第5話 幸せの形
真由と千里の住む家。カーテンが目一杯に開けられた窓から、爽やかな日が射し込む。朝食を済ませたのち、少しだけ時間に余裕があり、食卓に座ったままの真由と千里は、その時間をそれぞれ自分の時間としていた。
「真由さん」
千里に話しかけられる真由。真由はテレビ画面から視線を外し、正面に座る千里に目をやる。彼女は、「この小説、知ってますか?」と、自身が先ほどまで読んでいた小説本を胸の前に掲げ、その表紙を真由に見せた。表紙に書かれているタイトルを、真由は読み上げる。
「『十四柱の星雲たち』……。なんか聞いたことはある気がする。どんな話なの?」
「人間を好きになった魔神たちを、オムニバス形式で描いたファンタジー作品です」
「へえ、面白そう。多少ネタバレになってもいいからもう少し聞かせて。私も読みたくなってきた」
「では一つ、私が気になった作中の謎について……」
千里は本を食卓に置き、話を続ける。
「作中に登場する魔神の数は、タイトルより一柱少ない十三柱。というのも、魔神は人間を好きになることにより、神獣という存在から変身・進化した存在で、タイトルの十四柱は冒頭で描かれた神獣の数と一致するんです。つまり、一柱だけ、魔神に進化しなかった神獣がいるはず。これ、何を意味してると思いますか?」
「ほかの神獣が、人間を好きになって進化したってことは、その反対? その神獣には、人間を嫌いになる何かがあったってことかな? 虐待、とか……。その神獣も幸せになってほしい……」
真由という人間は、他人の不幸を嫌う。全人類が傷つけられない、幸せな世界を望むような人間だ。しかし、それはあくまで理想論であり、実現し得ない。彼女もそんなことは百も承知である。そのうえで、彼女は理想論を忘れない。
「その神獣にとっての幸せは、周りがどうこう言えるようなものじゃないのかも」
真由の言う幸せに、千里は引っかかる。幸せの定義とはと。
「あっ、虐待を正当化するわけじゃないんです。ただ、魔神に進化しない幸せもあるのかも、と思いまして」
「魔神に進化しない幸せ……」
それはつまり、人を好きにならない幸せ。それも一つの幸せの形として、成立しているかもしれないのだ。自分の幸せの価値観を、他人に押しつけてはならない。真由はそれを再認識したのであった。
◇
一時間後、真由は花蘇芳警察署に出勤。対策係のオフィスに入室する。
「あっ、高山博士。おはようございます」
「おはようございます、桐谷さん」
湯気の立つコーヒーカップを片手に、高山博士は真由に挨拶を返した。
「もしかして、A-300の修理にいらしたんですか?」
「ええ、同時にアップデートもしようと思いまして。それにしても桐谷さん、よく無傷でしたね」
「イージスのおかげですよ。ありがとうございます」
「いえいえ」と謙遜する高山博士。
真由は高山博士の後ろを覗く。そこには、自席で弁当を食べている朱莉の姿があった。おそらく朝食だろう。
「あっ、宇佐見さんおはようございます。その格好どうしたんですか?」
「おはよう真由ちゃん! その格好ってなんじゃい?」
「その、襷です」
朱莉はなぜか襷をかけていた。襷には、「祝おめでとう!!」と書かれているが――。
「ああこれ! ちょっとうっかり買っちゃってね~!」
「何を祝ってるんですか?」
「えっ? 何も祝ってなんかないよ?」
「えっ?」
朱莉は弁当の玉子焼きを口に運び、美味しそうに味わう。
「この玉子焼き、ホームセンターの味する~!」
「独特な食リポですね」と、真由は苦笑いする。
◇
一方ロッカールームでは、哲範と深尋が立ち話をしていた。
「小林は小説とか読むのか?」
「はい、結構」
「そうか。じゃあ、『十四柱の星雲たち』って小説は、読んだことあるか?」
『十四柱の星雲たち』に引き込まれた様子の哲範。
