9 あなたを愛しています
9 あなたを愛しています
2022.07.30
飯塚春菜
金曜日の夕方、会社のトイレで、昨日買ったばかりの新品の口紅を取り出した。化粧品売り場でなんとなくぼうっと眺めてたら、売り場のやり手のお姉さんにお客さまには絶対これと勧められて勢いに負けて買ってしまった口紅。朝からつける気にならなくて、今、ここで取り出した。
どれどれ
鏡に向かって化粧直しして、最後に口紅を取り出した。
「春菜」
「わっ」
急に後方から声をかけられて口紅を落としそうになった。振り向くと、トイレの入り口に不審者が二人。上下から覗き込んでいる。
……
安心してください。不審者ではあるけど、ここは女子トイレ。女子トイレを覗くというか、使用する資格のある人たち。つまり女子。
「何やってるの?二人で団子三兄弟*1みたいなって」
上にサオリ下に三原ちゃん。入り口から中に入らず顔だけでじっとこっちを覗き込んでるのである。
「二人なら団子二兄弟じゃないの?」
「……」
細かいツッコミをどうも。
「今日、暇?」
「え?」
「デートなの?」
「え?」
「ここんとこ春菜おかしい」
「え、どこが?」
「どこもかしこもだよっ」
顔だけで覗き込んでた二人がずかずかとトイレに入ってきて、そして、わたしの右をサオリが左を三原ちゃんがガシッと押さえた。
「デートじゃないなら、いくよ」
「どこに?」
連行された……。会社近くのおじさんたちが喜んで通う渋い居酒屋へ。
「わたし、その……、そんなに遅くなるわけには……」
「カンパーイ!」
ガチッとな。サオリはアルコールいける口なので、ジョッキでサワーを頼んでおり、三原ちゃんはグラスのカクテルを頼んでいる。しかし、カクテルと言ってもここは居酒屋です。
「大丈夫。聞きたいこと聞いたら解放してあげる」
つまりわたしはあれですな。敵の手に落ちて今、味方の情報を取られようとしている捕虜な訳だ。
「ねー、何食べる?」
「千里が好きなものでいいから。あ、でも、枝豆は頼んでね」
「あ、わたし」
「春菜はダメ」
「えー、なんでー」
サオリの目力が怖い。
「いうこと言ったら注文していいから」
「……」
遅くなりそうだな……。
「電話とかしたい?」
捕虜に電話の機会が与えられた。
「あ、いや、電話は別に……」
電話をさせて目の前で見張って味方の情報を少しでも取ろうとする作戦である。
「あ、ちょっと、わたし、トイレ」
トイレも禁止されるかと思ったが、サオリは制止しないので、そっと立つ。立ち上がる。
「ね、イカ焼きとたこ焼き、どっちがいい?」
「どっちも頼め」
「えー、いいの?」
平和な会話を交わしつつ、それでも目力の強いサオリの視線を逃れてトイレへ逃げた。
やれやれ
スマホのラインを開いた。
『予定外でサオリと三原ちゃんとご飯食べることになってちょっと遅くなるかもしれません』
送信して、その後、しばらく画面を眺める。
すぐに返信が来ないことぐらいわかってます。でも、眺めていたい気持ちもわかってください。
それから、ポケットにスマホを戻し、別に用を足したわけでもないが、気分で手を洗い席に戻った。
冷奴と小エビの唐揚げとさつま揚げと枝豆とポテトサラダが来ていた。
そして、それから二人の尋問が始まった。
「では」
その時私たち、畳の席に座っていたのですが、おもむろにサオリ、なぜか正座をする。
「え、正座するの?」
「千里もしなさい」
「はい」
いつの間にこの二人仲良くなったんだろうと思いながら、ボケっと見ていると……
「春菜」
「春菜ちゃん」
正座をして姿勢を正した二人、なぜか表情がさっきより怖い。無言の圧力でわたしもそろそろと正座をした。
「ここんとこ、あなたおかしいわよね」
「え?」
「前までなら仕事があるのかないのかよくわからないけどいつもダラダラ会社に最後まで残ってる人だったのに」
「えっと、はい」
「最近の春菜はビデオの早送りみたいだ」
「ん?」
「サオリ、そんな抽象的な表現してはこの人にはわかりませんよ」
さりげなくダメ出しされてんじゃん。やれやれ。枝豆を一個食べた。
「こらっ」
「あ、はい、すみません」
怒られた。
「サオリ、でも、お腹すいた」
「それはそうか」
そして、二人同時に足を崩し、サオリは枝豆に手を伸ばし、三原ちゃんはニコニコしながら割り箸を割った。わたしも足を崩した。
「毎日、毎日、なんでそんな早く帰るようになったの?特に金曜日」
「あ……、それはその……」
「彼氏できたでしょ?」
「……」
「やっぱ、図星だ」
「推理するまでもないよ」
「ね、どこの誰?」
チーン
「あ、あの、大学時代の知り合いで」
「同い年?」
「あ、いや、先輩」
「どのぐらい上?」
「……2、3個?」
下を見て豆腐つついてたサオリがきらりとこっちを睨む。
「2なの?3なの?」
「えっと、3です」
本当はもっと年上なんだけど……
「いいなぁ。ね、どうして付き合うことになったの?」
「ああ、うん……」
「大学卒業した後も普段から連絡取ったり会ったりしてたの?」
「ああ……、サークルが一緒でね。定期的に今でも集まるからその時に顔合わせてて」
「向こうから?」
