さあ、島を出よう
さあ、島を出よう
こちらの作品は作者による『 習作 』です。今までメインは長編であり、設定は細かく決めてから作品を書いてきており、また、短編は長編があってそこに書ききれないものを書いたいわば附属物でした。今回のこの短編はそこまでの設定のある作品ではありません。ですので『 習作 』と書かせていただきました。今まで書いてきたものとは違う趣のものを、使ったことのない工具を使って家具を組み立てるような気持ちで書いています。なんというか今まで少女漫画っぽいものを書いてたので、今、少年漫画っぽいものに興味があるのです。未来的には少女漫画と少年漫画のいいとこ取りしたものが書きたいです。こっからめっちゃ勝手な言い訳をしますが、書き慣れていないものを書いておりますので、面白くなくても多めに見ていただけるとありがたい。
ちなみにこちら約ネバの影響を受けてます。( ⌯ノㅿノ)汪海妹
ここから本編
一体、誰なんだろう?……誰?
未来のいつか日本列島から南へ移動した先にある島
Aベッドの枕の下、さらにマットレスの下に挟んで隠してあったノートの中にとある日、伝言が書かれた。
『俺から、俺へ』
その文字を見た時、思わず周りを見渡した。そこには誰もいなかった。このノートの存在は自分以外に誰も知らなかったはずだ。だから、これはやはり俺が俺にあてて書いたものなのだろう。
その時、そう思った。
***B
「どうも、薬をちゃんと飲んでいない奴がいるみたいだ」
とある日にパパに呼び出されるとそう言われた。
「わざわざ言わなくてもわかってるな」
部屋の奥に不機嫌そうな顔で腕を組み足を組んで座っていたパパは、ギイっと椅子を鳴らして立ち上がりわたしに近づくとパッと手を上げて、その握り拳でコツコツとわたしの額を叩いた。まるで、殻の硬いゆで卵の殻でも割ろうとしているようだった。
「誰か突き止めろ」
一体、誰なんだろう?……誰?
***A
ノートにはこう書かれていた。
『薬は飲むな』
そこにいた子供たちは毎日それはそれは大量の薬を飲むようにと躾けられていた。なぜならば……
「あなたたちは生まれつき体が弱いの」
シスターはいつも優しかった。親のいない子供たちに向かって微笑んでいた。
「薬を飲まないと生きていけないのよ」
ノートにそんなことが書かれる前にも俺は薬を試しに飲まないことがあった。すると、しばらくしてそれは始まった。吐き気に眩暈、脱力感、うまく言葉にできない、そりゃもうひどい状態で、俺は慌てて飲まずに懐に入れていた薬を喉に流し込んだ。個室のベッドの上、黒い夜の闇の中でじっとりと汗をかきながら天井を眺めた。海の音と動悸の激しい自分の心臓の音を同時に聞いていた。
徐々にそれは治っていった。
ノートには薬は飲むなと書いてあった。だけど、飲まなければどうなるかを俺は知っている。とてもじゃないがそんな言いつけを聞くわけにはいかない。俺はノートをそっとしまった。
***
A
ところが次の日、やはりノートには字が書かれていた。俺の部屋にはいない時には鍵がかかっている。だから、誰か他の人間がここに入ってこれに字を書くことなんて、できるわけないんだ!
「ううううううう」
頭が混乱してきた。俺はその薄っぺらいノートを床に投げ捨て、頭を抱えて部屋の中をぐるぐると歩き出した。その耳に届く音がある。
ザザザザザザ……
部屋を歩き回るのをやめて横を向く。海が見えた。
「心が不安になったら海を見なさい」
シスターは繰り返し子供達に言った。子供は無機質な施設に暮らしながら、そのすべての個室にあつらえられた大きな窓から覗く海、を、来る日も来る日もそれを眺めながら大きくなった。大きく息を吸うと、少しずつ心が落ち着いてきた。俺は床に落としたその薄っぺらいノートを拾った。
***
「シスター、この海の向こうには何があるの?」
「何もないのよ」
「そうなの?」
「昔は日本という国があったのだけど、ひどい戦争があって、今は何もなくなってしまったの。誰もすまない土地だけがずっと広がっているのよ」
***
俺は床に落としたその薄っぺらいノートを拾った。
『薬は飲むな。飲まずにいると具合が悪くなるのはそれは、お前の飲まされている薬には強い中毒作用があり、それが切れることにより起こる作用だ。苦しいだろうが、それにより死ぬことはない。少しずつ量を減らせ。飲まなかった薬はトイレに流せ』
***
C
もともと、自分の体質は生まれつき薬に強かったのかもしれない。他の子供達のようにはそれは効かず、そんな中で色々とおかしなことがあると俺だけが気づき始めていた。もしもこの海の向こうの日本が本当にひどい戦争で何もない国になったのなら、一体この島に定期的に届けられる物資はどこから来るというのだろう?
