4話:血と約束の1月8日
2/10 一人称に変更しました。
「……大丈夫かな、アニキは」
迷宮の地下3階で、女性が3人。すらりとしたスタイルと人目を惹く容姿を持った黒髪の女が居た。2人の妹を持つ姉でもある黒烏燐は心配でたまらないという顔をしていた。
「きっと無事だよ、燐姉。……なんて言葉は気休めだよね。なんせニーチャンだし」
ショートカットを金色に染めている黒烏嵐は知っていた。兄である迅の視野の狭さを。ちょくちょくと「何をどうしてそういう間違いをするのか」とツッコミたくなる失態を犯したりするのだ。色々な前科がそれを示していた。
具体的には大事な書類の書き間違いや、駅の聞き違いや。高校の時は受験する寸前まで志望校の名前を間違えていたりもしたこともあった。
「普通のダンジョンだと、私達のように順調に進めそうだけど……お兄ちゃんだし」
転機という転機で不運の札を引くのが、アレンジしたツインテールで黒髪を魅せている黒烏玲が知る兄の姿だった。
シェアハウスで一緒に住んでいる仲間と協力すれば、きっと大丈夫だろう。敵はせいぜいが人間の子供のような弱さで、色々な理不尽と気持ち悪さを無視して慎重に進めば、クリアできる。あくまでチュートリアルのため、油断をしたり考えなしな行動をしない限りは早々死なない難易度。それが、燐達がDDから取得した情報だった。
「あれで自棄っぱちになり易い所もあるし……あのクソ女に騙された後は死にそうな顔してたからね」
もしかしたら、と考えればキリがない。DDからのデータも不安を助長していた。災害や戦争で減少した世界人口はおよそ50億。それが既に、40億にまで減っているというのだから。素直にDDに従い、危ない橋を渡らずに死んでいった者が10億人も存在しているという事実は、燐達の心に重くのしかかっていた。
「でも、信じなきゃ。……助けにいけないのが悔しいけど」
きっと大丈夫だと、長女たる燐がいう。空気を読まない所があるし、変な所で自己中になったりする。それでも本当は心優しく、偉ぶった後は必ずと言っていいほどに失敗したりする、お茶目な兄の姿を三つ子達は忘れていなかった。
「……駄目っぽくない?」
「だよね」
「うん」
3人の心が一つになった瞬間だった。一刻も早く、ここをクリアして兄と連絡を。
意見を一致させた3人は互いに頷き合い、地下へと続く階段を降り始めた。
間違いなく不意を突いた一撃――だったはず。
だけど、クリーンヒットじゃない。インパクトの瞬間、力がどこかに逃げるような感触があった。コイツも、今までは全然本気じゃなかったってことだ。咄嗟にあの反応、余裕が無いとできることじゃない。
……舐められっぱなしでいられるか。さあ、仕切り直しだ。
距離は最初と同じ。血がついた唾を横に吐きながら、両拳を握りしめる。
やれる。理由は知らんが、全身に力が溢れている。光のモヤみたいなものが俺を強くしてくれているようだ。
相手にも、うっすらとモヤが見える。かと思ったら、その色が急に濃くなった。
何が起きたのかは、コイツ――ゴブリン野郎の顔を見れば分かる。今からが本気だってんだな、おい。
――上等だ。
小細工もなしに、俺は正面から全力で殴りつけた。
頬に当たった感触は、硬い。痛みを感じながらも、返す拳を頬に打ち込む。
想像以上に早いけど、気にしていられない。
何か、途轍もなく勿体ないことをしているような感覚がある。そして、これは時間制限がある。だけど、今重要なのはそこじゃない。俺の一撃は、このゴブリンでさえたたらを踏ませるほどの威力まで高まっている。
