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短編集22〜25年  作者: 汪海妹
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2 静香さんの弟












   2 静香さんの弟

    2022.1.1











   

こちらの短編はもともとしあわせな木の続編のために書いた長編の一部分です。

短編として一旦掲載した後に後々長編の一部に組み込まれる予定のものです。


今書いているかみさま②の執筆が予定通りに終わらず、とりあえず掲載できるものを掲載しようという苦肉の策でございます。

別に掲載しないでもいんだけどな!仕事ではないんだからさ!

だけど、空白の期間を長くおくとなぁ。というジレンマもあり、掲載することにした次第です。

お楽しみいただけましたら幸いでございます。


汪海妹










   














   上条春樹












   

 地下鉄で東京まで出て、それから千葉方面の特急に乗り換える。休日のまだ早い時間の東京駅はそんなに混雑していなかった。


「緊張する」

「初めて会うわけじゃないじゃない?お母さんとは話したことあるし」

「でも、お父さんとはゆっくり話してないし」


 彼女はふと売店を見て足を止める。


「朝ごはん食べなかったじゃん。電車の中でちょっとだけ食べない?」


 そう言って僕を置いて売店に向かう。おにぎりとお茶買ってる横顔を見る。楽しそうだ。そりゃそうだ。自分の両親に会うのに緊張する人は珍しい。

 

 特急の席に並んで収まる。僕が本を取り出して開くと言われた。


「ね、テスト受けに行くわけじゃないし、そんなに一生懸命読まなくても」

「書いた本の内容について聞いてきたりしない?お父さん」

「どうだったかなぁ。どんな話してたかなぁ」


 隣の席で首を捻り捻り考えている。開いていた本の活字から目をあげ、横で首を捻っている静香さんの顔をそっと眺める。今、思い出しているのはかつての婚約者とお父さんが会った場面だろうか。


「じゃなきゃ、最近のニュースについてかな?」

「どうかなぁ?でも、わたしとはニュースの話とかしないよ?」

「静香さんとはしなくても連れてきた男とはするでしょ?」

「そんなん、適当に合わせとけばいいじゃない。おっしゃる通りですとか言って」

「でも、君はどう思う?とか聞くんじゃないの?」

「適当に答えとけばいいじゃん」

「いや、普通のお父さんだったら適当に答えるけどさ……」


 テレビとか出て日本の社会情勢とかにコメントをするような人相手に何を話せというのだ?ガタンガタンと軽やかな音を立てて電車は東へ東へと一心に進む。もう少しゆっくり進んでくれてもいいと思うのだけれど。高いビルばかりだった車窓の風景があっという間に雑居ビルや戸建ての建物の混ざった風景へとシフトしていく。


「なるようにしかならないから、そんな固くならないで。ね、昆布とこだわりしゃけとどっちがいい?」

「なんの話?」

「おにぎりだよ」

「いや……食欲ない」

「えー!」

「二つ食べればいいじゃん」

「でもなぁ」


 おにぎりのフィルムを外しながら静香さんがぶつぶつ言う。


「朝ごはんでは太らないって」

「お母さんが張り切ってて」

「うん」

「うどんをこねてるはずなのよ」

「え?」

「あれ、足で踏むらしい」

「……」

「それを考えるとあまりお腹を膨らまして行かない方がいいかなぁ」

「おにぎり買わなきゃよかったのに」

「でも、電車の中でもの食べるのってなんか楽しくない?バスの中とかさ」


 ちょっと子供っぽいと思いました。付き合って一緒に暮らすようになって、関係が深まるほどに大人っぽかった人の子供っぽい一面を知るようになる。それは全然嫌ではなかったです。嫌ではなかったんだけど……。


「ね、本当に食べない?」


 もう一個の開けていない方のおにぎりをそっと差し出してくる顔をじっと見る。パタンと本を閉じて膝に置くと受け取った。


「昆布なんだ」

「シャケがいい?」

「しゃけと昆布ならシャケがいいの?」

「すごく迷ったけどシャケにした」

「半分あげようか?」

「ほんと?じゃ、しゃけ半分あげる」


 こんなことで本気で喜ぶんだよな。


「どした?やっぱりやなの?半分こ」

「いや、やではない」

「でも、微妙な顔してるけど」

「なんでもない。気にしないで」


 遺伝というのは怖い。もし、女の好みが遺伝するのであればだけれど。或いは、一番身近にいた女性が無意識のうちにどこかに記憶として刻まれていて、男というのは本能でそれを探し求めるものなのだろうか。


