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短編集22〜25年  作者: 汪海妹
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4 コウノトリが来た












   4 コウノトリが来た












   小野田夏美












 


 



 


 




 なつをずっと自分のそばにおいて、

 自分のことだけ見させて、自分のものにしたいとは思わないよ。

 学生とは違ういろいろな人と会って、仕事したり、遊んだり、いろいろな世界見て経験して、

 いろいろな可能性の中からそれでもやっぱり俺と一緒にいたいって思ってほしい。












 今日もいい天気だなぁ。

 給湯室から見える空を眺める。


 空、高くなったな。


「小野田さぁん」

「はぁい」


 廊下の方からお局さんのチョピっとひっくり返った声が聞こえる。


「ここにいたの?」

「はい、いました」

「お茶はまだ?」

「はい、ただいま」


 お湯が沸く間瞑想に耽っておりました。


「ちゃんと均等に濃くなるようにね」

「はい、心得ております」


 湯呑みを並べて、片っ端からいれていってはいけない。そうすると先にいれた方が薄くなって後ろの方だけ濃くなるのだ。

 心得ておりますが、お局さんはメガネの縁に手をあてて、じっと見ております。じっと。

 ワタクシ、かれこれ入社してから半年経っておりますが、それでもお茶汲みもまだ不合格でしょうか。

 ちらりと上目遣いに女史を見る。


「あちっ」

「もうっ」


 落ち着きがないとかなんとかひとしきり叱られた。

 いや、あなたがジトっと見てくるからこぼしたんだっつうの。

 離れてゆく背中に悪態をつく。


「小野田さん」

「あ、大森君」

「あ、あの、なんか手伝おうか?」

「え、あの、それはちょっと」


 同期入社の男の子がお茶汲みを手伝うという。

 でもね。事務職のわたしがあなたにお茶をくませたら、この会社の3階でどんな事件が起こるか。


「お気持ちだけいただきます」

「あ、どうも」


 それでも彼奴きゃつはついてくる。お盆に湯呑みをずっしりと載せて歩いてゆくわたしの後ろからついてくる。そんな風に犬のようについてくるくらいなら、さっさと営業に出なさいな。しかし、それは口に出さない。


「こんな古い習慣やめればいいのにね」

「でも、なくならないよね」

「全く非合理的だよね」

「世の中って合理的にできていないのよ」


 そして、髪が薄くなったり、お腹が出ていたりする大人の男たちの待つ営業二課へ。


「ああ〜、朝はやっぱりお茶じゃないとなぁ」


 なぜ、扇子を持ち歩いているのだろう。しかも、もう秋口ですが?お茶を片手に扇子でパタパタと顔を仰ぐ田中さん。目を合わせないようにしながら、次の人へ。


「あ、ごめーん」


 湯呑みを差し出すと、わざと手を出して人の手に触れてくる御仁。松本さん。


「あ、いえ、どうも」


 ニコニコ笑いながら手を離す。全員に無事お茶を配り終わった後にお盆を置きに給湯室へ向かうと……。


「ね、さっきの絶対わざとだったよね。松本さん」

「……」


 わたしに着いてくる大森君。だから、さっさと営業に……。


***


「はぁー」


 やっと席に着いてため息が出た。


「何、どうしたの?朝から」


 横から同じく事務職の制服を着た藤本さんが声をかけてくる。


「いえ、別に」

「大森君と何かあった?」

「いえ、全く、これっぽっちも」


 そして、ポケットからゴムを出して髪を纏めると、パソコンに向かって昨日入力途中だった資料を取り出す。


***


「小野田さん、お昼一緒に行く?」


 お昼休みのチャイムが聞こえたところで、藤本さんが声をかけてくれた。


「あ、すみません。今日は」


 お弁当の包みをそっと持ち上げてみせた。


「頑張るわね」

 

 へへへと笑って答えると、ニコッと笑って、コツコツとヒールの音を鳴らしながら隣の課の人たちと出てゆく。わたしはそのまっすぐのびた背筋を見送った後、お弁当を持って廊下に出る。エレベーターには向かわずドアをぎいっと開けて、階段を上る。数階分上ったとこで、古びたドアをぎいっと開ける。