「いや、どっちかっていうとこっちからかなぁ」
「ね、写真ないの?」
キター!写真見せて攻撃。
「いや、ほんと、見せられるような顔じゃないから」
「またまたぁ」
「あの、見せられるような顔じゃないから、本人がすっごい写真嫌いで、一枚もない」
「え……」
必死で捲し立てたので一瞬場が白ける。怯んだ三原ちゃんの代わりにサオリが口を開いた。
「春菜はその人のどこが好きなの?」
「え?」
「顔とかではないんだよね」
「……」
話がどんどん変な方向になってきたぜ。
「才能?」
「なんの?」
「株?」
「へ?」
二人ともきょとんとした。
「証券会社に勤めている人で、株取引とかめっちゃ詳しくって自分でも持ってるし」
「どこの証券会社?」
「……」
昔、幼稚園で教わった。嘘を一つつくと、延々とつき続けなければならなくなります。だから、嘘をついてはならないよ。春菜ちゃん。
「あの、すみません。訳あってみんなには紹介できない人なの」
ペコリとお辞儀した。
「未来にはきっと紹介できる日も来ると思うんだけど、今は勘弁して」
「……」
両手を合わせたままでゆっくりと顔を上げると、サオリが難しい顔になっていて、三原ちゃんが気の毒そうな顔をしていた。
「あの、どうしたの?二人とも」
「うん……」
しんとする。三原ちゃんがわたしと目を合わさないようにしながら、そっとカクテルを飲み、サオリは相変わらず難しい顔をしている。
「ま、飲もう」
「うん」
カチリとまるでお通夜のようにグラスを合わせて酒を飲む。
「あの、どうした……」
「春菜」
「はい」
「春菜みたいな子はもっとさ、いい人いるよ」
「え?」
なぜか別れを勧められています。その時、ポケットの中でスマホが震えた。つい出して見てしまった。
『じゃ、先帰って適当になんか食べる』
怒ってっかな?そっけないな。そこに追加が入る。
『ごゆっくり』
いや、でも、こんなことで怒る人じゃないか。
ついにへらっとしてしまった。そして、その顔を見られた。慌ててスマホをしまう。
「あ、ごめん。話の途中で」
「彼氏?」
「あ……、はい」
サオリがため息をついて、三原ちゃんがそれを嗜める。サオリの腕をそっと掴む。
「ね、好きなものはしょうがないんだって」
「でも、春菜には似合わないよ」
「ね、春菜ちゃん、春菜ちゃんの気持ちもわかるからあんまり言わないけど、引き際はきちんと見極めたほうがいいし、長い時間をかけちゃダメよ」
「……」
何か、話がよくわからない方へ進んでいるような気がするのは気のせいだろうか……。
「ね、せっかくこうやって三人でいるんだしさ。この話はこれくらいにして。ご飯食べよ」
そして明るくさっぱりとわたしの彼氏話は終了した。
***
帰りの電車の中で思う。やっぱ上司と恋愛なんてめんどくさいなと。同じ会社じゃなければ秘密にする必要なんてないのにな。惚気話したかったな。
ま、いいか。
彼氏の家に行く途中でコンビニに寄る。性懲りも無くまたお酒を買い、そして、おつまみになりそうなものを買う。ほろ酔いでふらふらと歩く。気分がよかった。空に浮かぶ月を眺めながら鼻歌歌いながら歩いた。
「ただいまぁ」
もらった鍵でドアを開けようとしたら、ドアは開いていた。中入って鍵をかけると、人の家に上がる。
「おかえり」
ふざけてただいまと言ったら、おかえりと返された。中川さんはもうお風呂に入ったみたいで濡髪でタオルを肩にかけてテレビの前でお酒飲んでた。
「何飲んでんの?」
「ジン」
「ご飯食べたの?」
「簡単に」
コンビニのビニール袋抱えていそいそと横に座って、自分は自分で缶チューハイを取り出した。それとつまみ。
「あ、またこんな時間に」
「いいじゃん」
「これはやめとけ」
「えー」
ポテトチップ、取り上げられた。
「全部食べないから」
「一口食べたら止まらなくなるから」
「えー」
「じゃ、これの代わりになんかだしてあげるから」
「なんかって、なんかあるの?」
ポテトチップをしっかり手に持って立ち上がって冷蔵庫のほうに行く中川さんについてった。
「ほら」
キムチ渡された。
「これなら夜中に食べてもいいの?」
「何倍かマシだよ」
それで二人で深夜番組見ながら晩酌をする。それで、今晩の尋問の様子について語った。
「なんかね。変なの。二人とも突然態度が変わったというかなんというか」
「春菜」
「ん?」
「わからないの?」
静かにじっと見られた。それで、その顔を見ながらとりあえず一度考えてみる。やっぱりわからない。
「何が?」
「不倫してるって思われたんだよ」
「え……」
今晩の会話を思い出す。
「ええっ」
「訳あって会わせられないけど未来にはって、相手の離婚が成立したら紹介できるって思われたんだよ」
「そんな、え、そんな、どうしよう……」
わたしはそんな道に外れたようなことするような人間じゃ……。
「誤解解かなきゃ」
「じゃ、なんで会わせられないのって聞かれるよ」
「……」
「どうする?」
「顔が変な人だから……」
はははと笑われた。
「もう、他人事だと思って」
「いや、思ってない、思ってないって」
どっちともバレたらもろ仕事に影響する。
「とりあえず嘘ついてる訳じゃないし、そのまま誤解してもらったら?」