相手も驚いていた。コイツはそこで初めて、俺の目を見たような気がする。そして、何かを訝しんだ後に頭のおかしそうな奴を見る顔をした。
口元を釣り上げて、心の底から面白そうに笑ってやがる。俺にゴブリンの言葉は分からない。種別だって全然違う。だけど嫌味のないそれは、俺に対する称賛だと分かった。
なんとなく、認められたような気がしたのは嬉しかった。
だけど、残り時間は3分。それを過ぎればこの力は消えて無くなるだろう。
深呼吸をして、息を整える。
ゴブリンは左手を前に、右手をやや下げて腰を落としている。
……何かしら、格闘技の類の技術を身に着けてるな。
でも、関係ない。殴れば死ぬ。死ぬんだと言い聞かせ、突っ込む。
一直線に、工夫もなにもない。
拳に手応え。だけど、こっちも殴られた。
カウンターか、くそ! でも、同時だった。こっちの方が早い証拠だ。
鼻血が出るけど、気にしない。あっちも同じだ、痛みよりも足を前に出す。
弱気になれば、さっきと同じように畳み掛けられる。だから俺はひたすら前に出て殴り続けた。選んで殴れる技術もない、当たればそこが急所だと思いこむ。
ゴブリンはそれを躱さずに受け止めた。ダメージに顔が歪んでいるが、効いていないとばかりに殴り返し、蹴り返してくる。
ゴツリという鈍い音。身体に浸透する打撃は、笑えるほどに重かった。
膝が笑う。崩れそうになる、それでもこんな所で死ねない。約束を果たすまで、俺は死ねない。絶対に、死ねない。
そこから先は無我夢中だった。必死に喰らいついては殴り続ける。1を殴られれば、3は返した。素人だから、手数でカバーしなければ勝負にならないという判断から。
いつしか、頭の中は鈍い音と足底の土の音だけになっていた。
都市部からは程遠い、迷宮の地下の一階。称える者もいないし、見てる奴もいない。
だけど、これは殺し合いだ。互いの生命を報酬にした、タイトルマッチ。
意地でも負けられない勝負が、ここにあった。
そして1分が経過し、2分に差し掛かった時だった。
ゴブリンの狙いすましたカウンターの一撃が、俺の顎を揺らした。
いしきが遠のく。かんかくが鈍り、なにもかもがひとごとのように、とおく。からだが、まえにたおれていき――蹴りを食らった。
ゆれる視界に、痛み。どうやら身体が反射的に身体が動いてくれたようで、無意識の俺は両腕で防御をしたらしい。だが、その一撃は強烈だった。
吹き飛ばされた俺は、迷宮の壁に叩きつけられる。
そこで、意識が戻った。明瞭になった視界に見えたのは、迫り来るゴブリンの姿。
両腕、駄目だ、数秒は動かない。
ならもう前に出るしかないじゃない。幸いにして背後は壁だ。それを発射台代わりに蹴り出して、前へ。
大ぶりになったゴブリンの一撃を掻い潜り、額ごとゴブリンの鼻に突っ込んだ。全身を使っての一撃にさしものゴブリンも耐えられなかったらしい、後ろに吹き飛んでいく。
足をもつれさせながら、10歩。
後ろに下がっただけで、倒れない。
だが、今の一撃は大きかった。カウンターは殴る奴の威力も上乗せされる。トドメの大ぶりが、そのままあいつに返ったはず。出血で鼻は完全に塞がっているようだ。大きな口で呼吸をしているのがその証拠。
それは俺も同様だけど。荒い呼吸を繰り返し過ぎたせいで、肺が痛む。だけど何とか引き絞り、酸素を取り入れて二酸化炭素を吐き出す。
残りは、30秒。泣いても笑ってもその後はない、だけど。
「……こうして殴り合えてるのが、お前で良かったよ」
告げる。それは本心から出た言葉だ。今相対しているのが先日のゴブリンではなく、コイツで良かったと思う。
それでも、俺は負けられない。
……形成はやや不利か。
だけど今更、逃げはしない。挑むように、俺は告げた。
