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物騒シリーズ

幻影都市線直通、急行電車です。-次は、考えたくもない過去に停まります。-


 人間の羊。


 1958年に小説家の大江健三郎が発表した小説で「主人公の恥辱にまみれた隠し事を見た教師がこれを明るみに出すためにストーキングする」という物騒な話だ。


 性犯罪を想像してもらえると話が早いのだけれど、被害者には時に被害に遭ったことを知られたくないという心理が働く。


 内々に秘密にして、無かったことにしたくなる。

 誰だって、自分が(はずかし)められたことを知られたくはないからだ。


 でも、どんな犯罪も知られなければ罰されない。

 となれば罰されないことに憤る者も、当然出てくる。


 犯罪行為を許さない正義の味方は、時に被害者すら逃がさない。


 そういうやつらはいつだって、正しい顔してこう言うのだ。


 正義を成そう。

 その為に犠牲の羊になってくれ、と。




 がらんとした電車内に、洋装の男が座っている。


 男はまるで大正時代から抜け出してきたような雰囲気で、どことなく古めかしい。

 近代的なディスプレイつきの電車の中では、余計に奇妙だった。


 車内にいるのはわたしと、この男だけだ。

 他には誰もいない。


 窓が、ガタガタと不気味に揺れる。

 わたしが視線を逸らすと、車掌のアナウンスが聞こえてきた。


「こちらは幻影都市線直通、急行電車です。次は、考えたくもない過去に止まります。」

「この先、現実には止まりませんのでご注意ください。」


 考えたくもない過去? 現実に止まらない?


 何か変だと思っていると、向かいの男が話しかけてきた。

 電車内だというのに、深く帽子をかぶっている。


 ――失礼ですが、幻影都市まで行かれるのですか?


 いや、そんな予定はないよ。

 幻影都市というのがどういうものかも、わからないし。


 あれ、わたしはどこに向かっているのだろう。


 ――考えたくもない過去の先は、もうどこにも止まりませんよ。幻影都市まで一直線です。


 本当は考えたくもない過去で降りる予定だったのでは?


 そう続ける男に、わたしは食ってかかった。


 そんなことはありません。

 考えたくない過去なんて見たことも聞いたこともないし。

 知らないし、知りたくもありません。


 それに、そんなところで降りるなんて嫌です。

 きっと、暗くてじめじめしていて、空気の悪いところに違いありません。行ったことはないですけど。


 なぜこんなにも躍起になっているのか、自分でもわからない。

 わたしは何もわからないのに、男の方は頷いている。納得しているようだった。


 ――考えたくもない過去だから、忘れたふりをしているのではないでしょうか。君は忘れるのがとても上手なんだな。あんまり上手すぎて、忘れたことすら忘れているんだ。


 そんな言いがかりを言われても困ります。それに忘れてしまっているものを、どう思い出せって言うんですか。


 男はそれなら簡単だと言う。簡単なことだと。


 思い出したくもない過去で降りたら何が起こるか、想像するといいのだそうだ。作り話をするつもりで人に話せば、少しずつ思い出してくるらしい。


 もちろん、話したくないなら話さなくてもいい。

 幻影都市だっていいところだよ。


 そんなことを言っていた。


 この男に関わると面倒なことになりそうだ。

 どうしよう、このまま無視してやり過ごそうか。


 そう思って、ふと窓を見る。

 明かりもなく、町並みもなく、ただ黒いゆらぎが後ろへ後ろへと流れていた。


 電車はただひたすらに、闇の中を突き抜けていく。


 このまま幻影都市まで行ったら、わたしはどうなるのだろう。

 そもそも、わたしはなぜこの電車に乗っている?


 男に言われたことを思い出す。


 わたしは弱みを突かれそうだから、嘘を吐いてごまかそうとしているのではないだろうか。


 そうやってごまかしてきたから、ごまかし続けてきたから、何も思い出せなくなって、この電車に乗っているのではなかったか。


 この電車はもう、現実には止まらない。

 なら、恥も何もないだろう。


「わかったよ、わかりました。話せばいいんでしょう。話せば。」

「一応言っておきますが、これは作り話ですよ。」


 わたしの言葉を聞いて、洋装の男はにこりと笑った。




 小学校。

 そうだ、小学校だ。


 その駅で降りた先には小学校があって。

 ちょうど五年生が始まった教室に転校生が来るんだ。


 え、過去形にしろって?