「いや、でも、二人に不倫してるって思われるのはなぁ」
飯塚家の家訓に背くなぁ。
「実際はしてないんだからいいじゃん」
「ううん」
わたしが眉間に皺寄せて難しい顔をしていると、中川さんがそっと人の顔覗き込んでくる。
「後悔した?」
「え?」
「やめときゃよかったって思った?今」
「いや……」
なんだかじわりと酔いが回る。
「まさか」
わたしはタイムマシーンで戻ったって、この人を得るために何度だって同じ行動を繰り返すだろう。
この人が自分のものになったなんて信じられない。まだ夢見心地な中にいました。この時。
中川崇
週末の朝、ベッドの中で目が覚めると、離れたところで何か物音がする。時計を見て時間を確かめた後、もう一度半分起きていて半分寝ているような状態で微睡むのが好きだ。土曜日の朝は、掃除の音がした。洗濯や掃除は昨日終わってたから、今日は多分朝ごはんでも作ってるのだと思う。半分眠った状態でその音をまるで音楽でも聴くように聴いていた。
もしも会社のみんなが春菜の僕の家での様子を見たら少なからず驚くだろうなと思う。
なんか、甲斐甲斐しく家事とかしそうに見えないんだよな……。会社での様子では。
ま、でも、その様子はみんなは知らないでいい。別に。
こんなそばに実は、自分のことを大切にしてくれる人がいたんだなぁ。ちょっとしみじみとしてしまった。最近よく陥る心境である。一人での生活が長かったせいか、それとももう若くないのか、時々妙にしみじみとしてしまうのである。
そして、なぜだろう?これも最近よく陥る心境なのだが、あの、かつての恋人、あやちゃんのことをよく思い出すのである。
「いつまで寝てるの?」
やることなくなったのか春奈が寝室を覗きにきた。
「おはよう」
「おはようって時間でもないよ」
「おいで」
ベッドに上半身起こしたままでそう言うと、ちょっとだけ恥ずかしそうにした後で素直によってきた。
犬みたいだな……。飼い主に従順な子犬。
ぎゅうっと抱きしめた。
「このまましばらく一緒に寝よ」
「いや、いらないいらない」
逃げられた。
「早く起きな。朝ご飯できたよ」
「あー、うん」
パジャマのままでリビングに行ってテーブルに座って上に並んでいるものを見る。
野菜がいろいろ入ったスープの真ん中に卵が浮かんでる。ポーチドエッグというやつか。
「なんか綺麗」
「大袈裟な。ちょこちょこ残ってた野菜を全部使いたかっただけだよ」
「ふうん」
向かい合って朝ごはんを食べる。
「中川さんって朝弱かったんだね」
「春菜は強いね」
「そうかな」
「なんかいっつも元気だよね」
「え?」
「羨ましい……」
ぷっと笑われた。
「人のこと見て、そんなこと思ってたの?」
「いや、俺だけじゃなくてみんな思ってると思うけど」
「そんな別に普通だけど」
「本人はそう思ってるのかもしれないけどさ」
「普通普通」
そして、リモコンでテレビをつけた。ニュースをしていた。ニュースを見ながらご飯食べている春菜を眺めていた。
「最近さ……」
「うん」
テレビを見ながら人の話を聞いている春菜に向かって話しかけた。彼女の耳の形を眺めながら。
「なんか長い間悪い夢を見てたみたいだなぁって思うんだよ」
「そうなの?」
「今になってなんか妙に昔の彼女のことを思い出すんだよね」
脇見していた春奈がまっすぐに僕を見た。
「なんで?」
「いや、なんか、悪いことしたなぁって。謝りたいっていうか……」
「……彼女ってどんな人だったの?」
「そうだなぁ」
久しく思い出していなかったあやちゃんのことを思い浮かべる。
「同じゼミの子だったんだけど、ゼミで1番頭の切れる子だったなぁ」
「へぇ」
「なんで俺のことなんか好きになったんだろって思うようなさ。もっと他にいいやついただろうに」
「ふうん」
ずっと忘れていたのに、不思議と最近あの頃のことを鮮やかに思い出す。なんでもっとあの時、あの頃を楽しめなかったのかなぁ。
自分を思ってくれる人もいたのに。
「なんかサオリみたいなタイプの人だったの?」
「ああ、あそこまでじゃないけど、でも、ちょっと似てるかも」
「中川さんってそういう人がタイプなんだ」
「ん?」
そこでふと我に返った。
「いや、タイプって訳じゃ、別に」
「ふうん」
春奈が無表情に僕を見つめてくる。食べかけのトーストをそしてパタリと皿に置いた。
そして、立ち上がった。
「どうしたの?」
「用事思い出した」
「え……」
そして、スタスタと部屋の中を歩き回り荷物を拾いながら歩く。後ろをアホみたいについて歩く。
「え、どうしたの?なに、用事って」
「用事は用事です」
いや、でも、その用事はトーストを食べかけのまま置いて速攻帰らなければならないほどのものなんですか?
テーブルの上の春菜の歯形のついたトーストを眺めつつ思う。
でも、彼女はパタンと音を立ててドアを閉めると本当に帰ってしまった。
その後、テーブルに一人パジャマのままで座りながら春菜の歯形のついたトーストを眺めながら思い詰めた。
なんか、失敗したぞ。どうしよう。
あのくらいの年齢の女の子の考えてることってよくわからない。
というか、自分ってそもそも女心のわかる人間なんだろうか?