なぜ、こんな簡単な疑問に皆気づかないのか。それはきっと、この薬のせいだ。この薬が俺たちから正常な思考能力を奪っている。そのことに気がついた。
それから、飲んでいるふりをしながら、薬を少しずつ捨てるようになった。するとひどい気分になるのだが、それでもそれを続けると少しずつ頭がクリアになり出した。体のだるさや何をするにもやる気のわかなかった状況が少しずつ変わってきた。そういう頭のクリアな状態で周りを眺めてみると、明らかに他の皆は様子がおかしかった。目がとろんとして、感情が薄いのだ。
その施設で俺たちは毎日来る日も来る日も特殊な訓練を受けた。ただひたすら、絵や写真を眺めてはそれを覚え、次に何も見ない状態で先ほどまで眺めていたそれを説明させられたり、いろいろな言葉も習った。それこそ何ヶ国語も習った。体も鍛えさせられた。体を守るための護身術。それから、毎日とんでもない距離を走らされた。
「そうじゃないわ。もう一度」
シスターは何度も何度もまるで子供を寝かしつけるような声音で俺らに同じことを繰り返させる。
あそこは……、なんていうのだろう?毎日とてもゆっくりと時間が経っていて、そして、俺らには他に何もやることがなかった。
「あなたたちが今も生きているのは奇跡なのよ」
シスターはいつも穏やかな笑顔で同じことを繰り返した。そして、毎度の食事のたびにこんなことを言った。
「さぁ、今日も命あってこの日の糧にありつけたことを神に祈りましょう」
俺たちは何も考えていなかった。いつ死ぬかわからない体で、今日も生きていることを感謝し、そして、何度も何度も失敗をしながら、しかし、他にやることもないので、言われる通りに延々と絵や写真を覚えてはそれを説明する訓練をしたり、外国語をその外国語の話者とそっくりに話せるようになるまで、何度も何度も耳で聞いて、そして口を動かした。それから、走った。体を鍛えるためにと言われながら毎日のように走らされた。
あれはいつのことだろう?みんなの真似をして、とある言葉のとあるフレーズを教師役であるシスターについて繰り返していた。前を向いてフレーズを繰り返していた俺の視界の隅に教室の脇にいて、授業に加わらずに俺たちを見ているもう1人のシスターの様子がふと入った。
その女は俺の方をまっすぐに見ていた。
そいつと目を合わせないようにしながら前を向き口を動かす。全身からじっとりと汗が湧き出るような気がした。
***B
「それが誰かを探し出したらどうするんですか?」
「それをお前が知ってどうする」
パパはそう言い切った。
「お前は言われたことだけやっていればいい」
***
C
俺が薬を飲んでいないことや、正気であることがバレてしまっただろうかと考えた。俺はどうなるのだろう?
昔ここにはもう少したくさんの子供がいた。いつの間にか減っていた。あの人たちはみんな、どこへ行ったのだろう?
れい、はじめ、なな、後は……、だめだ。名前が思い出せない。
***A
『薬を飲むのを減らして、頭がスッキリしてきたかい?』
俺が薬の一部を捨て、口にしなくなってからしばらく経って、あのノートにまた字が浮かんだ。
『今度は次へ進もう』
目を横へと滑らせる。そこにはこう書かれてあった。
『さぁ、島を出よう』
***
その日、子供達は島の海沿いをぐるっと回る道を走らされていた。石灰質の地質のために白っぽい土。強い海風にさらされるために高くは育たず、また、風に靡くように横に長く育った灌木。その上に広がる空とそして一面に広がる海。
シスターはゴールで待つばかりで途上にはいないことをいいことに立ち止まっている子がいる。いつまでも遠くを眺めている。海風に髪が靡いている。
「走らないの?」
声をかけられてこちらを見た。
「いちご、走らないの?」
「走るさ」
いちごは軽い足取りで白い土を蹴って前へゆき、ぜいぜいと息を切らせて参っている他の子供を追い越していった。
***
A
島をでようだなんて、いったいこの相手は何を考えているのだろう?そもそもこいつは誰なんだろう?どうして鍵のかかっている俺の部屋に何度もメッセージを落としていくのだろう?