「楽しいなぁ。楽しいね」

「いや、緊張してるんだけど」

「あ、そうだった。そうだった」


 それから、こっちに構うのをやめて窓の外を見ながらおにぎりを食べている。

 最近、なんだか似てるような気がするのです。この窓の外を見ながらおにぎりを食べてる人と、僕の生まれてから一番身近にいた女性、母が。


 がー、がー、急にトンネルに入って何も見えなくなる。


「何も見えなくなっちゃった。あ、はい、交換」


 気のせい、ですよね?


 食べかけのおにぎりを受け取り、まっさらの方を渡した。

 母に振り回されている父を幼い頃から見て育った。子供ながらに父さんよくやるなと思いながら育った。父さんだからできるけど、普通の男は無理だなと。でも、ふと気づくと自分の選んだ女の人は母に似てる気がする。今はまだ母に比べたら可愛い静香さんも、少しずつ助長してそのうち母が父を振り回したように僕を振り回すようになるのではないだろうか。


 ガタンガタン


 まさか、ね?

 気を取り直しておにぎりでも食べるか。しかし、渡された半分のおにぎりには具がなかった。


「静香さん、こだわりシャケが全く入っていないんだけど」

「あ、うっかり全部食べちゃった」


***


 駅から少し歩いた。川沿いの道をゆく。


「あれあれ」


 静香さんが指さす方を見る。

 予想はしていたけれど、立派な門構えの大きな平屋でした。門のところでインターホンを押すと、中から静香さんのお母さんの弾んだ声が聞こえる。門を開けて玄関までの石畳の道をゆく。広い庭が見えました。中央に畑があるのが見えた。そして花壇。よく手入れされた素敵な庭でした。


「ただいまぁー」


 彼女がカラカラと玄関を開けると、


 おんおんっ

 タタタタタ


 犬の鳴き声と軽やかな足音がしてその次の瞬間に小さな塊が飛び込んできた。静香さんをスルーして僕に飛びついてきた。足元で二本立ちになって僕の足に登ろうとする。まだ子犬でした。


「犬?」

「あ、言ってなかったね」

「もう、ハルちゃん」


 はっはっはっはと息を吐きながら綺麗な目でこちらを見上げてくる。柴犬でした。僕は手に持っていた荷物を玄関の上り框に置くと、ハルを抱き上げた。


 おんっ


 抱き上げて撫でると僕の手を舐めた。


「くすぐった」


 笑ってしまった。でも、ハルはやめずにぺろぺろと僕の手を舐めたり、一生懸命僕の匂いを嗅いでいる。


「ハルちゃんも待ってたのね。春樹君がくるのを」


 お母さんが目を細めて嬉しそうにハルを眺めている。


「なにせ、ほら、ハルちゃんのハルは……」

「いらっしゃい」


 家の奥からお父さんが出てきた。


 おんっ


 撫でられるままになっていたハルが僕の腕の中でお父さんの方を見ながらもがき出した。僕はハルを床に下ろした。すると跳ねるようにお父さんの足元に行って甘えている。


「もう、はしゃいじゃって。あ、上がって、上がって。お昼にしましょ」


 お母さんの声に靴を脱いで、上り框に置いていた荷物をもう一度持つ。新しい木の香りのする家でした。


「家の中で飼ってるんだね」


 お父さんとお母さんが廊下を奥へ行くのに我が物顔でついていくハルを見ながらそっと静香さんに囁いた。


「お母さんが犬が好きなの?」


 家の中で飼うなんてよっぽどだなと思いながら聞きました。


「いや、お母さんも好きだけど、飼おうって言い出したのはお父さんだよ」

「そうなんだ」

「家の中で飼おうと言い出したのもお父さん」

「へぇ〜」


 ちょっと意外でした。意外だったけど、ほっとした。動物が好きな人に悪い人はいないっていうじゃないですか。


***


「美味しいです」

「あら、ま、お世辞?」


 お昼は静香さんが言った通り、お母さんが捏ねたうどんでした。それに、野菜の天ぷらが色々揚げてあって、薬味とつゆが用意されていて、夏だからざるうどん。明るくて開放的なダイニングはリビングと繋がっていて、片側はガラス張りになっていて、庭にそのまま出られるようになっている。立派な重い木目のテーブルの上に美しい器とクロスと食べ物が並ぶ。