 薄暗い場所から明るい外へと出た。

 うーんと伸びをした。やっぱり今日は天気がいいな。


 コホンコホン


 咳払いの音がして横を見た。


 あ、やっぱりいた。のど飴の人。関根君。(新入社員研修の時、やたらのど飴食べてたんだ。この人)


 気を遣って関根君から反対の方向へと進み、ベンチなどないので、この屋上は。適当なコンクリの上にハンカチ敷いて座り、お弁当を広げる。

 関根君は関根君で黒縁眼鏡をきらりと光らせた後にわたしになんだか頑固な背中を向けて挨拶もしない。


 わたしは、外でランチをするのは1週間に一回と決めている。節約のためです。少しでも多く清ちゃんの待ってる仙台に帰りたいから。


 のんびりお弁当を噛み締めてると、微かに電子音がした。それが……、じっと耳を傾けていると……、なんだか馴染みがある音なのだ。


 最初にナワバリを乱す敵としてわたしを威嚇した後に、あちらを向いた後頑固な背中を見せ続けていた関根君の方を見る。


 わたしは、お弁当の残りをかっこんだ。そして、そっと弁当箱に蓋をして、きゅっとハンカチでそれを包む。音を一つも立てずに立ち上がると古びたコンクリの間を抜足、差し足で敵に近づく。


 背中から、覗き込んだ。


「あー!デスバレーの最新作」


 これでもかと関根の背中がビクッとした。


「お、お、小野田さん」

「あ、ごめん。でも、音が漏れてたから」


 イヤホンから大音量の音が少し漏れていた。関根君は眉間に皺を刻み威嚇の表情をした。が、まだ動揺が見られてて、いつものような鉄壁の近寄るなオーラを出しきれてない。


「びっくりしたぁ。関根君って会社にゲーム機持ち込むような人なんだ」


 それは携帯型のゲーム機でした。その頃はまだ出始めたばかり。わたしは持ってなかった。なにせ、ここ二年来、遠距離貧乏なもので。


「ね、ね、ちょっとだけやらして」

「ええっ」


 うちの会社の同期で一番頭のいい大学を出ている理系の人。システム開発の新人君。

 頭いい、プラス、頭のいい人特有の周りの奴らは虫ケラみたいな目で見てくる人。皆、一目置くアンド、ちょっと距離を置いておりました。


「いいじゃん。一回ぐらい。わたしはプレステしか持ってないから、それはやったことないの」


 人気シリーズの最新版はポータブルでしか発売されなかった。


「小野田さんってゲームなんてするの?」

「それはこっちのセリフだよ」


 うちの会社の神様と話しちゃったぜ。でも、この人、普通の人だったんだな。そして、まんまとゲーム機ひったくった。


「え、うそ?」


 傍らでわたしのプレイを見てた関根君がうめく。


「なんか、ここら辺の操作が新しいっぽいな」

「え、なんで?」

「ああっ、負けた」

「初めてやったの?」


 約束通り一回やって、高級な携帯ゲーム機を関根君に返す。女に二言はない。


「ああ、これのシリーズはやり込んでる」

「でも、このソフト、今回はかなり改良が入ってて」

「そうなの?ああ、でも、それっぽいな。それに、このゲーム機自体の操作がなんか慣れない」

「これ触ったのも初めて?」

「うん」

「ええっ」


 そして、某有名大学卒業だけど、こっそり隠れてゲームしている関根君とわたしはゲーム友達になった。会社のお昼に屋上でだけ遊ぶ秘密の友達。


***


「なつ、それさ」

「ん?」

「その……」


 清ちゃんが電話の向こうで黙り込む。時々清ちゃんは言いたいことをすぐに言わずに黙り込むことがある。昔のメガネをかけていた頃の清一君を思い出す。結構無口だったんだよ。子供の頃。


