいるのだけれど、あなたもご一緒にどうかしら?」
「すみません。お誘いはとても嬉しいのですが、予定が入っているのでご一緒できません」
「そう、残念ね」
軽く断りを入れると、子爵令嬢は微笑を浮かべて令嬢たちの輪に戻っていった。
こうやってたまに誘われることがあるが、角が立たないように、できるだけ相手を不快にさせないように断ることを心がけた。
相手が本心ではどう思っているのか、心の内まではさすがに分からないけれど、『一人で過ごすことが好きで、付き合いの悪い暗い人』と思われるだけで済んでいるはず。
今のところは誰とも揉めることなく、表面上は穏やかな人間関係を維持できている。
クラスメートとの仲は良くも悪くもない。どこまでも無難な関係だ。
私は決して人間嫌いというわけではない。
本当はクラスメイトと楽しくおしゃべりしたいし、放課後は遊びたい。友達が欲しい。
さっきのお誘いには二つ返事で頷きたかった。
だけど今の私にはそれができない。諦めるという選択しかとれないのである。
一時限目の授業が始まった。
私は教師の話を真面目に聞いているふりをしてやり過ごす。
黒板の文字をノートに書き写すことすらしていないけれど、一番後ろの窓側の席だから誰にも気づかれていない。
二時限目も同じようにしてやり過ごし、三時限目も同じようにする。
そうして三時限目が終わると集中力の限界が近づいてきたため、急いで御手洗いに向かった。
御手洗いの個室に入って鍵をかけると同時に、私は全身から力を抜いた。
自分自身にかけていた魔法の発動が止まり、魔法の効果が消える。
焦げ茶色だった髪は瞬く間にプラチナブロンドへ色を変えた。
茶色だった瞳の色も淡い緑色に戻っているだろう。
これが本当の私の姿。隠し通さなければいけない姿である。
「はぁー……」
ようやく緊張状態から解放され、長く重い息を吐く。
私は朝から継続して自分自身に魔法をかけ続け、姿を変えていた。
幻影魔法。
これはとても高度な魔法だ。複雑で繊細な魔力調整を必要とするため、継続的に使うことはとにかく疲れる。
魔法を維持するためには常に集中しなくてはいけないので、まともに人と会話をすることも、授業を真面目に聞くこともままならない。
それでも長時間維持することはできないので、こうやって休憩時間に解除する必要がある。
本当の私の姿はこの学園では誰にも見せられない。
ある人に見つからないように、卒業まで何としてでも隠し通そうと決めた。
***
私が通う王立学園は、国中の貴族の令息令嬢が集まる学園だ。
国の最南端に位置する子爵家の娘である私、シーラ・フォンデルも例に漏れず二ヶ月前に入学した。
この学園ではまだ婚約者のいない人が、在学中に婚約者探しをすることが多いようだ。
私は両親から『必ず素敵な出会いがある』という言葉と満面の笑みと共に送り出された。
その言葉には、これから新しい環境に身を置くことになる娘を応援する気持ちや願いが込められていたように感じた。
しかし両親は口ではそう言いながらも、すでに半分以上は諦めていただろう。
彼らは私の日頃の行いを知っている。貴族の娘として相応しくない行いを。
両親は今まで一度も私に婚約話を持ってきたことがないため、そういった方面での期待は一切されていないはずだ。
私は年の離れた兄二人と姉一人を持ち、末っ子として自由奔放に過ごしてきた。
貴族としての最低限のマナーを学ぶと同時に、叔父と従兄弟からいろいろなことを教わるのが好きだった。
私の叔父は冒険者の中でも一目おかれている特別な存在である、特級冒険者に認定されている。
彼と一緒なら大丈夫だろうと、魔獣が蔓延る森に同行することも許されていた。