「いや、本当に。うどんだけじゃなくて、つゆが美味しいです。もしかしてこれも手作りですか?」

「そうそう」

「どうやって作るんですか?」

「だしがね、違うのよ。ほら、ここ海近くだからお魚が美味しくってね」

「へ〜」


 静香さんのお母さんは、前よりもっと明るくて幸せそうでした。それを見て自分も嬉しくなった。


「そうそう。あのね。朝市ってのがあるのよ。明日の朝みんなで行きましょ」

「え、朝?」


 静香さんが顔を顰める。


「春樹君、仕事で疲れてるんだよ」

「だめ?」


 お母さんはちょっとがっかりした。お母さんのそのちょっとがっかりした顔を見て、胸がちくりとしました。


「いいですね。朝市」

「春樹君……」

「何が食べられるんですか?」

「あのね、タコ飯っていうのがあってね」

「タコ飯?」

「タコの炊き込みご飯なのよ。ここら辺、タコがとれるの。それとね、伊勢海老のお味噌汁」

「へ〜」


 僕が感心すると、お母さんは目をキラキラさせながら話を続ける。そんな時お父さんは食卓の端っこで静かに黙々と僕たちの話を聞きながら食事をしていました。食事が終わってから、そっと静香さんに聞く。


「ね、お父さん、なんか機嫌が悪い?」

「どうして?」

「全然喋んないし」

「いやいや、うちのお父さんって無口なんだって」

「え?」


 端っこでこそこそと内緒話をする。お母さんは台所でお昼の食器を片付けていて、お父さんは居間のちゃぶ台に座って新聞を広げている。


「でも、テレビでは……」

「仕事の時とプライベートの時が違うのって、よくある話でしょ?」

「……」


 驚いた。だって、テレビではいつも独特な切り口で滔々と語ってた印象がある。


「さてと」


 エプロンで手をふきながらお母さんが台所から出てきた。


「さ、静香、買い物行くわよ」

「え?」

「春樹君、今日の夕飯はご馳走だからね。あんた、帰ってきている時ぐらい手伝いなさい」

「あ、僕も買い物付き合います」

「いや、春樹君はいいわよ。うちでのんびりしてて」

「……」


 ニコニコ笑いながらそういうお母さんの顔を見ながら、え?と思って固まった。それってこの広い家にお父さんと二人で残れってこと?この全然喋らない有名人と……。


おんっ


 鳴き声がして下を見る。ハルがいた。そうだ、全然喋らない有名人と犬と三人で残れってこと?


「お母さん、そんなこと言われても春樹君困るって」


 静香さんが助け舟を出してくれた。するとお母さん静香さんの腕を捕まえると部屋の隅に引っ張っていく。そして何やら二人でヒソヒソと話していた。不意にパッとこちらを振り向くと静香さんは手を挙げた。


「じゃ、春樹君、そういうことで」

「え……」


 あれよあれよと二人で連れ立って買い物へと出かけて行ってしまった。置いてかれた……。気まずい思いで玄関からそっと居間へ戻る。お父さんはやはりこちらに背を向けて新聞を読んでいる。僕はまるで僕の存在を消すような気持ちでそっと、そーっとダイニングの椅子に座った。


おんおんっ


 するとどこからともなくハルが何かを口に咥えて引きずりながら来て、お父さんのとこへ行く。


「なんだ、もう、そんな時間か」


 新聞を読んでいたお父さんはそれをたたみ、ちゃぶ台の上に置いた。


「すまないね。散歩の時間でね。君はどうする?君さえ構わないなら、ここで時間を潰してもらって構わないけど」

「あ……」


 じゃあ、お言葉に甘えてと言わせてもらうことはできなかった。


 おんおんっ


 ハルが僕のとこにくると僕のズボンの裾のあたりを咥えてぐいぐい引っ張る。


「え?なに?なに?」


 お父さんはそれを見て笑いました。


「ハルはどうやら君と一緒に散歩をしたいらしい」


 おんっ


 お父さんは家を出ると、リードを僕に渡しました。するとハルは、僕を引っ張って走り出した。


「え?うそ。あ……」


 引きずられてゆく。お父さんはそんな僕らを歩きながら見ている。だんだん僕たちとお父さんの距離が開いてゆく。とある曲がり角でハルは曲がろうとして僕をぐいぐい引っ張る。普段の散歩のルートなのかもしれないとそちらへ曲がろうとすると、