「なつに彼氏がいるっていうのは、その関根君は知ってるんだよね」

「やだっ」


 ぶわっはっはと笑った。


「そりゃ、わたしも清ちゃんにそういう雰囲気の人がいるって自慢できる日を待ってるけどさ。全然そういうのじゃないじゃん。相手は神様だし」

「神様?」

「某有名大学卒業の雲の上にいるように偏差値の高い人です」

「……」


 また、黙り込む。


「あ、でもね。ゲームに関しては、一目置いてくれるんだよ。関根君」

「あのね、なつ」


 真面目な声を出された。ふと、今度は清ちゃんに勉強を教わっていた頃のことを思い出す。何度もこんな声で怒られてたわ。


「はい」


 別に誰も見ていない1人の部屋で、テレビの前の床に正座しました。


「いくら小学生の頃のような気分でいたってさ、もう成人した男と女なわけじゃない」

「でも、お昼の屋上だよ」

「だけど、2人っきりでしょ?」

「はい」

「それに、その関根君って、なんとなくだけどあまり友達とかいない人なんじゃないの?それと恋人とかいるのか?」

「聞いたことない」

「お前は、自分もあんま経験がないせいか、相手に勘違いをさせるような行動をとる」

「いや、だから、そんな雰囲気じゃないんだって」

「でも、楽しいんだろ?」

「楽しいは楽しいけど、友達のノリだって」

「友達が少なかったり、恋人がいたことのない人にとっては、そういうのお前が思っている以上に貴重なんだよ」

「……」

「一緒にいて楽しくって、それで勘違いさせたら悲惨だぞ」

「でも……」

「関根君が心配だ」


 え、いや、そこはやっぱり彼女のわたしを心配するところなんじゃ……。

 切られた。


 それで、楽しかったのだけれど、清一君のアドバイスに従いお昼は自分のデスクで粛々といただくことにしました。

 屋上以外で会う関根君は相変わらず神様のような鉄壁の感じで黒縁メガネで武装していた。


***


 清ちゃんは就職が決まって東京と仙台に離れ離れで暮らすことが決まった時、わたしが清ちゃんを追って仙台で就職すると言ったら言ったんです。いろいろな人と会って、いろいろな世界見て経験して、いろいろな可能性の中からそれでもやっぱり清ちゃんがいいと思って、清ちゃんを選んでほしいって。


 わたしは清ちゃんのそばにいたくて仙台からわざわざ東京に進学した。わざわざ追って出てきたのに、今度は仙台に逃げられたというかなんというか。それでも、わざわざ仙台までまた追う?


 やっぱりちょっと違うのかなと。渋々東京に残ることにした。


 清ちゃんはそこのところどう思っているのか、よくわからないのです。聞こうと思えば聞けるけど、敢えて聞かないこともあるじゃないですか。恋人同士には。


 いつも自分ばっかり必死に追って、そういうの、重いのかなぁって。

 一度はまだしも二度は重いだろ、夏美。もっと余裕を持て。

 どーんと構えろ。


 と、自分の中の自分が言っただけ。もちろん、これは清一君には言いません。

 清ちゃんにはずっとわかんないと思う。

 わたしは清ちゃんと付き合えたけど、でも、やっぱりまだどこかで片思いを続けてるんです。


 だから、いつも余裕の清一君を少しはオロオロさせたいのだけれど、そのための道具として関根君を使うのはやっぱりちょっと違うかなぁ。

 じゃ、大森君?


 いやぁ、あれは、うーん。


 そして、あろうことか、大森君と彼氏彼女になってデートしている様子を思い浮かべてみた。手を繋いでいる。


 いや、無理。別にそんな変な顔してるわけでもない、普通の若者ですけど、なんでだろう?大森君ってなんか無理。


 それで、今度は関根君と手を繋いでいる様子を想像してみた。

 神様、女の子と手を繋いだらどんな顔をするのだろうか?

 服をもう少し替えて、髪型をどうにかしたらもう少しどうにかなるのではないか?

 それにもともとは、某有名大学卒業というブランドものだぞ。


 ……


 何をしているのだろうか。寝よう。寝よう。


 それで、布団の中で、もう一つしてはならない想像をした。

 関根君とキスしたり抱きしめられたらどうかと。


 ああ……無理だわぁ。


 そして、清ちゃんの声を思い出した。勘違いさせたら悲惨。


 多分ですね。関根君みたいな鉄壁な防御をしている人は、簡単に人を好きになんてならないと思うんです。

 人を好きになるのって勇気がいるじゃないですか。

 その勇気を出して好きになった人に、無理って思われる。


 1人って寒いし、冷たい。

 もしも自分を温めてくれる人がいるなら、そして、それが自分の好きな人なら、どんだけ嬉しいか。


 そんな夢を見た相手に無理って思われる。


 ああ、悲惨だ。悲惨です。

 清ちゃん、わかりました。ごめんなさい。わたし、間違ってた。


 清ちゃんのいない東京で、会社に入って働いてみました。

 いろんな年代の人と新しく知り合ったし、同年代の人も何人もいる。

 だけどやっぱりその腕の中に入り込んでしまいたいなんて思える人は、なかなかいないものだなぁ。

 ちょっとだけなら入ってもいいかもとも、思えないものだ。


***


 それからしばらく経って会社の50周年の創立パーティーがあった。受付やらなんやらで女子社員駆り出される。社内の人たちと一部のお客様や関連会社の人を招いて行われたパーティーも無事終わり、打ち上げでカラオケに行った時のこと。


