2話:生死を分ける1月1日
2/10 一人称に変更しました。
「なんだ、今の声……チャレンジャー?」
周囲を見回したが、誰の姿も見当たらない。幻聴の類か、と腑に落ちないものを感じながらも階段を降りていく。
……でも、挑戦者か。いかにも怪しい所に挑もうって意味では間違ってないな。
それでも、どこの誰がどういった意図でこんなものを作ったのか。深く考えるとそれはそれで怖いと思った俺は、とりあえず進むことにした。理解不能な事態よりも、今は生存に精を出すべきだと判断して。
慎重に1歩づつ、フライパンを前に構えながら降りていく。角から何か出てきても対応できるようにと警戒しながら進む。幸いにも何も起きず、曲がり角の先に身体を踊らせる。そこは、一本道になっていた。少し開けた場所まで繋がっているようだ。抜き足差し足忍び足で、できるだけ足音を消しながら、奥へと進む。
ん……? 地下なのに暗くないな。壁自体が光ってる、のか。
いよいよ何がなんだか分からない。洞窟ということで照明を取りに戻ることも考えていたのに、まるで誘われているかのようだ。
精神をごりごりと削られながらも、俺は慎重に進んだ。
もう少しで、広場に。
―――そして、辿り着いた俺は唯一の武器であるフライパンをその場に落とした。
「……嘘、だろ?」
階段で下った距離は覚えている。せいぜいが5mといった所だろう。だというのに、見上げれば天井は遥か上だった。
空間的に、あり得ない。いったい、俺はどこのどちらに飛ばされてしまったんだ。
『――解析完了。ステータスを連絡します。アルファベットランクと具体的な言葉と、どちらにしますか?』
「は? ……いや、ランクって。というより、誰だ?」
『言葉を選択したと判断します。……完了。身長174cm、体重78kg、28歳、筋力:カス、敏捷:ゴミ、体力:ザコ、気力:ミジンコ』
散々だった。とはいえ、薄々と自覚があったので黙り込む。体重計に乗るのが怖くて逃げ回っていた結果がこれなのだから。
「じゃねえよ。誰かは知らんけど、いきなり失礼な」
『次に、あなたの“言葉”を選択して下さい』
「聞けよ」
そもそもお前は、と反論しようとしていた俺は、次の瞬間には予想もつかない質問に間抜けな声を出していた。
気がつけば、膝から地面に崩れ落ちていた。唐突に、キツイ目薬の100倍はあるかのような強烈な何かが差し込まれたかのような感覚に溺れたからだ。
その“何か”は俺の脳の奥まで染み込んでいったようで。事態が分からないまま、ただ翻弄されるがまま。
どうしてか、過去の光景の数々が脳裏に浮かぶ。強制的なその発作を前にして、俺は成すすべもなかった。浮かんでは次に、現れては流れていくそれは自分の記憶であることは間違いない。
生まれて、幼少期。俺は普通の家庭で生まれて育った。唯一他所の家と違ったのは、三つ子の妹が居たこと。それでも、家族みんなで不景気の世の中を生きた。
苦しいけど、笑えることも多かった。急に両親が死ぬなんて、考えたこともなかった。
そして、今最も思い出したくない顔も例外ではなく自分の記憶として現れた。
あいつ――香貫暮羽のこと。一応は彼氏彼女の関係だった、元恋人。本当に美人だった。好きだった、と思う。愛しているかと聞かれ、何度も頷きを返したことを覚えている。
テレビでも滅多にお目にかかったことがないぐらいに、整った容貌。スタイルも抜群で、街を歩けば男どもが振り返った。まるで漫画だと、一緒に笑いあったこともあったことを覚えている。
『――私だけは、あなたの傍を離れないから』
約束された言葉。言葉で紡がれた約束。
その全てが、嘘だった。
……そうだ。いきなり父さんが、母さんが死んで。涙さえも出なくなって。あれだけ親身に尽くしてくれて。
あいつのためなら死ねると思った。本気だった。なのに、あいつは俺の金が目当てで。……違うな。本当は、分かってたよ。俺に惚れてなんかいないことを。
俺は、どうだったんだろう。友達や家族には格好をつけて「人は外見より中身だ」と話していた。だが、俺は自分が面食いだという自覚があった。
……でも、どっちなのか。本当の気持ちは、どうだったんだろう。少なくとも、浮かれていたのは確かだ。好きだった気持ちは絶対に嘘じゃない。だけど、ひっかかることがあったのは確かで。
でも、最初からずっと、表面上の言葉を唇でなぞるだけだったような。嘘くさい口約束に満足して、覗き込もうとはしなかったから、あんな終わりを迎えたんじゃないのか。
自分の中から、自分を責める言葉が浮き上がってくる。
――それでも、あれはない。
よりにもよってあの時、あの状況での裏切りは許せるものじゃない。
認識した途端、俺の胸の内に憎悪の炎が燃え盛った。じりじりと焦げ臭い匂いが鼻の奥にまで染み付いては、涙が出るぐらいにどうしようもなくなるほどの。叫び声が出るようで出ない、もっと大切な、内臓さえ飛び出そうなこの感情をきっと憎しみと呼ぶのだろう。
(そうだ。もう、くだらない誤魔化しはいい。今すぐに、俺は―――っ!?)