島をでるって、どうやって出るというのだ?大体、島をでてどこへいくんだ?島から一番近い日本にはもう何もないというのに。
そして、そこで初めて疑問が湧いた。
何もないというのなら、それじゃ、時々島につけるあの船はどこから来ているのだろう?
シスターが1人でいる時を狙って俺は声をかけた。
「ねぇ、シスター、時々、島の外から来る船があるよね」
「ええ」
「あれはどこから来ている船なの?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
いつもニコニコと微笑みを絶やさないシスターの顔から表情が消えた。
「どうして?」
「いや、なんでもない」
***
B
「船のことを聞いてきたやつがいる」
「誰だ?」
わたしはそいつの名前を告げた。
「そいつは薬を飲んでいないんだな」
「わからないけど、多分」
「そいつに近寄って仲良くなれ」
「どうするの?」
「どうもしない。まず仲良くなれ」
***
「なぁ、いちご、知ってる?」
「なにを?」
「ちょっと、こっちに来て」
同じような背丈の少年が、風の強い海沿いの崖の上で水平線の向こうを並んで眺める。
「日本はこの方向だ」
「ふうん」
「船さえあれば行けるのだけどな」
そういうとニヒトはじっと目の奥を覗き込むように見て来た。いちごの目の奥には何も見えなかった。
「何を言ってるんだ。日本は今や荒れ果てて誰もすまない土地なのだぞ」
あっさりそういうと、走るのをサボっていたのを軽くトントンとその場で飛び上がり、その後、たったと軽い足取りで走り出し、サボって海を眺めていた分を取り戻すかのようにひょいひょいと前を走っている子供を追い抜いてゆく。海岸沿いの崖は低い灌木の他は樹木らしいものもなくて見通しがよく、いちごの痩せた体がひょいひょいと他の子供を追い抜いてゆく様子がよく見えた。ニヒトは自らは走り出さずにその後ろ姿をずっと見ていた。
その日の夕方、いちごとニヒトは食事当番だった。子供たちの中でも年齢が上である二人は給仕ではなく炊事に回された。同じく食事当番であるシスターたちに促されて奥へゆくと狭い厨房から出て勝手口を出たところにある裏の水道のところでいちごが木箱に座り山のようなジャガイモの皮を剥いていた。ニヒトも横に木箱を並べて座った。
「こんなにたくさんのジャガイモ、今夜はコロッケでも作るのかな?」
「さぁな」
「それともポテトサラダか」
「口を動かしてないで、手を動かせ」
それでしばらくニヒトも口を動かすのをやめて、黙々とジャガイモの皮を剥いた。ニヒトが一つを剥く間に、いちごは二つを剥いていた。それに、どう考えてもニヒトの剥いた皮の方が分厚く、ジャガイモを無駄に削っていた。
「お前うまいな」
ニヒトが自分の手を止めていちごの手元を覗くと、彼は大きくため息をついた。
「気が散るから話しかけてくるな」
「なぁ、いちご」
「なんだ」
「クスリって飲んでる?」
「……」
「なぁ、あの手紙って……」
いちごはニヒトがかけてくる言葉を無視して、剥き終わったジャガイモをボールごと持ち上げて厨房の中に入る。
「あ、すみません」
ドアを開けたらすぐそばにシスターがいて、思わずぶつかりそうになった。
「いいのよ」
シスターは笑いながら向こうへ行った。
その日、夕食も終わり皆がそれぞれの部屋で思い思いに過ごしている時、ニヒトはいつもと同じ場所からノートを取り出す。そこには 島を出よう という書き込み以来、ずっとその続きが現れていない。
ニヒトはしばらくその途中から空白のままの頁を眺めていた。
これを書いているのはいちごだと思うのにニヒトはそう思いながら、歯痒い思いをしていた。
島を出る、だなんて。
普通は島を出るだなんて心境にはならない。島を出てどこか行くところがあるというのならまだわかる。しかし、一番近い陸である日本に辿り着いても、今は土地のみが残る不毛の土地だ。ここにいれば生きていけるのに、わざわざ外に出るバカがいるか?