……
社長の、春菜は男を捨てる時は明るくすっきりさっぱりいきそうだなという言葉が浮かび上がってきて頭の中でぐるぐる回り出した。
***
月曜日、会社で
トイレで手を洗っていると、横に部下の男の子が並んで手を洗っている。
「おはようございます」
「おはよう」
手を拭いて出て行こうとするところを呼び止めた。
「野田くん」
「はい?」
きょとんとこっち向いた。近くによるとまず出口から外を眺めて廊下の右と左を見渡す。クリア。それから、後方のトイレを見渡す。
個室に……、誰かいるだろうか……。
「あの、何か?」
「あ……」
「どうかしました?」
野田くんがちょっと心配そうな顔になった。
こほん
「あの、いや、別にたいしたことではないのだけれど」
「はぁ」
「本当にたいしたことではないのだけれど……」
「ええ」
「相談したいというか、聞いてもらいたいことがあって」
「仕事の件ですか?」
「……」
みなまでいう前に察する部下。
「ああ、いいですよ。もちろん。あの、今からですか?」
「いや、その……」
「じゃ、仕事終わった後に。中川さんに合わせますんで」
穏やかな笑顔でそういうと事務所の方に去っていった。
年下なのに、それに相手は部下なのにどうかと思いますが、でも、なんか……、野田くんって話しやすいんだよな。北海道出身だからだろうか?この人になら立場を忘れて弱みを見せても大丈夫な気がする。
***
夕方
「え、崇、何、行かないの?」
その日の夜、とあるIT系の社長がパーティーを開くことになっていて、神谷が呼ばれてた。付き添えと言われてたのを忘れてた。
「今日はすみません。ちょっと頭痛が……」
ちょっと離れたところで春菜がちらっとこっちを気にした気がする。気のせいだろうか。
「自己管理も仕事のうちなんだがな」
「他の人に言われたら素直に謝りますが、あなたにだけは言われたくない」
「なんだ、元気じゃん。ちらっとだけ顔見せろよ」
「男が行くより女の子が行った方が向こうも喜ぶんじゃないですか」
「いや、サオリはもう行くことなってるし……」
社長が社内を見回す。
「野田くん、たまにはどう?崇が行かないなら」
「あ……」
人のいい部下が困ってる。
「なんだ。先約があるのか」
「すみません……」
それから神谷、春菜を見た。
「この話の流れで声をかけるのも失礼かもしれませんが……」
「はぁ」
「たまには両手に花で行くか?」
「……」
「なんだ。珍しく機嫌悪いな。美味しいものあるぞ」
「行きます」
「そうこなくっちゃな。いい男もいるぞ」
神谷がそう言いながらちらっとこっちを見た。
心の底からイラッとしました。首を絞めてかまわないなら、首を絞めたいぐらいに。
そしてみんなでぞろぞろと出てった。春菜は前ばっかり向いて後ろを振り向かなかった。
やっぱり、怒ってる……。
「中川さん」
「ん?」
「どうします?僕、今からでも出られますけど」
「あ、あの人たち、というか、社長に見られるのが嫌だから、もうちょっとしたらでいい?」
「なるほど。了解です」
それで溜まっている仕事をしばらくする。
落ち着け、自分。大丈夫だ。
別に先週と今週に違いなんかないだろ?
仕事だって先週から今週にかけて別に何も取り立てて変わり映えしないじゃないか。
別に俺の人生先週と今週と変わってない。同じだ。ハッピーだ。
しかし、そこにまた忍び寄る神谷の一言
明るくすっきりさっぱり……
「中川さん」
「ん?」
別に取り立てて大変な内容の案件を確認していたわけでもないのに、いつの間にかPCの前で頭抱えていると、野田くんが声をかけてくる。
「もうそろそろ、出ます?」
「ああ、うん、そうだね」
デスクを片付けて、電気を消すと鍵をかけて外に出た。
「何食べたい?」
他の会社の人たちもちょうど退勤の時間なんだろう。雑踏はスーツ姿の大人たちで賑わっていた。
「女の子がいると行きづらいようなとこ行ってもいいですか?」
「いや、うちの女の子たちはわりかしなんでも食べるんじゃないの?」
「ま、そうですけどね」
そして、目の前で揚げてくれる天ぷら屋さんへ暖簾を分けて入る。カラカラと滑りのいい引き戸の明るいお店だった。
「こんな店、よく知ってるね」
「いや、教えてもらったんです」
「誰に?」
「店舗の皆さんですよ。そりゃ、詳しいです。食いしん坊が多いから」
「ああ、そっか」
おじさんたちに、そりゃ大切にされてる子だ。俺なんかより何倍もおじさんたちにお供して色々食べ歩いているんだろう。
カウンターに並んで座る。
「中川さん、納豆って食べられます?」
「大丈夫」
「じゃ、納豆揚げたの、頼みますか?」
「うん」
メニューを見ながら、いろいろ説明しながら注文してゆく横顔を見ながら思う。野田くん、成長したなと。気を遣っていると相手に悟らせないで、でも、相手をいつの間にか安心させている。持って生まれたものもあるんだろうけど、自分のその強みみたいなものの活かし方を最近覚えたような気がする。
「野田くんって彼女いないの?」
「なんですか?急に」
「いや、結婚したらいい旦那さんになりそうだと思って」
「そりゃどうも。でも、残念ながら相手はいませんけど」
「すぐ見つかるよ」
「それより今日は中川さんの話を聞くはずなんですが」
「ああ……」
そうでした……。
「なんか飲みますか?」