何かを選択しようとした俺は、そこで止まった。
記憶の想起はまだ続いていたからだ。それは叔父に追い出された後の、妹達と話していた時の光景。ファミレスで3人、自分とは似ても似つかない、目立った容姿をしている妹たちは明日に出ていく俺に向けて言葉を贈った。
『だからあれだけ言ったじゃん、いいこと無いからやめときなって』。
――半額詐欺の腐れ刺身を見るような顔をするな、燐。
『分相応ってものを知りなよ。後悔先に立たず、兄さんならもっといい相手を見つけられるって』。
――元気づけてくれるのは有り難いけど立てるのは親指だ、中指じゃないぞ嵐。
『その、気がつけなくてゴメン。と、盗られた分は私が借金してでも埋め合わせるから』
――いいからお前は自分の心配をしろ連帯保証人未遂を許せるのは3度までだぞ、怜。
(まあ、ぜんぶ俺が言えるこっちゃないんだけど)
個性的な妹たちだが、それでも憔悴する俺を元気づけてくれた。
だけでなく、最後には子供の時と同じように屈託のない笑顔だった。
『じゃ、また』
『うん。だから』
『次は、きっと』
だから、という言葉の後に差し出された小指。
思い出した俺は、気がつけば元の状態に戻っていた。
「……何が。」
起きたのか、と尋ねる。だが、声が応えることはなかった。
『エラー。次、試練の迷宮の規模を探索……………解析完了。規模:レベル8、難易度:レベル5。登録完了。チュートリアルに移ります』
声の後に、目の前にある地面が光った。眩しさから逃れるように、俺は目元を覆いながら一歩下がった。
「な、にが―――はぁっ!?」
まさかのまさかだ。俺は、目をむいた。唐突に現れた“それ”が明らかに尋常のものとは思えない異形だったからだ。
小柄だが暴力の気配。尖った耳、醜悪な顔、ギザギザの歯、緑の肌。
俺は漫画やアニメで見たことがあった。
“それ”の名前を、叫ぶ。
「ご、ゴブリン……!?」
『難易度補正を実行します――完了。戦闘を、開始して下さい』
声に呼応するようにゴブリンの身体が2倍に膨れ上がる。
いつの間にか、手には大きな棍棒が握られていた。
ゴブリン、と尋ねるように呟いた俺だが、、
「ガアァッ!」
返ってきたのは迷いのない一歩、殺意のための。前に出たゴブリンは、すでに俺を間合いの内に捉えていた。
全身に、猛烈な怖気が走った。それは、死地を悟った肉体が発する危険信号だろうか。俺はそれに逆らわず、本能のままにフライパンを拾い上げる。間髪入れず、振り下ろされる棍棒を底で受け止めた。
鈍い音。痛みはない。俺は震えながら、棍棒を受けたフライパンを見た。
「しび……へ、へこんで」
べっこりと棍棒の跡がついたフライパンの底。
これは、と俺は悟った。こんなもので殴られたら、俺は普通に死ぬ。理屈とか威力計算とかじゃない、頭蓋骨が凹む、脳漿がこぼれちまう。
圧倒的な死の予感。でも、足が動かない。
震えて動かないのだ。混乱した俺は迷った。その間、わずかに2秒程度だっただろうか。それはゴブリンが次の攻撃をするのに十分な時間だった。
再びの振り下ろしが俺の頭めがけて振り下ろされる。直撃すれば、と考える余裕もなく、無我夢中でフライパンを前に出す。
フライパンの先に、衝撃。そして、何かが折れる音を俺は聞いた。
俺の骨か?