***
月に一回、パパは物資を伴って島に現れる。パパが子供たちの前に顔を現すことはない。ただ、わたしたち、シスターから報告を受けるために来るのだ。
「どうだ?わかったか?」
「多分」
パパは椅子にのけぞって、夜なのに黒い眼鏡を外さずにそして、先ほどまで何か書き物をしていたペンのペン先をわたしに向かって向けながら言った。
「今晩、お前は、そいつから目を離すな」
「ええ?」
「いいか。目を離すな。わかったな」
***
とある日にコソコソと二人で話していた、あの二人が、何か怪しいと思っていた。それから、二人を注意深く見ていた。ニヒトといちご。
パパに目を離すなと言われたので、その日、自分は自分の部屋を出て中庭にある古い温室の中に佇んだ。ここからだと子供たちの寝室が一望できるのだ。誰かが出てくればすぐにわかる。
こちらが見つかるわけにもいかない。灯りを持たずに暗闇の中に佇んでいた。かつて育てられて、今は放置されているよく名前の知らない草や木が伸び放題に伸びていて、昼間ならそれは特別大したこともないのだけど、夜の薄闇の中ではなんだか不吉で、不思議と灰色に思える夜の空を背景に黒く不気味なのが嫌だった。
その時、突然、わたしは何もかもが嫌になった。今晩、本当に何か起こるかなんて決まってもいないのに、こんなところで、寝巻きのままで一人、佇んでいることや。こんなつまらない島で、来る日も来る日も過ごしていることが嫌だった。男といえば自分よりも年下の子供しかいないこの島で、女子供しかいない島で来る日も来る日も同じような日を過ごさなければならないのは悪夢だった。
もう少し、もう少し
そうだ。萎えそうになる心を奮い立たせる。今回のこの首尾がうまくいえば、島から出られる日が近づくかもしれない。
***
とある日の昼間に戻る
「あんた、薬、飲んでる?」
誰もいないと思っていた時に不意に背後から声をかけられて、思わずあっと声をあげそうになった。振り向くとそこにシスターの顔があった。俺をじっと横から眺めていたシスター。
「何いってるんですか」
「ね、飲んでないでしょ?」
そういうと、急にシスターは俺に近づき、片方の手で俺の口を覆い、もう片方の手で俺の腕を掴んだ。女の力とは思えないその力の強さと突然見せた敏捷さに背筋まで凍った。
「騒ぐな」
それはとても小さな低い声だったけど、俺を黙らせるのに十分な響きを持っていた。
***
何日も待ってた。ノートにはずっと何も書かれなくて、もうこのまま何も書かれないのかと思ってた。俺は夢を見てたのだろうか?そう思ってページを捲ると、前のページにはちゃんと、几帳面な字で書かれた文が残っている。
その頃にはもう、自分はかなり薬の量を減らしていた。それは生まれて初めての経験だったといってもいいだろう。
ずっと物心ついた時から、薬を飲まなければ死ぬのだと言われ続けながら生きてきた。実際、自分たちはあまり元気ではなかった。それが薬のせいだとは知らなかった。今まで生きてきて、今までで一番、自分は元気だった。
いつまで生きられるのだろうかと思いながら、どこか窮屈に生きてきたのだと思う。ただ、生きていられるだけで満足だった。
それが今、変わろうとしている。俺は、別に普通に長く生きられるのかもしれない。そう思うようになった。
だから、
出られるのなら、この島を出たい。今、心からそう思う。
そんなある日、とうとうノートに続きが書かれた。
『今晩、月が一番高くなる頃まで待って蛇の口まで来い』
それしか書かれいなかったが、俺の心臓はドキドキとなった。蛇の口というと一瞬なんのことかわからないかもしれないが、俺ら子供の間ではこれで通じる。島には正式な地図があるわけでもなく、それどころか、俺らは島の形をよく知らない。島の中央には一番高い山があるにはあるが、そこには登らせてもらえないのである。
だからと言って俺らが子供の頃から住んでいるこの島のことを全く知らないかというとそうではなく、自分たちが行き来し見ている範囲の中での形を認識していた。その中のとある一つの岬は蛇の頭に形が似ていて、そしてその先っぽはまるで蛇が口を開けたように裂けているのである。俺らが蛇の口と呼ぶのはその避けた部分で、そしてその蛇の口にあたる、川の海に流れ込むあたりにはいつも、月に一度船が停まる。