「ね、小野田さん、aiko(*1)歌って」

「aikoはaikoが歌うからいい歌なんだよー」

「僕、aiko好きなんだけど」

「あ、そうなんだぁ。よかったね」

「ね、じゃあさ、一緒になんかデュエットしようよ、ね」

「……」


 それは、おじさんの必殺技ではないの?大森君。流石にちょっとドヨーンとしてしまった。


「ちょっと大森君、しつこい男は嫌われるよ」


 先輩の藤本さんが間に入ってくれた。


「えー」

「もう、勝ちっこないんだからやめときな」

「勝つって誰に?」

「小野田さんの彼氏」

「あ、藤本さん、それ……」

「あ、ごめん」


 酔っ払った勢いでバラしてしまった。先輩。


「えー、小野田さん、彼氏いるの〜」

「ちょっ、大森君、声、大きいって」


 さぁっと血の気が引いた。しかし、幸いに皆酔っ払ってるし、カラオケでガンガン歌っている人がいるので、我々の声は我々にしか聞こえない。


「それってさ、学生の頃から付き合ってる人?」

「ああ、うん、まぁ」

「そんなん、いつまで続くかわかんないよね」

「……」

「ね、どこの会社の人?」


 大森君はきっとこうなるだろうと思ったから、言いたくなかったんです。


「年上?ねえ」

「聞いてどうするの?」

「知りたいだけだよ」

「とにかく向こうのほうが上だからやめときな。大森君」

「ええっ」


 藤本さんが話に入ってくる。


「上って何が?」

「顔も、学歴も、会社もだよ」


 チーン


「あ、ついでに身長も」


 とどめを刺した。大森、黙ったぞ。もう、あとは野となれ山となれだな。


「先輩、すみません。ちょっと」

「あ、うん。いいよ」


 なんだか気持ち悪くなってしまって。疲れていたのだろうか。それに狭い空間でタバコ吸ってる人もいたし。

 ボックスを出て外の空気を吸った。少し歩いてくと飲み物の自動販売機とベンチがあった。


「あ」

「あ」


 知ってる顔を見つけた。


「関根君、カラオケなんか来るんだ」

「……たまには付き合わないと」

「でも、こんなとこで休憩してるの?」

「ちょっと疲れて」


 うちの課だけでなくて他の課もそれぞれ打ち上げしているのだった。同じ店に開発の人たちも来てたのか。


「わたしもなんか気持ち悪くなっちゃって」

「大丈夫?」

「うん。ちょっとここで休んでけば」

「なんか飲む?」


 関根君が立ち上がって自動販売機の前に立つ。


「ああ、いやいやそんなわけには」

「え?」

「いや、自分で買います。すみません」

「別にジュースぐらい」

「いえいえ、そんなわけには」


 そして、オレンジジュースを買った。冷たいオレンジジュースを飲んだら、気持ち悪かったのが少し落ち着いた。ハンカチで缶ジュースを包むと、ほてった頬やおでこにあててジュースで冷やす。


「小野田さんさ」

「ん?」


 横を向くと関根君が缶コーヒーを持ってちょっと俯き加減になりながら表情を固くしている。


「その……」


 なぜだろう?黒縁メガネのせいだろうか。一瞬だけ関根君と昔の清ちゃんが重なった。


「僕、何か小野田さんの気に入らないようなことしたのだろうか?」

「へ?」


 素っ頓狂な声が出た。


「いや、全然。なんで?」


 それを聞くと関根君はほっとしたように肩から力を抜いた。


「急に屋上に来なくなったから」

「ああ」

「僕が何かしたのかと、その、僕はあんまり人と関わるのが上手い人間ではないので」

「ああ、いや、その……」


 なんだか悪いことをしたと思いました。まさか、そんな風に考えるなんて思ってなかった。


「彼氏にね、紛らわしい行動取るなって言われて」

「彼氏?」

「うん。関根君と遊んでる話をしたらさ。小学生とかじゃないんだから、そんな向こうがどう取るかわからない行動は取るなって」

「……」

「あ、あの、でも、そう言うのじゃないってのはわたしはわかってたんだよ。ただ、遊んでただけだし。でも、万が一ってこともあるかなと。わたし、彼に言わせると世間知らずというかよくそこらへんのことわかってないらしいしさ」