「ハル」


お父さんがハルを呼んだ。ハルはパッと主人の方を見ると、ぐいぐい引っ張っていたのを諦めて大人しくなった。お父さんは僕たちに追いつくと、ハルの前でしゃがみ込んだ。


「お前、海に行きたいのか?」


 おんっ


「海に行くってことは後からお風呂に入らないとだぞ?ちゃんとわかってるのか?」


 おんっ


 お父さんはそれを聞いてよしよしとハルを撫でた。そして三人でその曲がり角を曲がった。しばらく行くと、海岸に出る。海が見えるとハルは喜んで飛び跳ねたりリードをつけたままで回ったりし始めた。


「よしよし。いいか、いつも通り。他の犬と喧嘩しない。他の人に吠えない。噛んだりもしない。わかったな」


 頭を撫でながらお父さんが言う。ハルはじっとお父さんを見ている。お父さんはハルの首からリードを外した。ハルは砂浜に飛び出してはしゃぎ回った。僕たちはそれを防波堤に腰掛けながら見ていました。


「君は、その……」


 お父さんが恐る恐ると言った口調で僕に話しかけてきた。


「静香とはどういうつもりで?」

「あ、えーと……」


 砂まみれになりながらはしゃぎ回るハルを見ていて、僕は隙だらけでした。


「その……」

「将来的なことは考えているのかな?」

「僕は、彼女さえ良ければ……。ただ……」

「ただ、なんですか?」

「僕は、その、お父さんみたいな立派な人ではないので……」


 海風が僕たちの髪をなぶってました。初老の男の人の顔を見つめながら僕は気まずい思いをしていた。でも、腹を括りました。


「今、働いている事務所はそれなりの規模の事務所なんです。だけど、正直、なんて言うのかな?」


 こんなこと言って聞いてもらえるのかどうかわからない。


「僕はまだ社会に入ったばっかりで、でも、思っていたのと違うんです」

「うん」

「いつもではないんですけれど、時々、間違ってるって思うようなことが事務所の中で当たり前のように横行していて、そういうのに無感覚でないと続けられないんです。ちょうどあの波の中の石みたいに」


 僕は少し先で波に洗われている石を指さした。


「削られて丸くなっていく」


 午後の海は観光客で賑わってました。ハルはその中を飛び跳ねる。陽気な光景の中で僕はつまらない話をしていた。


「だからといって、逃げ出すこともできない。社会というのは多かれ少なかれそういうものだと色々な人に言われて、本当にそうなのかと疑いながらもどこにもいくことができない。自分が少しずつ自分ではなくなってしまうようで怖いんです」

「うん」

「お父さんのように自分の言葉で自分の意思で生きていけるような人間では僕はないんです」

「……」

「そういう自分が本当に静香さんに相応しいのか悩んでます。それでも、今の事務所でギリギリまで頑張ろうと思ってます。自分がどうなってしまうのかわからないけれど。それでいつかどこかの未来で、今の自分よりはもう少しましな自分になって、自分が信頼できる信念を持ったような人を支えられるような仕事がしたい」


 太陽の光が強すぎてその下に晒されたものたちがギラギラと光る。僕は静かに僕の話を聞いているお父さんに向かって笑った。


「自分で信念を持ってやろうとは思わないんですか?」

「僕は人を動かすほどの熱いものを持っている人間だとは思わないんです。人を本当の意味で惹きつけるようなそういう人間ではありません。だから、せめて、自分が信じられる人を支えられる人間になりたいと思ってます」


 ふ、と微かにお父さんは笑った。


「君は僕を見てどう思いますか?」

「どうって……」

「成功した人間だと思いますか?」

「そりゃもちろん」

「僕はね、春樹君……」


 キャーキャーと上がる歓声。空へと昇って消えていく。


「取り憑かれてました。有名な人間にならなければならないという考えに。香織が支えてくれたおかげでかろうじてなんとかいわゆる成功を手にすることができたけど、あともう少しで破滅していたかもしれない人間なんです。それこそ、自殺していたかもしれない」

「え……」

「でもね、この歳になって思うんです。この世でスポットライトを浴びる人間というのはほんのごく一部だけで、それ以外の大多数の人が暗闇に生きている。スポットライトを一生に一度浴びるか浴びないかの人生を生きていくんです」