「そうだね」
「日本酒?」
「あ、いや……」
焼酎にしました。
「その……前も、ちょっと話したことがあると思うんだけど」
「はい」
意味もなくお通しの里芋に箸をブスッ、ブスッ、と挿しながら口を開く。
「あの、野田くんと同じくらいの年の子の話」
「ああ、あの残念ながらの子」
不思議なあだ名がついていた。
「実は……」
「えっ」
「へい、お待ちっ」
揚げたての天ぷらが目の前に……
「誘いに乗ったってことですか?」
「あ、いや、というか……」
「それで、遊びのつもりが付き纏われているとか?」
「……」
全く違う方向に話が転がっている。
「いや、そういうのはむしろ僕より社長の方が相談に乗れるんじゃ」
「違う、違う」
手を振って否定する。
「違う?」
「とりあえず、せっかくだから食べようか。冷めちゃうと勿体無いし」
天ぷらに箸を伸ばす。サクッとカラッと美味かった。さすがプロだな。
「実は付き合うことになって」
「そこまでいいと思ってなかったけど成り行きでですか?」
「あ、いや」
「それで、やっぱり断りたいけど、うまく断れずにいるとか?」
「違う、違う」
なぜか、また、この流れに……。やれやれ。
「何年かぶりで本当に好きだなって思える人で……」
「へ……」
「へいっ、お待ちっ」
次の天ぷらがきた。
一瞬虚をつかれて黙った野田くんがパッと明るい顔をした。
「なんだ、良かったじゃないですか。なんか、それ聞いて俺も嬉しいです」
「うん……」
僕のノリの悪さに野田くんは戸惑った。
「それなのに、どうしてそんな浮かない顔してんですか?」
「僕ね、野田くんぐらいの歳の女の子が何考えてるかよくわかんないんです」
「ああ、それ、前も言ってましたね」
「というか、女心がよくわからない。まともに付き合うのすごい久しぶりだし」
「そうなんですか」
「おこらしちゃったみたいで……」
「え、いつ?」
「昨日の朝」
「なんで?」
焼酎に大葉と唐辛子を入れてお湯で割る。とある知人の方が金魚と言って喜んで飲んでいたやり方だ。ちょっとだけピリッとして大葉の爽やかな味わいと共に美味しいんです。とりあえず酒を飲んだ。
「僕のことを馬鹿だと思っていいから」
「ええっと、あ、はい」
そして、前置きをわざわざ置いてみた。
「ちょっと浮かれていたというか」
「はい」
「……」
「で、何があったんですか?」
勇気を持って告白するように勧める神父様のような優しさで野田くんが控えております。
「つい、元カノの話をしてしまった」
「あー」
「別に深い意味はなかったんだけど」
「具体的になんて話したんですか?」
僕の空いたグラスに野田くんがおかわりを作ってくれる。
「昔、悪いことしたから会って謝りたい」
「それ……」
とぽとぽとぽ、お湯を注ぎながら優しい野田くんは言葉を止める。
「いいよ。はっきり言って」
「アウトですね」
チーン
「今更会ってどうするの?より戻したいんかって思われましたよ」
「いや、全然そんなんじゃないんだけど」
「僕にいってどうすんですか」
確かに……
「それで、彼女、どうしたんですか?」
「その言葉を聞いた途端、突然立ち上がって荷物まとめて帰っていった」
「追わなかったんですか?」
「え……」
野田くんの顔を見つめる。野田くんも僕を見つめる。
「お兄さんたち、冷めちゃうよ」
「あ、すみません」
目の前で天ぷらを揚げてくれるおじさんに怒られた。とりあえず揚がったものを食べる。
「追った……方が良かったのか」
「追って、すぐごめんなさいって言ったほうがこじれないでしょ」
「そうか」
「追ってこなかったってことは、やっぱり元カノに会ってどうにかなりたいんだって思ってるかも」
「ええ?」
「さっさと誤解解いた方がいいですよ」
「どうやって?」
「どうやってって」
「電話とかじゃない方がいいんだよね?」
今にも椅子から立ちあがろうとしている僕をみて、はははと笑われた。そして腕を捕まえられた。
「中川さん、落ち着いてください」
「はい」
「とりあえずネクタイを外しましょうか」
「……」
なぜ、若者はいつもネクタイを外したがるのだろうか。ま、いいか。やれやれ。大人しくネクタイを外した。それから、焼酎をもう少し飲みました。
「その、彼女さんが中川さんのどういうとこを好きになったのかはわからないんですが」
「うん」
「でも、向こうから好きになったんですよね?」
「まぁ、そうですね」
「で、元カノのことを聞いて怒ってさっさと帰っちゃうってことは、やっぱり相当中川さんのことを好きなんだと思うんですよ。彼女は」
「そうなの?」
「いや、しっかりしてください。いつもの中川さんはどこ行っちゃったんですか?」
いつもの自分ってどんな自分のことを言っているのだろう?
「あの、付き合い始めの頃はですね」
「はい」
「駆け引きってものがあるものだと思うんですよ、やっぱり」
「へぇ」
「彼女は中川さんのこと好きで、自分の家に連れ込むぐらい追ってたわけですよね?」
「あの、野田くん、ちょっと声が……」
周りの人に聞かれている気がするんですが……。しかし、ちょっと酔っちゃったのか野田くんに僕のゆるい抗議は響かない。
「ですよね?」
「はい」
「それに中川さんの方が年上だし」
「はい」
「憧れの人なんですよ」
「……」
憧れの人?