 一生懸命弁明する。


「小野田さんの彼氏は……」

「あ、はい」


 関根君はメガネをきらりとさせながら不意に語り出した。


「頭のいい人ですね」

「え?」

「頭がよくてプライドが高くて独占欲の強い人」

「……えっと、なんで今の話でそういうことになるの?」


 関根君はふっと笑いました。ああ、こんな風に笑うのか。やっぱり関根君ってよく知ってみれば普通の人じゃんとその笑顔を見て思いました。


「自分の気持ちをうまく隠して、でも、自分の欲しい結果を得ている」

「……」


 何を言っているのかさっぱりわかりません。首を傾げた。


「世間知らずだとか紛らわしい行動とか、そんな言葉を使ってるけど、結局は小野田さんが他の男の人と一緒にいるのが嫌だっただけですよ」

「ええっ?」


 驚いた。


「あー、でも、清ちゃん、そんなタイプじゃないよ。いつもわたしが何言っても何やってても涼しい顔しているし」

「心の中では嫉妬したり、心配しているんだと思うよ」

「いや、ないないない」

「同じ男だからわかる。本当は俺以外の男と一緒に何かするなって言いたかったんですよ。言わなかっただけ」

「あの清ちゃんが?」

「多分ね」


 あの清ちゃんが?

 子供の頃から知ってる清ちゃんのことを色々思い出してみた。

 一度だってそんな、わたしが他の男の人とどうのこうのと言って怒ったようなことないんだけど。

 それどころか、俺以外にどんな男がいるか見てこいって突き放されましたが?

 いや、やっぱり、うちの清ちゃんに限ってそれはないと思うぞ。関根君。


「ま、でも、そういうことなら。ちょっと残念ですが。短い間だったけど、楽しかったです。小野田さん。ありがとう」


 そう言って関根君はそっと立って向こうへゆこうとする。


「あ、あの」


 その背中を呼び止める。


「なに?」

「あ、あのね。わたしはあれだけど、誰か誘ってみたら?屋上」

「え?」

「関根君、いっつもはさ、なんか話しかけづらいけど、でも、話してみたら普通の人だし。わたしと話してるみたいにさ。みんなにも話したら、きっとみんなと普通に仲良くできると思うよ」

「……」

「みんな、話しかけていいなら話してみたいと思ってると思う。関根君と」

「僕と?」

「うん」


 しばらく怪訝そうな顔をした後に、関根君はもう一度ふっと笑った。


「うん。わかりました。念頭に置いておきます」

「うん。置いておいて」


***


 その後、またあの狭いボックスに戻る気にどうしてもなれなくて、荷物だけ取りに行って藤本さんにお願いして打ち上げを途中で抜けた。電車で家に帰ってアパートに着いた時、どうしても気持ち悪くて吐いてしまった。

 その後、ベッドに横になる。

 疲れてたって言っても吐くほど疲れてたかな。お酒だってほとんど飲んでない。

 風邪?やだなぁ、なんか変な病気かかってたりして。この年で?


 ベッドに横になったまま部屋の電気もつけず、さっき吐いてしまった時につけてそのままだったユニットバスから漏れる灯でぼんやりと照らされた天井をぼけっと見てた。


 あ、違う。


 ふとそう思った。

 がばりと起きて、壁にかけてあるカレンダーを見る。

 上の画鋲を取って、一月前に戻した。赤く印が付いている。今より一月以上前の日。


 やっぱり、おかしい。やだ、わたし、忘れてた。


 その赤丸は清ちゃんに会いに仙台に帰った印。その後、今月もう一回2週間前に仙台に行っている。


 最後に生理きたの、いつだっけ?