「はい」

「その生に意味がないなんて誰が言えますか?」


 何も言えないまま、ただ、お父さんの真面目な顔を見ていました。


「この世界を構成しているのはむしろ、その大多数の無名の人たちなんです」

「……」

「無名か有名かなんて本当は重要ではない。目の前にあることを一つ一つやり遂げていくとき、万人が本当は英雄なんです。誰かと比べて苦しまないでほしい。君には君の信念があるのだから」

「僕にですか?」

「君はまだ若い。知らないんですよ。自分が本当は何ができるのか。そして何をすべきなのか」

「本当ですか?」

「本当です。人生は君が今思っているよりも、もっと、意外と長いものです。不幸にして半ばで命を落としてしまうようなことがなければね」


 そして、ふと僕から目を逸らすとハルのほうを見た。


「犬も熱中症になるからね。あいつは体も小さいし。ハル」


 走り回っていたハルがこっちを見た。じっと見たままで動かない。


「行こう。あまり暑い中を駆け回るといくらお前でも倒れるぞ」


 それでも動かない。


「言うことを聞きなさい」


 お父さんが立ち上がって、ハルに近寄る。じっとそれを見つめながら、目をキラキラさせている。あとちょっとで捕まえるとこで、ばっと駆け出して逃げ出した。


「こいつ」


 おんおんっ


「年寄りを走らせるな」


 それでも楽しそうにハルは追いかけっこをした。すると不意にお父さんがうずくまった。驚いて立ち上がる。ハルと僕と駆け寄った。もちろんハルの方が早い。


「捕まえた」


 カチャリ


 リードがつけられた。


 くうん


「また今度だ」


 はっはっはっは


 観念したらしい。それからは大人しく一緒に歩き出す。


「結局気をつけていてもお前といるとこっちまで砂だらけになる」


 おんっ


「子供の頃の静香にそっくりだ。お前は」


 悪びれない顔でハルはお父さんを見上げていた。


「ちょっとあそこに寄っていきましょう。こいつに水を飲ませないと」


 海の家のようなところに、男三人?で座った。ペットボトルの水の蓋を開けると、片手を皿のようにして水をそこにため、その手からハルに水をやる。ハルはピチャピチャと水を飲んでいた。


「僕たちもビールでも飲みましょうか。少しだけ」


 よく冷えた缶ビールを一本、プラスチックのコップを二つに分けて飲む。日陰で冷たいものを飲んで人ごこちついた。炎天下で座っていたので、走り回っていなくともこちらも消耗している。ハルは水を飲み終えた後にさっきとは打って変わって静かにしている。


「あの……」

「はい」

「さっき言ってたのって」

「さっき?」

「子供の頃の静香にそっくりだって」

「ああ……」


 お父さんは苦笑した。


「僕は本当に馬鹿な男です」


 苦い口調でした。


「コイツを飼うようになって、なんだか妙に静香の小さな頃を思い出すようになってね。僕がまだ全然売れない頃は、香織が病院で働いて、それで、僕が静香の世話をしてたんで」

「ああ……」

「保育園の帰りに公園で遊びたがって、帰ろうと言ってもなかなか帰らないことがあったんですよ」


 僕はその様子を思い浮かべた。小さな静香さんともっと若いお父さんの様子を。そんな温かい日々が静香さんとお父さんにもあったんだなと。


「あの時のあの子の笑顔を僕は愚かだから永遠に失ってしまったんです」

「……永遠にと決めつけることはないのではないですか?」


 お父さんはふっと寂しそうに笑いました。


「香織がいるからかろうじて僕たちは親子として成り立っているんですよ。そして、僕は未練がましく今更ハルを一生懸命大切にして、あの頃の静香の代わりに……。失ったものを取り戻したような錯覚を覚えて、自分を慰めているんです」


 そのお父さんの言葉に僕は一瞬だけ自分たちが砂漠の真ん中にいるような気がした。そのくらい殺伐としたお父さんの心象風景を自分も覗いてしまったのだと思う。


「春樹君、一つ僕のわがままを聞いてもらってもいいですか?」

「……はい」

「君には僕が与えられなかったものを静香に与えてあげてほしい」

「……」


 はいと答えることができませんでした。できなかった。


 くうん、くうん


「お腹が空いたのかな?じゃあ、帰るか」


 お父さんはゆっくりと立ち上がり、ハルのリードを持ちました。今度はハルはゆっくりと歩いた。まるでお父さんを労るように。時々ハルは満たされたような笑顔でお父さんを振り向いた。そして、僕たちを先導していくのです。