***
少しうとうととしていて、あと少しで見過ごすところだった。なぜだろう?音というよりは気配でわたしは顔を上げた。するととある部屋の窓があいていて、そこから、体を押し出してくる子がいる。バランスをとり損なって外に出る時にどさりとその子は落ちたが、中庭には柔らかな青々とした芝があって、その体と音を吸い込んだように思う。やはりあたりはしんと寝静まっていた。
どさりと落ちた後に地面に寝転がったままでしばらく辺りの様子を伺っていたその子は、周りで何も動き出さないのを確かめた後で、ぴょんと起き上がりかけ出した。その様子を見たときに思い出した。
目を離すなとは言われたが、具体的にどうしろとも言われていなかった。どうしよう?捕まえろとは言われてなかったし。
とりあえず、見失わないように足音を忍ばしながら相手を追いかけた。
***
約束の時間に、約束の場所。相手は無防備な様子で崖の上から下を覗いていた。俺たちに気づかない。
そこで、相手に並んで俺も崖の下を恐る恐る覗いた。そこからは、河岸に停められた船がよく見えた。今日は天気は良かったけど波は割と高くて船は波に揺られて上へ下へと動いていた。
静かな夜だった。河岸に小さな姿が現れた。それはニヒトだった。ニヒトはスタスタと船に歩み寄ろうとする。
上から見ていると、そのままニヒトはするりと船の甲板によじ登ると荷を積んでいる船底にでも潜り込めそうに見えた。そのくらいあたりはひっそりとしていた。ところが次の瞬間、一体どこから湧き出たのだろうと思うような影が一斉にわきニヒトはあっという間に囲まれて、その包囲を突破しようと右へと駆け出したのをあっさりと捕まった。
「お前、何考えてる?」
食い入るように見ていたら、呆れたような声をかけられた。
「なにって」
その時、はじめはもう女の姿はしていなかった。長すぎる髪を後ろに結びいつもは頭巾を被り俯きがちにしている顔を堂々と上げている。まだ若いから声と顔立ちからわからなかった。はじめはシスターではない。それどころか女ではなかった。俺らより少し年上の男だったのだ。
そのはじめの様子にあまりに驚いてしまって、ミミは俺の後ろに隠れて縮こまった。
「ミミを連れてこいなどいってないぞ」
「置いてけない」
じろりと睨まれたが、何も言わずに後ろに隠れたミミの小さな手を片手で掴みながらはじめと見つめあった。目をそらさなかった。
「今度、勝手に何かしたら容赦しない」
それだけ言うと、はじめはくるりと向こうを向いて歩き出した。
「行くぞ」
こわばっているミミの手をしっかりと握りなおして前へ出る。
その時、もう一度だけチラリと崖の下を覗いた。ニヒトが地面にぐったりと倒れていた。その青白い顔。
それを見て、鉛か何かを呑み込んだような気がした。
「お兄ちゃん、あれ……」
「行こう」
ミミはそれ以上何も言わずについてきた。ほどなく木立の中に入り先ほどみんながいたのとは違う浜に向かっておりて行く。
「ニヒトはどうなるの?」
「他人の心配をしている暇があれば、自分の心配をしろ」
「……」
「島を出るまで気を抜くな」
はじめのぴんと張った声と、その背中の様子から自分も少しゾッとして、あとは黙々とあるいた。自分の脳裏にはニヒトの青白い顔が張り付いていて、そして、心も体も鉛でも呑んだように重かった。どうにかなってしまいそうなくらい。あと少しで叫び出しそうだった。恐怖で、ニヒトのあの青い顔を見てしまって、怖さが突然立ち上って、叫び出してしまいそうだった。叫びながら走ってこの傾斜を登って戻って、自分の部屋のベッドに潜り込んで白い掛け布団を頭まで被って眠ってしまいたい。そうすればまだ、戻れるような気がした。変なものだ。ここでの生活に別に愛着などないのに、どっと溢れた恐怖にわけがわからなくなっていた。でも、それもしょうがないと思う。俺はここしか知らないのだから。ここしか知らない。外に出るなんて本当にできるんだろうか?この島の外にも本当に世界は広がっている?はじめはそう言ったけど、本当にそうなんだろうか?それでも自分が発狂せずに黙々と暗い夜を浜辺へ向かって降りていけたのは、ぎゅっと握ったミミの手の温かさがあったからだと思う。それだけがこの時、自分を正気へと繋ぎ止めていた。