 わかったよ、転校生がきた。これでいい?


 名前は……Kにしようか。


 作り話だから、名前とかないんだよ。

 だから、ひとまずKってことにしとく。


 さて、クラス替えの直後はみんな緊張するものだけど、Kの緊張は尋常じゃなかった。


 覚悟と期待みたいなものが滲んでいて、この時点でちょっと浮いていたんだけど、転校生として挨拶をする時に完全に浮いた。


 Kは特殊な事情で学校に通えなかったらしい。

 だからひとりだけ小学校低学年向けの勉強をすることになるのだそうだ。


 だからといって仲間はずれにしないように。なんてことを言っていた。


 好奇の目がKに向いたよ。

 特殊な事情って何? なんで学校に通わなかったの? 


 聞いてはいけないとわかっていても、皆こっそり聞きたがる。


 でも、Kは答えなかった。

 クラスメイトのうちの何人かは、なんだよあいつとぼやいていたけれど。今思えば、あれは正解だったな。


 わたしも実際に何があったかは知らないのだけど、誰かに話せばネタにされて、もっとひどいことになっただろう。


 もっとひどいことになったのはなんて言ったけれど、普通にひどいことにはなっていたよ。


 当たり前だよね。

 だって、普通じゃないもの。


 五年生なのに三年生用のテキストを開いて、授業は聞かずに黙々と先生から出された宿題をこなしていくところをみたら。やんちゃな男子じゃなくたって、いじめたくなる。


 だから、わたしが守った。

 

 近づく者に噛みついて、何かされればやり返し。

 先生に告げ口し、狼藉者は終わりの会で学級裁判にかけた。


 勉強を教えると喜んでくれてさ。ああ、思い出してきた。あんまり喜んでくれるから、わたしも楽しくなっちゃったんだ。


 わたし自身、大して頭がいいほうではなかったから。わたしが覚えたことが誰かの役に立てるなんて思ってもいなかったんだよね。


 わたしよりもダメで、弱そうな子がいる。

 そんなの初めてだった。


 誰よりも何よりも弱いKを助けて、守ってあげるのはとても楽しかった。なんだか自分がとても強くて高潔な人間になったような気がするんだ。


 先生にも褒めてもらえるし。Kにも感謝される。

 父さんなんて「偉いぞ、正義の味方だな」ってケーキを買ってくれることもあった。


 Kはね、わたしの後ろをついてくるんだ。

 道に迷ったら大変だから。


 Kがおかしなことをしたら、わたしが説明してあげるんだ。

 みんなはKの事情を知らないから。


 わからないことがあったら、わたしが教えてあげるんだ。

 なんせ、わたしはKの何年も先を行っている。Kがわからないことも、わたしならだいたいわかるから。


 そうだ。わたしはKのことが大好きだったんだ。


 誰よりも、何よりも弱いから。

 弱くて、可愛そうだから。


 愚かだよね。

 そんなだからある日、Kに怒られた。


「勝手に人に話したり、怒ったり、謝ったりしないで。それはわたしがやることだから。」


 だったかな、思い出すと胸が痛いよ。

 なんていうか、芯が強い子だったんだよね。とても賢い子だった。


 でも、当時のわたしには意味がわからなかった。

 たくさん守ってあげたのに、なんでって思った。


 その上、別の中学に行くって言うんだ。


 この前までかけ算九九もできなかったのに、中高一貫校の試験を受けたいなんて、普通に考えて無理だもの。


 だって、すごく頭良い人が行くところだ。わたしだって合格できないとこだよ。

 どうせ落ちて傷つくって決まっているのに、Kは行くって言うんだ。


 その為に勉強を教えてって。

 教えてくれないなら、別の人に頼むって。


 でも、そんなのずるいよ。

 ずっと一緒にいられると思ったのに、わたしたち離ればなれになるじゃん。


 なんで悲しい思いをするために頑張らなきゃならないの?


 なんで? わたしのこと嫌いになったの?