「まだやるか」と、分かりきっている問いかけを。
ゴブリンは視線で答えてきた。「当たり前だ」と、不遜な態度で。
熱烈とはこういうことか。燃えている。心が。お互いが相手だけを意識している。
泣いても笑っても、次が最後。それだけに意識を集中して、余計なことを考えない。
相手だけを見て、その生命に手を伸ばすために。
――故に、だからこそ。
横合いから飛び込んできた不意の一撃に、俺たちは対応できなかった。
「がっ?!」
「ギィっ!?」
あり得ない死角からの攻撃に抱いたのは、痛みよりも怒りだった。
「誰だ……っ、てめえか、クソゴブリン!」
乱入してきたゲスは初日に見た個体と同じ、いかにもゴブリンらしいゴブリンそのもの。それが5体、ニヤニヤと嗤っている。一体どこから湧いて出たのか。そんな疑問を抱く前に、俺は決めた。こいつらを殺すことを。
「よくも、邪魔をしやがったな」
「ギャ? ギャギャゲゲ!!」
「こ、んの………!」
野郎、という声とゴブリンの耳障りな笑い声は、大きな足踏みの音で強制的に中断させられた。
今まで殴り合っていた相手によって。
見れば分かる、これ以上ないってぐらいに怒っている。歯を剥き出しにして、全身から怒気を発しているのが見て取れる。
ぎり、と歯が軋む音が聞こえる。
ああ、俺も同感だ。
横目で見た視線が重なった。
こいつらをどうするかなんて、聞くまでもない。頷きあった俺たちは、無粋な乱入者に向き合ったと同時に襲いかかった。
驚いたゴブリンが迎撃に棍棒を振り回すが、関係ない。
一体あたりにかかった時間はm5秒。合計25秒で、俺たちの戦いを汚したゴブリン達の命は潰えた。
終わった後は、僅かな静寂が場に満ちていた。
さあ続きだと、向き直ってくるが―――悪いな。
力が入らない。ついに、限界が訪れたようだ。
尻から地面に落ちた俺は、困ったな、と小さく笑った。生憎と、もうすっからかんだ。両手で身体を支えることさえもできなくなってる。
こっちの様子を見ていたそいつは、事態を察すると深いため息をついた。こっちがため息つきたいっての。
「それで、どうする? 今なら簡単に殺せるぞ」
「ゴガッ」
バカを言うな、とばかりにこいつは何事かを告げながら、その場に座り込んだ。
再度、深いため息が溢れる。俺は、そこでゴブリンの様子に気がついた。
俺だけじゃない、こいつも限界だったようだ。足と腕が少しだけ震えていた。まるで疲労が限界まで溜まっているかのように。それを指差して笑ってやると、こいつは額に青筋を浮かべてきた。
「――あ? なんだてめえ、やんのか」
「――ゴッ? ゴグガゴグゴゴ」
日本語でOK。なんて睨み合ってると、音が聞こえた。
敵、じゃなくて……木箱?
「え、落とし物?」
「グゲッ?」
「なんだその顔」
マジかこいつ、という目で見んな。ちょっと傷つくだろ。だけどゴブリンは取り合わず、立ち上がると木箱の蓋を開けた。ごそごそと探していたかと思うと、中から液体が入った瓶を2つ取り出した。
ゴブリンは一つを自分に、もう一つをこっちに放り投げてきた。
「あぶっ!? な、なんだよコレ」
装飾が施された瓶の中には、青色をした不味そうな液体が入っていた。何のつもりだ、と尋ねようとしたが、マジか。え、飲み物?
お前マジか、という顔を向けてやるとゴブリンが憤慨していた。かと思うと、液体を一気飲みした。プハっ、という仕草とその顔はいかにも満足げだ。
……ひょっとしたら美味しいかも。そうでなくても空腹が限界だ。俺は恐る恐る、液体を口に含んだ。
………まずい!!!!!!!!!!!!!
なんていうか、こう、拷問?!
毒殺するつもりかこいつ!