森で過ごす日々は刺激とわくわくに満ちあふれていた。
叔父が手際よく魔獣を倒す姿を見続けているうちに、自分も魔獣を相手に戦えるようになりたい、強くなりたいという願望を抱くようになる。
叔父は私を娘のように可愛がりながら、私の意思を尊重し、強くなれるよう導いてくれた。
一切手を抜くことなく、ちょっとやり過ぎなほど、一歩間違えたら死んでいたのではないかというほど厳しく鍛えられた。
何度か死の淵を彷徨ったことは、今となってはいい思い出だ。
私の従兄弟は魔法騎士団に所属している。
彼からは沢山の魔法を教わった。
魔法を極めれば、体格や膂力に関係なく強い相手に立ち向かうことができるようになる。
しかし魔法を連発したり長時間使い続けて体内の魔力が枯渇してしまうと、目眩や頭痛、吐き気といった症状が出てしまう。
それは魔法バカな従兄弟にとっては些末なことのようで、私がどれだけ泣こうが嘔吐しようがおかまいなしに課題を与えられ、習得できるまで厳しい訓練が続いた。
二人のスパルタのおかげで、私は11歳の頃には一人で森に入っても余裕で過ごせるほどに強くなっていた。
家では貴族の娘としての教育を受け、自由時間になると冒険者ギルドに足を運ぶ。
魔獣の討伐依頼を受けて小遣い稼ぎをしたり、大柄な男性達と楽しく語らったり、旅の冒険者から知らない国の話を聞いたり。そんな充実した日々を過ごしてきた。
私は冒険者として自由気ままに生きることが性に合っていると思う。
だから貴族と結婚して淑やかに生活することは全く想像できない。
そんな私が恐怖のどん底に落ちたのは入学式の日だった。
田舎から都会である王都に出てきて、これから始まる新しい生活にわくわくしながら学園の門をくぐった数秒後、私に一人の男子生徒が近づいてきた。
少し長めの波打つ黒髪に黄土色の瞳。
ただ歩いているだけなのに洗練された高貴な雰囲気を醸し出している男子生徒。
胸に赤いピンバッジをつけていることから、私と同じ新入生だと分かる。
辺境の田舎で育った私には同じ年頃の令息令嬢に知り合いがいないため、目の前の男子生徒とは初対面だった。
「君は僕の運命の人だ」
開口一番、その人は意味不明な言葉を放った。
その頬は赤く染まり、うっとりとしたような表情を浮かべていた。
たまに出くわす変質者のそれとよく似た表情だったが、無駄に品のよさを兼ね備えているからか、不気味さが際立つ。
(何この人……)
突然のことにどう対処していいのか分からず立ちすくんでいる内に、男は目の前に迫っていた。
男はうっとりした表情で私の右手をそっと持ち上げて、手の甲にキスを落とす。
掴んだ手はそのまま、もう片方の手は私の頬に触れた。
「美しい……」
ぞわぞわぞわ。
熱をはらんだ瞳に見つめられ、悪寒が全身を駆けめぐっていく。身体はピシリと硬直した。
(何この人……怖い)
意味が分からない。初対面なのにいきなり触れられて、手の甲にキスを落とされる。
どこまでも貴族然とした優雅さで、所作の一つ一つが流れるように美しく洗練されている。それがとにかく不気味で恐ろしかった。
目の前の意味不明な男が怖い。言い知れない恐怖に支配されて身体が動かなくなる。
今まで私には怖いものなんて何もなかった。
冒険者ギルドで酔っぱらった大男にからまれようと、半裸の変態に迫られようと、森の中で魔獣の群れに遭遇しようと、恐怖心なんて抱いたことがない。
それなのに、目の前の男が怖くてたまらなかった。
「ねぇ君、僕のお嫁さんになって。僕は君に恋をしてしまった。もう君以外は目に入らないんだ。これは運命、だから結婚しよう」
意味が分からない。なぜ私は初対面の人に結婚を申し込まれているのだろう。