「その人が突然血相変えて自分のことを追ってきてはいけません」
「……」
「わかります?」
一応ちょっと考えた。
「さっぱりわかりません」
「いいですか?いわばあなたはうさぎなんです」
「うさぎ……」
「うさぎは逃げるから追うんです」
「はい」
「必死になって追ってたうさぎが突然回れ右して自分の腕の中に自分から飛び込んできたら?」
「ラッキー?」
追う苦労をしなくて済む。
「いや、狩りはそうではない」
これは狩りの話だったのか……
「必死になって追ってたうさぎが自分から自分の腕の中に飛び込んできたら」
「飛び込んできたら」
「興味が失せる」
ぶっ ごほごほごほごほ
「大丈夫ですか?」
「ごめん」
野田くんが自分のお手拭きであちこち拭いてくれる。
「うー」
「全部が全部当てはまるとも思いませんけど」
「いや、でも……」
「でも?」
「うちの彼女まんま当てはまる気がしてきた」
「そうなんですか?」
「ある日、いきなりすっきりさっぱり僕に飽きて消えていなくなりそう」
ばっははーい
僕の頭の中で明るく手を振る春菜がいる。なぜか狩猟姿のエルフのような格好してて、肩に弓と弓矢を携えている。
「いや、そんなことはないですよ」
「そうか?」
「自分の家に連れ込むくらい好きになった相手ですよ」
「あの、野田くん、それ、何度も言うのやめてほしい……」
酔いがすこし冷めました。
「でも、付き合い初めは駆け引きが重要ですから。徐々にそんな駆け引き必要なくなると思いますけど」
「はぁ」
「付き合う前とあまりギャップがあると一気に墜落する可能性があります」
「ギャップ?」
ふっと笑われた。
「中川さん、自分で気づいてないんですか?」
「何に?」
「いっつもの中川さんと今の中川さん、まるで別人ですよ」
「……」
「いつも仕事では落ち着いているじゃないですか。チャラチャラしている社長の横で好対象なんですよ。ノリのいい男の人が好きな人は社長に惹かれますけど、落ち着いた男の人が好きな人は中川さんに目がいくんです」
ははははは、笑った。
「ないないない」
「無自覚なんですね」
「え……」
「ま、だから、彼女もきっとそういう大人な中川さんの雰囲気に惹かれていると思うんです」
「はい」
「その人が、血相変えて謝りに家に押しかけてはいけません」
「あ……」
「徐々に付き合ううちにそういうまんまの自分を見せてもいいと思いますけどね、いきなりはいけません。相手に見えている自分を意識して行動しないと」
「野田くん」
「なんですか?」
「コーチングってこんなことまで勉強するの?」
「え、いや、まさか。これはコーチングではないですよ」
「でも、素人ではないよね」
「ん?」
「うち辞めてもなんか結婚相談所とかでバリバリやってけそう」
「何言ってんですか。話を逸らさないでください」
「……」
わりと、鬼教官ではないですか。
「よく考えて、きちんと対応しないと逃げられますよ」
「はい」
「手に入れたと思って安心してはなりません」
「はい」
どっちが年上だかわからない。
「でも、具体的にどうすればいいのか」
「ちゃんときっちり謝って素直に自分の気持ちを話しましょう」
幼稚園で喧嘩した時に先生に教わることと同じ内容でした。
「でも、その時にちゃんと大人の余裕を演出してください」
「大人の余裕……」
なんじゃ、そりゃ。
「具体的にどうすれば……」
「いや、それは自分で考えないと」
なぞなぞだな。大人の余裕……、大人の余裕……。
「一つに慌てない」
「はい」
「二つに向こうのほうが好きでこっちが主導権を握っていると思わせる」
「……」
なんだか腑に落ちない顔をしていると、鬼教官、言葉を足す。
「実際は、中川さんは彼女に振り回されていて、向こうが主導権握ってるみたいですが、その事実は伏せる」
「はい」
「いいですか。ここ重要ですよ。あっさり城が落ちたら、お姫様は次の城攻めにさっさと出かけてしまいますよ」
「……」
笑えない冗談だ。
「繰り返します。二つに向こうのほうが好きでこっちが主導権を握っていると思わせる」
「はい」
「三つに向こうが大人の中川さんに期待するような謝りのシーンを演出してください」
「え、いや、何それ。無理」
「なんで?」
「いや、歯の浮くようなセリフとか無理。キャラじゃない。そういうのは、あれだ。社長が得意だ」
「いや、できる」
「いやいや、無理無理」
「だって中川さん、ウェイターやってる時、お客さんの喜ぶように色々できるじゃないですか」
「いや、あれは仕事」
「仕事だと思って」
チーン
「彼女をお客さんだと思って、彼女が感動して涙をこぼすような謝りのシーンを演出してください」
「……」
「以上、終わり」
ほんとこの人、なる職業間違えたんじゃなかろうか……。
***
そしてその日の夜、電車を降りて家へ向かって歩いていると電話がなる。社長だった。スマホを取り出してしばらく出るかどうか迷った後に出た。
「はい」
「お前さー」
「なんですか?」
「づかちゃんと喧嘩でもした?」
どうしてこの人は、こういうことに関しては嗅覚が効くのか。
「別に」
「そうなの?なんか今日、元気なかったけど……」
「……」
「他の子ならともかくづかちゃんが元気ないのって珍しいよなぁ」
「人間だもの、たまにはそんな日もあるでしょ」
「なんか声かけられてたぞ」
「は?」
「二次会行こうって誘われてたぞ」
「え……」
「わりとモテてたな。若い女の子少なかったし」
「……」
さっさとこの電話を切って春菜に電話をかけようかと思う。
「あ、でも、なんか全部断って帰ってった」
ホッとした。
「とぼとぼと」
そう言われて、その背中が見えた気がしました。春菜の背中。なんだかその時、さっきまでの焦った気持ち。このまま振られちゃったらどうしようといったような気持ちとは別の気持ちが湧いた。ごめんなさいという気持ち。
「いっつも元気な子がしょぼんとしていると自分の女でなくとも気になるわ」
「はぁ」
「しっかりしろよ。何があったか知らんけど」
「すみません」
「いや、俺に謝っても意味ないだろ。なんかづかちゃんの喜ぶようなものでも買ってさ、謝りにいけ」
「はい」
「じゃあな。切るぞ」
何やってんだかな……。そんな子供と言えるような年齢でもないのに。
いろんな人に心配かけるわ。