 僕がお父さんにはいと答えることができなかったのは、それは、それは違うと思ったからです。お父さんが与えるべきものを僕が与えるというのは違うと思ったから。なんて勝手なことを言ってるのだと反感を覚えたわけではない。


 ハルは幼い頃の静香さんの身代わりでもない。そして僕もお父さんの代わりではない。ハルも僕もきっと思ってる。お母さんも。みんな二人の味方で、そして、そのみんなが望むことは、お父さんが静香さんにずいぶん遅くなってしまったのだけれど、昔与えることのできなかったものを与えることなんです。


 みんなが望むことは、二人がちゃんと向き合って生きること。


 ガラガラと玄関のドアを開けると おんおんとハルが鳴く。


「あらあら、どこまで行ってたんですか?」

「香織、コイツ砂まみれだからタオルを持ってきてよ」

「まぁ、ハルちゃん、また海に連れて行ってもらったの?」


 おんっ


「連れて行ったら後が大変なのに。道隆さんたら、最近ますますハルに甘いのね」


 トントンとお母さんが奥へ消える。


 おんっ


 ハルがそれを追って家に上がろうとする。


「だめだ。待ちなさい」


 ハルはお父さんを見上げて大人しくなった。


「人間の言葉がわかるんですね」

「どういうふうに理解しているのだろうね。でも、不思議と状況は把握しているんだよ」

「おかえり」


 静香さんがボールを抱えながら奥から出てきた。


「何それ」

「マカロニサラダ、の作りかけ?どうして玄関から上がってこないの」

「砂だらけなんだよ」

「はいはい。ちょっと静香、作りかけの物持ってウロウロするのやめて」


 お母さんが大判のタオルを持って現れた。お父さんはそれを持ってハルをすっぽり包んだ。


「暴れるなよ」


 そして、靴を脱いでタオルに包まれたハルを持ったままで奥へ消える。


「何すんの?」

「砂だらけだからシャワー浴びるの」

「お父さんが?」

「ハルちゃんがよ」

「ええっ」


 お母さんはトコトコと台所へ戻る。僕は自分も靴を脱いで家に上がった。


「お犬様だね。お母さんもお父さんも、孫でも相手してるみたい」


 お母さんに聞こえないように小声で悪態をついている。僕は彼女の持っているボールの中身を覗いた。


「結構な量だね、何人分?」

「今夜は、育ち盛りの子供みたいに食べないといけないよ。覚悟しといて春樹君」

「……」


 しばらくすると濡れそぼった犬が来る。お父さんはハルを窓際に連れていくと、もう一度丁寧に拭いている。窓際には夕暮れの日が差し込んでくる。


「寒くないか」

「夏なのに寒くなんてないって」


 台所から出てきて出来上がったサラダをつまみ食いしながら静香さんがいう。


「エアコンが効いてるからな」

「もうお父さんったら」


 おかしそうに静香さんが笑い出した。


「なんだ」

「まさかお父さんにこんな一面があるなんて思わなかった。よっぽど犬が好きなんだね」

「自分でも知らなかったよ」


 その会話をぼんやりと聴いてました。いつの間にかお母さんが台所から出てきて僕に声をかけた。


「春樹君、春樹君も砂だらけなんでしょ?ちょっと早いけど、お風呂入ってきて」

「あ……」


 しまったという顔をお父さんがした。


「すまない。お客さんより先に犬を入れてしまった」

「あ、いや……」

「お犬様」


 ボソッと静香さんがつぶやく。ちょっと笑ってしまった。


「でも、コイツ、さっさと入れないと家中に砂を撒き散らして走り回るから」

「いえ、全然大丈夫です。あの、ハルを玄関に待たせたままでなんてあり得ないですから」

「やっぱりお犬様だ」

「静香、妬かないの」

「はぁ?」

「弟ができたみたいなものだと思いなさいよ。それと、つまみ食いしたでしょ」

「してない」

「いいから、早くサボってないでこっちきて」

「はいはい」


 ハルはやっぱりキラキラした目でそんな僕らを見ていた。


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