第6話 法の外、法の下
その日、隣の国のとある地域で、堤防が決壊し、洪水が発生した。テレビは洪水の様子を克明に報道している。死者はすでに五十名を超えており、今なお泥水は街を呑み込み続けていた。
リビングのソファに深く座る彼女は、玄関のドアが開く音を聞く。
「ただいま、ハナズオウくん。今戻ったよ」
「お疲れ様ネメシス。義憤の力の効果、テレビ画面越しに見ていたわ。恐ろしいったらありゃしないわね」
隠れ家に帰ってきた、赤い単眼の仮面を付けた怪物――ネメシスを、ハナズオウは座ったまま迎える。
「昔から私は、善意に満ちた人を巻き込むことも厭わず、無差別に人々を殺戮する行為が、人類全体の成長に繋がると信じてきた。それが私のレゾンデートル。竜はそれを確かなものにしてくれた。救われたよ」
「大勢が犠牲になる出来事はすべて、なくてはならないもの――。ある意味ポジティブシンキングなのかしら?」
テレビ画面に小さく映るデジタル時計を、赤く煌めく異形の目で見て、現在時刻を確認する彼女。時計には午後六時五十分と表示されており、すでに日は沈んでいる。ハナズオウはソファから腰を上げた。
「それじゃあ、私はそろそろ行ってくるわ。お客様がお待ちかねだもの」
「そうだったね。いってらっしゃい」
◇
自宅の最寄り駅を降りた真由。彼女は一人、帰路に就いていた。ここから数分歩けば、途中にスーパーがある。彼女はそこで夕食のおかずを買うつもりだ。
「あっ、そうだ。ちーちゃん甘いもの食べたいって言ってたなあ。何かスイーツ系買って帰ろ」
千里の喜ぶ顔や、スイーツを美味しそうに食べる顔が、真由の頭に浮かぶ。家に帰るのが待ち遠しい。彼女は期待で胸が膨らみ、思わず口元が綻ぶ。
「こんばんは、真由」
その時、真由は路地裏の影に呼び止められた。
「ハナズオウ……!?」
「名前覚えててくれたのね。嬉しいわ」
影の正体はハナズオウだった。A-300を着ずに鬼と会うのは、真由にとって初めてのこと。それは想像以上に怖いものであった。何せ、つい先日彼女は、鬼が赤子の手を捻るように人の命を奪ったさまを、見てしまったから。
「とにかくこっちへ。大ごとにしたくないでしょ?」
真由は唾を呑んでから決心する。もう鬼に怖じ気づくのはやめると。彼女はハナズオウについていき、路地裏へ進む。
「何の用があって、私を?」
ハナズオウは腕を組み、壁にもたれかかって言う。
「あなたは、ネメシスのことが憎い?」
「そんなの、憎いに決まってる」
「殺したいくらい?」
「……何回殺しても殺し足りない」
一瞬口に出すのを躊躇ったが、何も間違ってなどいないと思った真由は、そう憎しみをあらわにした。
「それは結構。あなたにはぜひ、鬼になってもらいたいものだわ」
「私はそんな力に頼るつもりはない。自分自身の力で――私たちの力でネメシスを止める」
「止める? 殺すんじゃなくて?」
「ネメシスは法の下で裁く。殺すかどうかは法が決めるの」
ハナズオウはそれを聞いて、肩を震わせて俯くと、すぐに顔を上げて夜空を見回し、思いきり哄笑する。やがて、笑い声を悠々と減速させながら、彼女は言った。
「ネメシスは人間じゃないわ。比喩なんかじゃなく、最初から人間じゃないのよ。あの姿だって仮の姿。本当の彼は何者かの手によって創造された、いわば神の使いよ」
「神の使い……?」と真由は目を丸くする。
「そんな存在をどうやって止めるっていうの? ねえ、私に教えてくれないかしら?」
真由は凛とした態度に戻って言う。
「その話が本当でも、私は絶対に諦めない」
ハナズオウは壁から背中を離した。
「良い表情をしてる。あなたはきっと、ネメシスを止められるわ。その憎しみを忘れないようにね、真由」
「あなた……」
「私の友達に、キアラって子がいるの。ネメシスと同じ神の使いよ。ネメシスを止めるときは、きっとその子が助けてくれるわ。それじゃあね」
真由に背中を向けたハナズオウは、地面を蹴って前宙する。彼女はそのまま着地せず、オオコウモリのような姿に変身して、路地裏の上へ飛び去っていった。
「もしかしてあなた、味方なの?」
真由の問いは、呟きとして路地裏に落ちる。