この日、久々に自分のことがとことん嫌になった。
いっつも元気な春菜をしょぼんとさせてしまいました。
そのことに胸が痛んだ。
あの子にはいつも笑っててほしい。それはきっと自分だけの望みでもないと思うんです。
みんなに愛されている子ですから。
***
次の日の夕方
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
「あの、店長さん、いらっしゃいます?」
「はぁ、奥の方に」
「呼んでいただけませんか。フォンテーヌの中川と申します」
「少々お待ちください」
待つ間にお店の中をぐるっと見渡す。当たり前だが、右を向いても左を向いても花ばかりだった。
「どうしたんですか?」
パタパタと奥から実花さんが出てきた。
「何かご用でしたらわたしの方から伺いますのに」
「あ、いや、今日は仕事ではないので」
「え……」
「そのう……」
どう説明していいかちょっと思いあぐねた。
「あ、わたし、配達あるんだった」
不意にさっき応対してくれた店員の子がパタパタとその場を外す。
「仕事ではないと言いますと、どういう?」
「あの……」
子供みたいに口籠もってしまった。
「すみません。ちょっとこういうのがブランクありすぎて……」
「ああ、いや、別に」
実花さんが笑いながら僕に合わせてちょっともじもじしながら話し出すのを待っている。
「花束が欲しいんです」
「はい?」
なぜか、ここで、大きな声を出された。
「え、だめですか?」
「いや、まさか別に……。仕事用ではなくてプライベートで花束を?」
「はい。彼女に」
「かのじょお?」
なぜか、ここでも、大きな声を出された。
「だめですか?」
「いや、まさか。でも、この前、彼女いないって言ってませんでした?」
「いや、最近できたんですよ」
「あ、へー、それはそれは」
「それで、なんか久しぶりすぎて、ちょっと浮かれてたのか失言してしまって」
「ああ、それはまた」
「謝りに行くのになんか持ってこうと思っても、なんか花束くらいしか思いつかなくて……」
「まー、幸せな彼女さんですねぇ」
たまたま手に持っていた園芸用の鋏をチョキチョキしながらニコニコしながらそんなことを言う。ちょっと怖いなと思ったが黙っておいた。
「で、何をお包みしましょうか?」
「こんな時ってどんな花がいいんでしょう?」
「そうですねぇ」
「まだ若い子なんですけど」
「はぁ、若い子……」
なぜだろう?僕の話を聞きながら、実花さん不意に目の前の売り物の花を花弁の下のあたりの茎からちょっきりと切ってしまった。花はポトリと下に落ちた。
「あ、あの」
「あら?」
二人で店の床に転がった哀れな花を見る。
「あらやだ。ほほほほ。わたしとしたことが」
ぱっと落ちたの拾ってポイッとあっちに飛ばした。
「あの、持って歩くのが恥ずかしいから、こう適当にいろんな花混ぜてちっちゃなのを……」
「何言ってるんですか」
「え?」
「年をとったって若かったって、女の人が男の人から欲しい花なんて決まってるんですよ」
「え、そうなんですか?」
そして、実花さんは手際よく一つの花束を作ってくれた。
それは本当にシンプルな赤い薔薇の花束。
「いや、こんなおっきいの、しかも、薔薇?」
「中途半端なことしてちゃダメですよ」
「いや、お金の問題じゃないんです。これ、目立つし……」
「だめだめ。柄にもないなんて思ってないで、中川さん、花束似合いますよ」
「そんなこと言われたの初めてですよ」
「きっと通り過ぎる女の人たち、みんな、羨ましいなって思って、見ますよ。みんなね、好きな人からは赤い薔薇を贈られたいんです。あの人の彼女か奥さんが羨ましいなって思ってジロジロみられます」
「えー」
「その恥ずかしい中を我慢して買って帰ってきたって言うのもプレゼントなんですよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです」
それで、なんだかちょっとぷりぷりしている実花さんからその豪華な(予定ではこんな豪華にするつもりではなかった)花束を受け取ってお金を払って店を出た。予告通りにほんとにジロジロみられた。穴があったら入りたいと思う。でも、穴がないので頭の中で別のことを考えた。
これは、元カノの話なんかして怒らせた彼女にお詫びのために持っていく花ではない。
僕は今日会社を辞めた人で、送別の意味で渡された花束です。
……
でも、男が会社辞める時に、流石に赤い薔薇だけで作った花束は渡さないよなぁ。
それで、別のことを考える。
僕はピアニストで、今日、リサイタルを終えてその際に赤い薔薇の花束を渡されたんです。
……
こんなスーツでピアノは弾かないか……。
しょうがないので最後は電車の隅っこで外を向いて立ったまま寝たふりをしたというかなんというか、周りの人と顔を合わさないようにして過ごした。
飯塚春菜
奏さんの方ばかり向いてた中川さんが、突然わたしの方を向いてくれて、そして、こっそり隠れて付き合うようになった時、自分としては奇跡でも起こったような気分でいたんです。浮かれてた。毎日が幸せでたまらなかった。だけど、自分の中にはまだ不安な気持ちがありました。
だから、中川さんが突然昔の彼女の話をした時に、頭で考えるよりも前に体が動いていた。それで、逃げ出した。
その後、何度も何度もどうして中川さんが不意に昔の彼女の話なんてし出したのかについて考えたんです。
奏さんからやっと自由になって落ち着いてきた時に、思い出したのかなと。
わたしは、奏さんから自由になりたい時に、1番そばにいただけなのかなと。
中川さん、自分が本当はどんな人が好きなのかとか気づきはじめてて、わたしとのことしまったとか思ってるのかも。
中川さんが好きな人って、本当はわたしみたいなタイプじゃないと思うし……。
浮かれてたから気づかなかっただけ。本当は中川さんの気持ちはわたしのところになんてなかったのかもしれない。
そこまで思い詰めることもないのかなとか、ちゃんと本人と話し合ったほうがいいんだろうなとか、そんなまともな考えはあるんだけど、でも、なんだか怖くて自分から連絡を取れずにいました。
そんな火曜日、夜、家にいると、玄関のチャイムがなった。
「はーい」
宅配便かなんかかな?田舎からお母さん、なんか送ってきたのかな?