――違う、音は俺の身体から出たものじゃない。
手元のフライパンは、大きくひしゃげている。だが、その一合を勝負と呼ぶのなら俺は僅差だが勝ったのた。ゴブリンの棍棒が、半ばからへし折れている。
後で思い返すと、そこから先の行動は、思考されての結果ではなかったと思う。腰が抜けそうになっていた俺は、恐怖に押されるまま一歩前に出ると、フライパンをゴブリン目掛けて突き出した。
何の策も作戦も意味もないそれは、恐怖から逃れるための反射的な行動。そんなものが補正を受けたゴブリンに当たるはずもない。
黒い鉄のフライパンは、ゴブリンの両手でしっかりと掴み取られ、
「な……この、噛むなっ!」
ガジリ、と歯と歯が合わさる音。俺は手に持ったフライパンの感触から、齧り切られたことを察する。ここで武器を失えば――恐怖に駆られるまま、渾身の力で噛みつかれたフライパンを強引に左右に振り回した。
「ギ、ギギィ!?」
青い血が飛び散る。切られたフライパンの断面が、ゴブリンの口を切ったようだ。
苦しむ声。好機だと見た俺は、更にフライパンを揺さぶった。たまらずゴブリンが離れ、ようとする。
そこで、抑え込みを失ったフライパンが勢いよく振られた。
青い血液。何が、ゴブリンに裂傷?
場所は―――目!
好機だと、本能が察する。俺は一歩、前に出た。フライパンを両手で握り、間合いを詰める。
衝撃。揺れる視界。かはっ、という呼気が口から溢れた。
な、にがっ……あ、たまが痛い、俺は、殴られた?
側頭部、こめかみの少し上のあたりに痛みが残る。正面には裏拳の形で振り抜かれたゴブリンの手。そして、俺の頬にはぬるりという液体の感触が。臭いで分かるそれは、俺の血だった。
カッ、と頭に血が昇る。そんな俺の様子はいざしらずと、ゴブリンは無闇矢鱈に暴れまわっていた。
(……狙った一撃じゃない。それで、コレだって?)
冗談じゃないと、戦慄する。たった一撃、振り回しただけでこのダメージ。俺の恐怖と予感は正しかったんだと、悟る。これが重さと遠心力が乗った棍棒の一撃であれば、自分の頭は粘土のようにひしゃげていただろう。
一刻も早く、こんな場所から逃げ出したい。そう考えた俺は後先考えずに全力で攻撃を仕掛けた。
――これも後で気がついたことだが、偶然だったと思う。
ただ振り抜いたフライパンの一撃が、ゴブリンの重要な血管を切り裂いたのは。
確かな手応え。噴水のように、首から血液が飛び出していく。
ギョロリと、こちらを睨んでくるのは、ゴブリンの目。縦に割れている、気色の悪い眼球だった。
だけど、それは一瞬のこと。致命傷を受けたゴブリンの瞳孔はぐるりと上を向き、白目になったまま後ろ向きに倒れ込んだ。
その後、ゴブリンの身体はびくり、びくりと数度だけ痙攣をするだけで。目の前にあった生命は、地面に流れ出た血と一緒に流れ出て消えていった。
「……は。は、はは……やった、のか?」
フライパンが地面に落ちる。ガラン、という音が広場に響いた。
呆然と、ゴブリンの死体を眺める。生死の確認をしようという発想と気力は、残ってはいなかった。
システムメッセージと名乗った声が何事かを告げてくるが、記憶する余裕さえ無い。
その後、ゴブリンの死体は少し輝いたかと思うと、小さな紫色の石に変わってしまった。これは、金の類だろうか。俺は無言でそれを拾うと、ポケットに入れた。
前を見る。天井にだけを気を取られて見えなかったものを、俺は認識した。
天井だけでなく、部屋全体の規模がドーム球場のそれに近い。その空間に、視界の中に入るだけで同じような強さに見えるゴブリンが5体あまり。
それが、一斉にこちらを見る。憎しみではない、敵意と害意しかない瞳が語っている。お前を殺すのはオレ達だと、見せつけるように。
俺は、小さな悲鳴を上げながら一目散で元の道を戻った。玄関前に出ると扉を勢いよく閉めて、半狂乱のまま横にあった靴箱で扉を塞ぐ。
肩で息をするも、不安は消えず。俺は靴を脱ぐのも忘れて、自分の部屋へ戻った。
そして、入り口でうずくまると、絨毯の上に胃の中身をぶち撒けた。酸っぱい臭いが口と鼻を蹂躙していく。その衝動のまま、何度も。胃液しか出なくなった後も、ずっと。
収まってからは、ふらりと布団の中へ。隠れるように布団を覆いかぶさった俺は、目を閉じて眠りについた。震える手足を抑えきれず、力尽きるまで死の恐怖に怯えたまま、ずっと。
―――そうして、黒烏迅の1月1日は終わった。
リビングの中では、炬燵の上に放置されていた機械が光り始めた。
2日に日付が変わった途端に、ある情報が発信された。
1日目、ダンジョンクリア数500万。
残存人類:50億→45億。