「あれだ」
それは小さいけれど美しい舟だった。小型の帆船だった。はじめに言われるがままに乗り込み、3人乗ってしまうと4人目がのれないくらいの。
「エンジンとかないの?」
「音がするとまずいだろ?」
そして、はじめは慣れた手つきで船に帆を張り、僕たちは海に滑り出た。
「うわぁ」
船が動き出した時のミミの歓声を自分はきっと一生忘れないと思う。はじめがそっと言った。
「明るくなる前にできるだけ島を離れよう。ついてたな。今日の海はおとなしい。まるで神に祝福されているようだ」
その時ミミは、嬉しそうに前を見ていて、俺は後ろを見ていた。島は暗くて鬱蒼としていて、あまりよくその姿が見えなかった。これが、見納めになるだろうか?最初にそう思って、それからこう思い直した。これが、見納めになるべきなんだ。だって、ここに戻ってくるってことは碌なことじゃない。寂しいとか、悲しいとかそういうことはなくて、ただ、一緒に過ごしてきた子供たちのことを思うと胸が痛んだ。どのぐらい経ってからだろうか?船は海の上を滑り、僕らはただぐるっと周りを海に囲まれていて、本当にここをこのまま進んでゆけば、陸につくのだろうかと不安になるのだけど、はじめは不安な様子など微塵も見せずにただじっと前を見ていた。
「ねぇ」
「ん?」
ぐんぐんと島を離れてゆくに従って、あれほどあった恐怖もだんだんと後ろへと去ってゆくようだった。俺は黙々と船を操る年上の男にきいた。
「どうして自由になったのに、わざわざ危険な思いをして、島に戻ってきたの?」
「うーん、一言では言えないな」
「もう一回、戻るの?」
「もう無理だな。俺の顔はバレてしまった」
「そう」
海は少しずつ明るくなってきた。太陽がもうそこまできている。その時、ミミは寝ていた。こんな時に寝られるなんて、どんな神経をしているのだろう。そして、その明るさを刻一刻と増してゆく美しい世界の中で、目の前に青くて緑色の影が薄らと見えた。
「ミミ、ミミ」
思わず寝ている小さな子をゆすって起こした。
「信じられない。まだそんなに経ったと思わないのに」
僕たちは知らなかった。騙されていた。あるいは故意に知らされていなかった。僕たちの島はそんなに遠くはなかった。そんなに日本の本島から離れてなかったんです。
「ね、すごい。お兄ちゃん、あれ見て」
ミミの明るい顔を見て、そして、視界いっぱいに広がる陸の深緑を眺めながら、鼻の奥がつんとするような感覚に陥る。きっと俺はあの緑の地に足をつけた途端に忘れてしまうと思う。自分の後ろに残してきた人たちのことを。
「ねぇ、あれは必要なことだったの?」
「ん?」
俺ははじめに話しかけた。声が少し震えた。
「何人も連れてけないというのはわかったけど、それならただ俺たちだけ逃げるというのではダメだったの?」
「囮がいなければ逃げられなかったさ。下手すると隠してた船まで見つかってしまう」
「ニヒトはどうなるの?」
はじめはちょっと困ったように笑いながら首を傾げた。もう一度体が重くなった。だけど、それもこの船が岸に着くまでの間。きっと俺はこの今の重さを忘れてしまう。あの地に足をつけて仕舞えば。するとポツポツとはじめが言った。
「俺はもう流石に戻れないけど」
「うん」
「まだいるんだよ」
「え、ほんと?」
「ああ、まだいる」
「ほんとうに?」
「ああ」
このはじめの言葉はほんとうだったのか。ほんとうにはじめのようにあの島にまだ俺たちを解放するために潜んでいる人間がいるのか。今でもよくわからないんです。ただ、本当だと信じたかった。
「ほら、もう着くぞ」
それからほどなく、俺らの船は浜に辿り着き、はしゃいだミミは船から飛び出して水を跳ねながらかけた。その様子は今でもよく覚えている。一枚の絵のようにくっきりと思い浮かべることができる。
岸についたら俺とミミは幸せになって、それで島のこととかみんなのこととか、全部わすれたか。
実を言うとそういうわけでもない。
自分たちはあまりにこの時は外のことを知らなくて。
ただ一つだけ言っておく。あれから長い時間が経ったけど、島を出たことを後悔した日は一度もない。
2024.09.11
汪海妹