そんなことを考えながらガチャリとドアを開けた。
「こんばんは」
するとそこにスーツ姿に赤い薔薇の花束抱えた中川さんが少し恥ずかしそうに笑いながら立ってました。
「どーしたの?」
両手に抱えきれないくらい大きい花束。大変そうと思って受け取ろうとしたら、
「あ、ちょっと待って」
わたしのその手を制して少し下がる。それからそっとおっきな花束をわたしにくれた。
「落としちゃうとこだった」
小さなケーキの箱持ってきた。わたしは薔薇の花の香りを嗅ぎながら彼に聞きました。
「それ、なあに?」
「チーズケーキ」
「どこぞの名店の?」
「そこの駅前のケーキ屋さん」
花を抱えながらわたしは笑った。中川さんも笑いました。
「あがって」
彼がドアを支えてわたしが先に入る。後ろから中川さんがついてきた。
「でも、残念でした。あの店の本当に美味しいのはレアチーズケーキなのよ」
「どっちも入ってるよ」
「え?」
「ベークドとレアと一つずつ買ったから」
「そっか」
さっきまで一人でペタンと座っていたテレビの前のローテーブルの位置にもう一度座る。薔薇の花を抱えながら。
「今、食べる?」
「うん」
「コーヒー、淹れる?」
「うん」
わたしの家の狭い台所で好きな人がコーヒーを淹れている。やっぱり何だか姿勢が綺麗というか、所作が綺麗。この人の場合、これは職業病。横からのんびり眺めた。変なものだ。ついさっきまで1ミリもずれていないこの床の上で憂鬱でたまらなかったのに、あっという間に消し飛んでしまった。
「はい、どうぞ」
「二つ食べれないよ」
「食べさせないよ」
「じゃ、一つ食べるの?」
「うん」
「珍しいね。夜に甘いもの食べるの」
「今日は特別」
「半分こしていい?」
わたしがフォークを持ってそういうと、中川さんがふっと笑った。この人のこの顔が好き。一口に笑顔と言っても、一人の人にも何通りもの笑顔がある。この笑顔は会社にいる間は見られない、特別な笑顔。
半分こしていいと言われたこととして、レアチーズの方から口に入れた。さっぱりとした甘みが口の中に広がる。
「わたし、今日、誕生日とかじゃないんだけど」
「知ってるよ」
「こんなおっきな花束もらったの、生まれて初めて」
わたしはまだあろうことか片手で花束を抱えてた。おろせばいいのに。片手で花束を抱えて、片手でフォークを持っていた。
「春菜」
「ん?」
「ごめん」
「……」
「ごめんなさい」
好きな人の気持ちがどこにあるかなんて……
目に見えない。
例え、それを言葉に出して伝えられたとしても、人間は嘘をつくことができる動物じゃないですか。
信じられないものだと思うんです。
どこにも確かなものなんてない。
それなのに……
この数日、思い悩んでいたこと、それが、彼のたったそのごめんなさいという六文字の言葉で消えたのはどうしてだろう?
人を本気で好きになると、その人に自分と同じように愛されたり求められたりしないことが苦しくてたまらないものだと思うんです。
そして、一つ間違えると相手の気持ちが信じられなくて地獄のようなところを歩くことだってあるかもしれない。少し前の自分ならそんなこと理解できなかった。全然違う世界に住んでいたんです。
わたしは今とは全然違う世界に住んでいたんです。あなたに恋をするまでは。
どうでもいい相手にだったら、ここまで苦しんだり悩んだりしない。
「何に謝ってるの?」
「元カノの話なんかしてさ」
「……」
そっとわたしの腰に腕を回して体を寄せてきた。
「春菜と一緒にいるようになって」
「うん」
「すごい元気になったから、だから、昔傷つけてしまった人のことを思い出しただけ。自分が幸せになると他の人にも幸せでいて欲しいというかさ」
「……」
「でも、今、どこにいて元気でいるかどうかとか、正直どうでもいい」
「うん」
「春菜がいればそれでいい」
夢が叶ったな。こんなに早く叶うなんて思わなかった。大好きな人が赤い薔薇の花束を持って自分のいる家に帰ってきてくれる。でも、きっと……。
「ね、中川さん、赤い薔薇の花言葉って知ってる?」
「花言葉?」
やっぱり。ため息が出た。
「知ってて買ってきたわけじゃないんだ。じゃ、なんで赤い薔薇にしたの?」
「いや、実花さんに……」
「実花さん?」
つい条件反射できつい声が出てしまった。
「え、何?なんかまずかった?」
ちょっとオロオロし出した。中川さん。
「ね、春菜ちゃん、機嫌直して。この数日、生きた心地が……」
途中で言葉を呑んだ。
「なに?生きた心地が?」
「いえ、なんでもありません」
なぜかこの時、急にしゃきんとした。
「実花さんとこで買ったのか。なんて言って買ったの?」
「彼女にあげるって言ったよ」
「え?嘘」
「別に彼女が春菜だとは言ってないけど」
「実花さんがっかりしてなかった?」
「がっかり?」
きょとんとした。
「なんでがっかりするの?」
「……」
本当に鈍い人だな。
「花瓶あったかな?」
まだわたしを抱きしめていた彼の腕を解いて立ち上がる。
「一旦何か別のものに入れて明日おっきな花瓶買おうかな」
ベランダにバケツがあったかも。ガラスの引き戸に手をかけてカラカラと開ける。あったあった。片手に薔薇の花を抱えたままで、そのバケツを取り上げる。一度洗わないとな。
そこで、立ったままでもう一度薔薇に顔を近づけてその香りを嗅いだ。
この薔薇は1日でも長く咲いてほしい。
了
*1 だんご3兄弟
NHK教育テレビの『おかあさんといっしょ』のオリジナルメンバーとして発表された、ダンゴ系の童謡であり、また同曲の主人公である三兄弟の串だんごのキャラクターである。(Wikipedia参照)
この曲を思い出すといつも元気が出ます。^^ 汪海妹