 1ヶ月以上前仙台に行った時より前だった。それからずっと来ていない。

 この気持ち悪いのって、もしかして。


 どうせ1人で考えていても、寝られなくなるやつだと思って靴を履いて外へ出る。24時間営業のドラッグストアへ行きました。生まれて初めて買った。妊娠検査薬。まさかこんなものを自分が買う日が来るとは。家へ戻ると箱を開けて使い方の説明を読んでから、トイレへ行く。結果のマークが浮き上がるまでのわずかな時間、自分の心臓はこれでもかというほどにドキドキしていた。


 そしてゆっくりと一本の線が浮き上がってきた。

 わたしは妊娠していました。


***


 次の日、体調不良を理由に会社を休んだ。産婦人科へ行きました。


「おめでとうございます。3ヶ月ですね」


 咄嗟に笑えませんでした。そして、清ちゃんの顔が浮かんだ。


「小野田さん?」

「ああ、はい、ありがとうございます」


 ぎこちなく笑って診察室を出た。


 フラフラと家に帰る。帰る道すがらやっと少しずつ我に返りました。


 どうしよう……


 自分は良かったんです。自分は清ちゃんでよかったんです。

 いろいろな人から最後に自分を選んで欲しいって言ってた。でも、多分時間をかけてもかけなくても自分の答えは変わらないと思うし。だけど、清ちゃんは……。もっとゆっくり時間をかけて、納得して、そして……。少なくともこんな風に自分の意志とは関係なくしょうがなくみたいなの、嫌だなと思う気がする。

 清ちゃんはどこかしょうがなくわたしを選ぶ気がする。


 それはやだな。それなら、思い切って、今回は……。


***


 家に帰ってなんだか疲れてしまって、ソファーで横になって丸まって寝た。自分のお腹の中にちっちゃな赤ちゃんがいるなんて信じられないなと思いながら。起きると夜になっていた。ベランダに出た。夜風を浴びながら携帯を取り出した。


「もしもし、せいちゃん?」

「なつ?どうしたの?」


 いつもの清ちゃんの声が受話器の向こうからする。


「今週末、そっち行っていい?」

「え?来週末じゃなかった?土曜は予定入っちゃってるけど」

「家で待ってるからいいよ」

「遅くなると思うよ」

「うん。わかった」


 清ちゃんののんびりとした声が少し調子を変えた。


「どうしたの?なんかあった?」

「うん。ちょっと相談したいことがあって……」

「なに?」

「会ってから話すよ」


 電話を切ってから部屋へ戻ってソファーに座ってぼんやりとする。


 どこかで妊娠してしまったのは自分の落ち度のような気がしてました。冷静に考えれば自分が悪いわけはないのだけど。


 でも、赤ちゃんは自分の体の一部な訳だし、これは清ちゃんの問題ではなくてわたしの問題なのだと思っていたのだと思います。自分のせいで相手を巻き込んでしまうような気分になってました。妊娠したのが初めてで、そして自分は結婚とか親になるとか、そんなことを夢を見ていたとはしても現実的に真面目に考えていたわけじゃない。


 学生を終えて社会人になったばかり、まだもっと自由に色々と見たりしたりして遊びたい年頃だと思う。

 特に清ちゃんは。


 清ちゃん、どんな顔するだろう?なんていうだろう?

 まだ早すぎるねって、赤ちゃん諦めたら、わたし達今のまま付き合っていけるのかな?

 わたしが産みたいって言って、清ちゃんが渋々それに応じたら、将来どこかでああ、あの時なつが妊娠なんかしなければなと思ったりされないかな。結婚するかどうかとか子供を持つかどうかって、普通もっとお互いよく話し合って決めるものだよね?