「ゴブ」
分からん! だけど……あれ。身体が。治ってるし、腹も。
マジか。ゴブリンを見ると、こいつはニヤニヤとした様子で俺を見ていやがった。完全にからかってやがる。
……でも、なんていうかこう、癒やされてる自分が居るのを感じる。
やり取りというかこう、反応があるっていうのが嬉しい。
自覚した途端、猛烈な渇望が湧いてきた。
こいつと言葉を交わしたい。会話をしたい。殺し合いをしていた相手だってのに、我ながらおかしいと思うけど、そんなの関係ない。
なあ、と話しかける。ゴブリンは応じようとして、顔を上げた。
視線の先。そこには、階下から出てきた新手の姿があった。
先程と同じくゴブリンが5体に、犬の形をした魔物のようなやつが3匹。俺たちを見つけたんだろう、真っ直ぐこっちに向かってきている。
まだ距離はあるが、2分もしない内にここに辿り着く速さだ。
やばい。このままだと、殺される。
回復したとはいえ、消耗は激しい。戦闘なんて無理だ。もう一度戦って勝てるとは思えない。
「……どうする」
隣のやつに問いかける。だが、言葉が通じなかったのか、ゴブリンは小さく息を吐いた。その仕草を見て、俺は何となくだが悟った。こいつが、何かを諦めたということを。
――そうか。死ぬつもりか、コイツ、
数的不利の差は埋められないと判断したのだろう。それでも逃げる所はない。ゴブリンはそれを知っている。
だけど、タダで死ぬつもりはないんだろう。最後まで、戦うつもりなんだ。圧倒的不利は覆せないのは分かっているだろうに。
このまま、見捨てればどうなるか。決まってる。奮戦虚しく、コイツは寄ってたかって殴られ、噛まれ、殺されて、終わる。
俺は、その光景を想像して嫌な気分になっていた。
さっきの殴り合い。俺はあれを、決闘の一種だと感じていた。誰にも文句は言わせない。正面から、サシで一対一。どちらが死んでもおかしくはなかったけど、どこか納得していた。
そうだ。あれは、決闘だった。乱入されてケチがついたが、あれは命をかけた真剣勝負だったはずだ。
合意の元に始まった、殴り殴られての戦いの記憶。その裏に生じたこれは、連帯感―――誇りというべきだろうか。その感覚は、俺の心の中に深く浸透していた。
殴り合いなんて、子供の頃にやったっきり。でも、心の空白を埋めるものとして、今の戦いは俺に何かを与えてくれていた。
なのに、気付かせてくれたコイツがこんな形に終わる。
俺が想像した終わりを、こいつは仕方がないと受け入れている。
―――ふざけんな。
気がつけば、俺はゴブリンの腕を掴んでいた。奇妙な顔をされたことも気にせず、その手を握りしめながら告げる。
「――行くぞ。上に、一緒なら多分逃げられる」
「……ガグゲ?」
正気を尋ね返すような顔。分かってるよ、裏切られたらその時点で俺は死ぬ。誰かが聞けば、初対面の、たった数分殴り合った相手にどうしてそこまで。普通の奴なら頭がおかしいのかというだろう。
だけど、知らん。
それに、こいつには借りがある。でっかいそれを返すまで、死なせてたまるものか。
「ゴガガ……グ」
「分かんねえよ。ただ、約束しろ」
数瞬、俺を裏切った女の顔が浮かぶ。暮羽……今はいい。
俺は胸に奔る痛みに耐えながら、告げた。
「――俺はお前を裏切らない」
だからじゃないけど、と願うように示した。
「お前も、俺を裏切るな」
それが約束できるのならば。視線で問いかける俺に対し、こいつは一瞬だけ躊躇した後、頷きを返した。
カチリ、と何かがハマる。約束を受諾された感触というのか。どこかで、確信する。約束は結ばれたのだと。俺はそれに気がついた直後、腕を引っ張った。
「決まりだな、逃げるぞ!」
大声で促しながら、入り口に向けて走り始める。背後からは足が速い獣が迫っている。
やばい、際どいタイミングだ。いけるか?
弱音なんて吐いていられない。俺たちは振り返らずに、走った。通路に辿りつき、階段を二段飛ばしで駆け上がる。
「急げ、早く……っ!?」
たどり着き、振り返る。そこで、俺は見た。仲間になったコイツ、その背中に犬の魔物が飛びかかる瞬間を。
鋭い牙がその背中目掛けて襲いかかり―――
「オラァっ!」
ゴブリンをこちらに引っ張り込んだ俺は、叩きつけるように扉を閉めた。
ギャン、という犬の声が聞こえる。横にあった傘を手に取り、俺は震えながら構えた。もし、こっち側に入ってこられるようなら……。
緊張したまま、数分後。やがて犬達の声は聞こえなくなっていった。
「はぁ~~……心臓が止まるかと思った」
逃げ切れたことに安堵の息を吐き、俺はその場に座り込んだ。もう無理。今日は無理。
でも……最後のあれは傑作だった。俺はしわくちゃになったスーツを尻にしきながら、空を仰いで笑った。
なあ、お前もそう思うだろ。俺は転けたせいか半眼になっているそいつに向けて、話しかけた。
「ざまあなかったな。笑えるぜ、あの犬コロ」
「ああ、全くだ。今度会ったらただじゃおかねえけど」
……え?
「その……まあ、なんだ。よろしく頼むぜ、契約者サンよ」
「キェェェアァァァシャァベッタァァァァァッッ!?」
絶叫した俺は、ぷつりと何かが切れる音を聞いた後、その場で気を失った。。