 笑っちゃうよね。

 わたしはKを大切にしているようで、自分の為に利用していたんだ。


 ちなみにKは物凄い勢いで勉強の遅れを取り戻して、無事に埼玉の中高一貫校に合格した。


 わたしも同じとこ受けたけど落ちたよ。物凄く悔しかった。



 さて、本題はここからでね。

 埼玉にある中高一貫校に落ちたわたしは地元の中学へ進学したんだ。


 一年目は普通の学生生活を送れたんだけど。二年目がひどかった。


 猛烈にいじめられたんだ。

 なんかとてもどうでもいいことで(なじ)られたり、体育の時にハブられたり、トイレで水をかけられたりした。


 始まりはとても些細なことだったんだけど、もう覚えていない。


 あ、主犯格だった奴の名前は死んでも忘れないよ。水沢、あの女は末代まで祟る、呪われてしまえ。


 あの女はわたしに自殺を強要したからな。


 しかも、あれがきっかけになってクラスでカッター送りつけて「自殺しろ」って詰るのが流行ったし。元はと言えば全部あいつのせいだ。ふざけんな。


 そしてもう一人、絶対に許せないのはわたしの父親だ。

 あいつは……あいつだけは許さない。水沢は呪われて苦しむだけ苦しんだら許してやってもいいけれど、父さんだけは永遠に許さない。



 え、父さんが何をしたかだって?

 あいつは、わたしから逃げ場を奪ったんだ。


 娘が傷つけられて平気な親はいない。

 お前も辛いだろうが、いじめに屈するな、絶対に正義は勝つ。


 お前が辛いように、俺も辛いのだ。

 こんなことは絶対に間違っている、一緒に耐え忍んで、裁判で勝とう。


 なんて事を言い出した。

 いやいや、わたしは戦いたくなんかなかったんだ。


 言いたいことはわかるよ? あいつらがやってることはいじめっていうか普通に犯罪だし、本来なら逮捕されてもおかしくないことをやっていた。



 でも、どうやっても止まらないんだから。諦めたらよかったんだ。

 泣き寝入りして、不登校児にでもなればよかった。


 そもそも自殺を強要してくるようなクラスに通わせるとか、どう考えてもおかしいだろ。無法地帯なんだぞ。


 でも、父さんは諦めなかった。

 裁判で証拠に使うのだと、わたしがリストカットにつかったカッターを集めては怒りに燃えていた。


 反対にわたしの心は冷めていた。

 なぜ、この人はこんなに怒っているのだろうとすら思った。


 父さんは世間の声を利用するのだと、わたしの身に起こっていることを言いふらして回った。とんでもないことをする。そんなことをされたら、買い物にも行けなくなる。


 わたしは反対したし、止めたけれど、父さんは聞く耳持たなかった。


 お前を守ってやってるのに。何が不満なんだ。

 父さんは正しいことをしているだろう?


 ああ、ああ正しいだろうね。

 でもそんなこと、わたしは望んじゃいない。


 正しいから何なの? 近所中で噂になったよ。

 みんなひそひそと噂をするばかりで、それ以上何もしないけど。


 もう止めようよ。

 わたしみたいな奴なんて、みんな関わり合いたくないんだよ。


 ひそひそ声が聞こえる外になんて出たくなかった、いじめられる学校にも行きたくない。

 でも、家に帰れば父さんがしつこく話しかけてくる。


 調子はどうだ?

 苦しくないか?

 何でも話してくれ。


 俺達は家族なんだから。



 この世のどこにも居場所なんてなかった。

 だから誰かに話しかけられても、すぐに嘘を吐いてごまかすようになった。


 吐かなくてもいい嘘をつくんだ。

 嘘を嘘で塗り固めると、心が落ち着くんだよ。

 無害な羊のフリをして、自分の心をうまく守れているような気がする。


 水沢にはメェメェと羊みたいに鳴くね、なんて嫌味を言われても嘘を吐き続けていれば少しはマシだった。


 虚言癖が様になってくると、もう自分が何者なのかもわからなくなってくるんだ。


 それがとても心地よくて、何でも無い誰かになれたような気がして、自分自身をなかったことにできたみたいで、ひどく落ち着くんだよ。


 いじめはどんどんエスカレートしていくのに、わたしが抵抗しないもんだから、みんな面白がって、もっとひどいことをするようになる。


 でも、気にしなかった。

 もうどうにでもなーれ、みたいな。

 いっそ、何かの手違いで殺して欲しかった。


 ああ、思い出した。

 狂ってくると、狂った奴が集まるものでさ。

 この頃に変なおっさんに会ったんだ。


 自分は作家だと言って、大江健三郎の人間の羊という小説を無理矢理読ませようとするんだ「これが君の未来だ、いやもっとひどいことになるな。」ってね。今思えばヤバイやつだよね。