ぞわぞわぞわ。
怖い。荒い吐息がもれる顔がどんどんと近づいてくるけれど、怖くて体が動かない。
このままだと唇を奪われてしまう。そんな危機感を覚えて、どうにか声を絞り出した。
「……あっ、あの」
震えて上手く声が出ない。初めての感覚に戸惑いながら、どうにか断らないとと声を震わせた。
「わっ、私は、誰とも結婚するつもりはございません。ですから、その、申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
思考がままならない中でどうにか頭を動かし、失礼にならないように言葉を選び、途切れ途切れになりながらも何とか思いを伝える。
次の瞬間、ぞわりと更なる悪寒に襲われた。
「…………なぜ?」
「痛っ」
男に掴まれている私の手に爪が食い込んだ。
私の頬に触れていたもう片方の手は乱暴に肩を掴む。
「君は僕と結ばれる運命。これはもう決まったことなんだよ。侯爵家の人間である僕が欲しいと望めば、手に入らないものなんてない。僕はどんな手を使ってでも必ず君を手に入れられる。だから僕を拒絶するなんて……そんなの絶対に許さない」
正面から私をじっと覗きこんでくる顔は怒りをはらんでいた。
瞳に仄暗い執着の炎がゆらめいている。私を決して逃がさないという視線。
私に向けられたドロリとした感情が全身に纏わりつく。
気持ちが悪い。
この人に見られたくない。
ここから早く立ち去りたい。
早く早くと焦る気持ちとは裏腹に、少しも足が動かなかった。
焦燥と恐怖。
早く逃げたい。逃げなければ。
不安定な魔力の流れを必死にコントロールして両手に魔力を集め、そして一気に放出させた。
暴発ぎみに無理やり放った魔法はつむじ風となり、男を包み込むように螺旋を描いた。
土煙が高く舞い上がる。
「くっ……」
強い風に煽られた男は咄嗟に私から手を離し、両腕で自身の目元を覆った。
解放された瞬間、私の体はようやく自由を取り戻した。
硬直していた足はどうにか動かせそうだ。
早く逃げないと。
私は足に強化魔法をかけて、疾風のように駆け出した。とにかくその場から逃げることだけを考えて必死に走り、校舎裏に逃げ込んだ。
その後はしばらく校舎裏で膝を抱えて縮こまっていた。
「怖い怖い怖い……何あの人、怖い。怖すぎる。意味が分からない。怖い」
どれだけ考えても意味が分からない。
あの男子生徒と私はどう考えても初対面だった。
初対面であの執着はさすがにおかしい。頭がおかしい。
「怖い……高位貴族怖いよ」
彼は自分が侯爵家の人間だと言っていた。
私が人生で初めて会った高位貴族は世にも恐ろしい生き物だった。
校舎裏で小さくなってガタガタ震えている間にも、刻々と迫る入学式の時間。
「……どうしよう。もうあの人には会いたくない。でも入学式に参加しなきゃ」
学園入学初日から欠席することなどできない。
でも入学式に参加すればあのイカレた男に見つかってしまう。
私の名前を知られてしまったら、もう逃げられない。
どうしよう。
どうにかして見つからないように、こっそりと。彼に気づかれないように参加するにはどうしたらいいだろうか。
「……あ、そっか。私だと分からなければいいんだ」
焦りと恐怖でいっぱいいっぱいになった私は、幻影魔法を自身に施して姿を変えることを思いついた。
とにかくその場をしのぐことだけに頭を働かせる。
大勢に紛れて目立たないよう、髪は一般的な焦げ茶色に。瞳は小さめの茶色に。
自身が変わりたい姿を思い浮かべながら魔力を練っていく。
幻影魔法は頭に想像したものをその場に映し出すことができる魔法だ。
幻影魔法の素質を持っている人はごく僅かで、持っていてもうまく扱えるとは限らない。