 どんどん悪い方へ想像が広がっていきました。


 やっぱり、準備ができていないもの。今回は諦めたほうがいいのかなぁ。

 

 昨日までなんということはない普通の日常にいました。突然嵐の真ん中のようなところに立たされた。

 

 ああ、なんでもうちょっと気をつけなかったのかな。

 後悔した。


 どうしよう。このことがきっかけで清ちゃんとおかしくなっちゃったら。


***


 週末清ちゃんの家について、何をするでもなくやっぱりソファーに座って色々とまんじりもせずに考えていた。ガチャガチャと玄関の方で音がして、思考を中断された。清ちゃんが部屋に入ってくる。


「あれ?早かったね。もっと遅くなると思ったのに」

「どうしたの?」


 心配した顔でわたしの横にきて座った。その顔を見て安心した。昔から変わらない。優しい人。電話で話すのと会って話すのはやっぱりちょっと違う。


「清ちゃん、あのね。落ち着いて聞いてね」

「うん」


 勇気を出して次の言葉を言った。何を言われるだろうとドキドキしながら。咄嗟に嫌な顔されないだろうかとドキドキしながら。


「赤ちゃんできちゃったみたい」


 清ちゃんはぽかんとした。しばらく黙った後、こう言った。


「俺の子?」


 そう言われて一瞬頭の中が真っ白になりました。ここ数日山のように色々考えていたことが全部パッと消えて真っ白になった。

 パソコンの電源が急に落ちてプツッと消えたみたいに。


「それ、どういう意味?」


 あ、まずいという顔になった。


「あ、いや、自分に子供ができるなんて想像したこともなかったから……。びっくりしただけ。深い意味はないよ」


 そう言いながら笑ってる。そうだよな。そんなん考えたこともなかったよね。結婚すらまだ真剣に考えてないのにね。


「どうしよう」


 ため息が出た。


「どうしようも何も、おろしたいの?」

「おろしたくはないけど」

「じゃあ、産めばいいじゃん」


 あっさりとそう言った。思わず清ちゃんの顔を見ました。子供の頃からよく見てきた顔。まんまだった。何も変わらない。簡単に言いました。産めばいいじゃん。


「責任取ります。結婚してください」

「もう清ちゃんたら、そんな大切なことすらすらと簡単に」


 嬉しいというよりも呆れてしまった。普通そうに見えるのだけれど、時々普通じゃない。この人。


「別に、俺はいつかはと思ってたからさ。ただ、強いていうならちょっと思ってたより、早いかな」


 そして、本人、とっても大事なことをとっても簡単に言ってしまった後にですね、だんだん最初の勢いが落ちてきました。


「いや、ぶっちゃけ、大分早い。俺、給料安いし、やってけるかな」


 ため息が出た。


「今回は諦めてもいいよ。子供はまた授かればいいことだし」

「それは嫌だ」


 でも、はっきりと断られた。


「どうして?」

「なつはそういう曲がったこと嫌いだろ。将来絶対後悔するよ。そんな君を見たくない」


 清ちゃんの顔を見た。嘘を言ってるのではないとその表情でわかりました。


「本当にそれでいいの?」

「いいよ」


 清ちゃんはそう言ってわたしを抱きしめた。わたしも手を伸ばして彼の体を抱きしめました。


「本当にわたしでいいの?」


 いやいや言ってるんじゃないってわかってたけど、それでももう一回そう聞いた。清ちゃんは笑いました。


 その笑顔を見たときに思ったんです。

 この世の中にきっと笑顔の素敵な男性はたくさんいるでしょう。

 でも、わたしの心を満たす笑顔は他の人の笑顔ではダメなんです。

 それなら、わたしの笑顔はあなたにとってわたしと同じぐらい価値のあるものですか?

 わたしが感動するほどにあなたを感動させられるものなんでしょうか?


 きっと結婚する前に女の人が知りたいのは、確かめたいのはそういうことなのだと思う。


 でも、答えなんてない。永遠に。自分は愛されているのだろうかという問いに答えなんてない。

 ただ、感じるだけなのだと思う。そして、信じるだけ。


「なつこそ、玉の輿狙えなくなっちゃうね」

「これは、もう、しょうがないね」

「もう少しかわいい言い方ないの?」

「なんて言ってほしかったの?」

「昔は玉の輿願望なんてないって言ってたじゃん」

「そんなこと言ってったっけ?」


 いつものようにふざけたことを言い合いながら、清ちゃんがわたしにキスをする。


 コウノトリが来た。


 テストはまだ半分白紙でした。問題を解き終わってないのに、解答用紙は持ってかれてしまった。

 コウノトリに?

 赤ちゃんを置いていって、結婚するかどうかとか子供を持つかどうかとか、半分白紙の解答用紙を回収していった。


 そして、わたし達は結婚することになったんです。


 了


*1 aiko

日本のシンガーソングライターである。大阪府吹田市出身。1998年から活動。



 

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