「読んでませんね……。あっ、あの魔神とか出てくるやつですか?」
「ああ、それだ」
「土曜の朝に、テレビで特集されてるのを見ました。綺麗な愛の話って紹介されてた気がします。係長は読んだんですよね? どうでした?」
「面白かったよ。何といっても、死の魔神編に出てくるエミリーがすごく良い子なんだ」
良い子と聞いて、深尋はある人物を連想する。
「あっ、良い子といえば係長、最近娘さんと会えてませんよね?」
「そうだな。ここのところ休みなしだ」
「休暇とってもいいんですよ。何かあっても、俺が係長の代わりを務めますから」
「ありがとう小林。恩に着る」
◇
住宅街の一軒家の前で、一人の中年の女性が掃き掃除をしている。周囲には誰も居らず、車の走る音も遠い。
女性は背後に気配を感じたようだった。自宅の玄関の方向である。気を抜いて振り返ると、そこには赤い光が。光は徐々に弱まって、濡烏色の姿をあらわにする。
「死んで」
女性の眼前に立つ鬼は、彼女の聞き慣れた少女の声で、簡潔に殺意を突きつけた。その声には、隠す気もない憎悪が毒々しい色を放ってまとわりついていた。
家の前で、鬼は女性のみぞおちにパンチを食らわす。衝撃で突き飛ばされた女性は後方に倒れながら、胴体前面を爆発するように破裂させた。辺り一面は赤色で染め上げられ、鼻を突く臭いが撒き散らされる。鬼は女性の形が残っている部分――まずは顔から足で踏みつけ、アスファルトの地面ですり潰す。
◇
間もなくして、通報を受けた真由と深尋が鬼のもとへ到着。
鬼が踏み続けるそれは、大部分が液体と化していた。赤い血液や黄色い脂肪、粉末化した骨や、それらが絡み付く衣服――。
「何があったの……?」
その異様な光景に、真由は声を震わす。鬼は女性の右膝を踏み潰すと、その肉片を女性の家と反対の方向に蹴り飛ばした。
「こんな奴は母親じゃない。私が同性を好きになったからって、デマを流して私たちを引き裂いたこいつなんか……!」
真由は思う。
――ちーちゃんが言ってたことに似てる。この人は、お母さんにとっての幸せの形を強要されたんだ……。
「あなたたちに、私の苦しみはわからない!」
鬼の能力だろうか。彼女の母親の肉片たちが宙に浮く。それらはマシンガンのように発射されて、真由と深尋にぶつかってきた。
真由はジェットエンジンを点火し、深尋を残して空へ飛ぶ。そうすると、A-300の小回りがよく利くようになっていることに、真由は気づいた。高山博士の言っていたアップデートとは、このことを指していたのだろう。鬼は目標を彼女に絞って、肉片を連射してくる。だが、肉片は蝶のように舞う彼女にかすりもせず、雲一つない青空に飛散していく。
「武器のセーフティを解除します」
その隙に、深尋がサブマシンガンで鬼を銃撃。真由はこのための囮になっていたのだ。深尋は弾切れになるまで鬼を撃ち続けた。鬼は後ずさって、母親だったものを避けて前に倒れ、人間の姿に戻る。空に撃ち上げられていた肉片たちが、辺り一帯に降り注いだ。
真由は風に舞う木の葉のように降り、鬼のそばに着地する。
「あなたの話を信じるなら、確かにあなたのお母さんは酷いことをした。でも、あなたは一線を越えてしまった。彼女さんとやり直せる道が、あったかもしれないのに」
◇
自宅のドアを開けて、真由は帰宅する。
「おかえり、真由さん」
「ただいま」
家に帰ると千里が居る。千里に見送られ、千里に出迎えられる――。それが、真由にとっての幸せの形。誰にも侵害してほしくないもの。だからこそ、真由は自分と今回の鬼が似ているようで仕方がなかった。口ではどうとでも言える。しかしあの鬼のように、幸せの形を強要されれば、自分だって人を手にかけてしまうかもしれない。そう、真由は考えていた。これが単なる杞憂であることを願って、真由は千里との幸せな時間を楽しむ。