私は訓練をしてどうにか使えるようになったけれど、今でも少し苦手なままだ。
苦手ながらも努力して力を鍛えてきたけれど、まさかこんな風に役立つ日がくるなんて思わなかった。
血反吐を吐くほど厳しかった訓練の日々に感謝を。私を鍛えてくれた従兄弟にありがとうと心の中で呟く。
姿を変えて何とか入学式に参加した私は、自分のクラスへと移動した
教室内にあの人の姿はない。
私のクラスには男爵家、子爵家の令息と令嬢が所属している。
伯爵家以上の貴族と王族は別のクラスだと最初から知っていた。だから大丈夫だと分かっていたけれど、確認するまでは気が気じゃなかった。
ホームルームが終わり、荷物をまとめて帰ろうとした時。
私のクラスにやってきた男子生徒が目に入った瞬間、ぞわぞわぞわりと背中に悪寒が走った。
あの人だ。あの人が来た。波打つ黒髪の侯爵令息だ。
このクラスにプラチナブロンドの女生徒がいないかと探している。
入学式でざっと辺りを見回したところ、この学園には私以外にプラチナブロンドの髪を持つ生徒はいなかった。
あの人が探しているのは確実に私。
(ひええ……怖いよぉ)
私と彼が対峙していたのはほんの数分だけ。
数分会っただけの女にそこまで執着するなんて。
一目惚れされたようだと頭では理解しているけれど、全く嬉しくない。高位貴族怖い。
早く帰ろう。今の私は地味で目立たない女生徒だ。気づかれるはずはない。
教室から出ようと、鞄を胸の前で抱えながらそそくさと男性の横を通り過ぎようとした。
「ねぇ、君」
不意に声を掛けられてしまいビクッと肩が跳ね上がる。怖くて顔を見られないが、無視することなどできない。
「なっ、何でしょうか?」
「君はプラチナブロンドの少女を知らないかい? 君くらいの髪の長さでさ、淡い緑色の瞳で……」
ピタリと言葉を止めたかと思うと、男の顔が私の首もとに近づいてきて、クンクンと匂いを嗅がれた。
ぞわぞわぞわ。
気持ち悪すぎて全身に鳥肌がたつ。
私の心情など知らない男は、平然としながら口を開いた。
「君はあの子と同じ甘い香りがするね。ねぇ、君は何か知っているかい?」
「いっ、いえ、何かと言われても何も分かりません。すみませんが私急いでいますので、これで失礼いたします」
深く頭を下げて足早に立ち去る。
外靴に履き替えて校舎から出て、全速力で学生寮に向かった。
自室に入ると鍵をガチャンとかけて、やっと逃げられたと安心して力が抜けていく。
もう気を張り続ける必要かなくなり、すぐに幻影魔法が解けた。
扉にもたれかかったまま、その場にペタンと座り込む。
「こっ……こわかったぁ~」
なんとか逃げられたけど、一体何だったのだろう、あの執着は。
高位貴族って怖い生き物だ。もう二度と関わりたくはない。
「…………あ」
ホッとしたのも束の間、私は深刻な問題に気付いてしまった。
「明日からどうしよう……」
もう元の姿で通うことなんてできない。一度でも姿を晒してしまったらアウトだ。
あの男に見つからないようにするには、ずっと姿を偽り続けなくてはいけない。
私は幻影魔法による偽りの姿で学園に通う羽目になってしまい、楽しい学園生活とは始まる前から別れを告げた。
* *
「……さて、と」
御手洗いの個室で過去を振り返ってしんみりとしている場合ではない。
あと数分で休憩時間が終わってしまう。再び自身に幻影魔法を施した。
個室から出て、鏡で念入りにチェックする。
いつもの目立たない姿だ。よし、大丈夫。この姿でいる限り、私は安心安全な学園生活を送れるはずだから。
次の授業が始まる前に急いで教室へと向かった。
今日もぼっちで寂しい学園生活にため息を吐きながら。