 あの時のわたしは同じくらいヤバかったから、全然気づかなかったけど完全に狂人だわ。確か……。


「これよりひどいんじゃ、わたし死んじゃうね。」

「そりゃあそうだろうな。ひどい死に方をするだろう。」


「じゃあ、わたしが死んだら、わたしのことを書いてよ。好きに使って良いからさ。」

「……その願い、確かに(うけたまわ)りました。」


 みたいな会話をしたような気がする。

 なんとなく、虎っぽいおっさんだったな。


 絶対に顔には出さないけれど、常に何かに怒っているみたいだった。だから、虎っぽいのかもしれない。



 それからしばらくして、虎の予言は見事に的中することになる。


 父さんが、資料を集め終えたから裁判をやると言い出したんだ。その為に本人からこれまで起こったことを全部話す必要があると、そう言うんだ。


 冗談でしょ。

 これまで起こったことを全部、説明する? わたしが?


 そんなことをして、心が保つわけがない。

 その後、どんな顔をして学校に通えというのだろう。

 猛烈にいじめられるに決まっている。


 何も悪いことをしていないんだから胸を張れ?

 むしろ、悪いのはあいつらの方だ?


 はは、ご立派ですね。

 忌々(いまいま)しいくらい、ご立派だ。


 その燃えるような瞳に映っているのは父さんの娘なんだろうけど。それはわたしなんかじゃあなさそうだった。


 わかるよ、父さん。

 正義の味方は楽しいよね。


 わたしもKに同じ事をしたんだ。


 帰りの会の学級裁判でみんなを味方につけるために、Kに内緒にしてねと言われたことを話した。同情を買えたよ。とても効果があった。


 味をしめたわたしは、よそのクラスにも言いふらして回るようになった。そうすることでKを守ってやっているのだと、そう思っていた。


 Kが嫌がっても照れているだけだと思っていたし、Kはわたしのことが好きで好きで仕方ないと思っていたし、口では嫌がりながらもわたしについてきてくれるのがその証拠だと思っていた。


 でも、今ならわかる。

 実際にはそうじゃなかった。

 

 Kには選択肢がなかったんだ。

 正確には、わたしに可能性を潰されていた。


 わたしだけを好きでいてくれるように、Kが誰かと仲良くする度に拗ねてみせたし。なんなら露骨にいじわるをしたこともある。


 わたしよりも賢くならないように、勉強を教える時に手を抜いたりもした。


 わたしがいないと困ることを理解させるために、適当な場所に置き去りにしたこともあった。


 それでもKがわたしについてきたのは、初めてできた友達だからだ。

 学校に希望を抱いてやってきた少女が、初めて手にした関係性だったからだ。


 わたしはそれを利用した。



 父さんもそうだよ。


 わたしの可能性(じんせい)は、父さんに潰されたんだ。

 

 こっちの気持ちを無視して、勝手に怒って、人に話して、話を大きくして、そんなにプライドが傷ついたの?


 いじめに負けて娘が不登校になるなんて、恥ずかしかった? 父さんを信じろなんてよく言えたね。


 転校する方法があると教えると逃げようとするから、わざと黙っていたでしょう?


 協力しないならごはんはなしって、虐待じゃないの? 体重、どれだけ減ったか見せてあげようか?


 

 それでもわたしがついてきたのは、あんたが世界でただ一人の父さんだからだ。


 ずっとずっと大好きだった。かけがえのない家族だったからだ。

 

 

 正義の味方は楽しかった?

 血走った目でわたしを見る父さんはまるで悪者みたいだったよ。


 性的な被害に遭っていたことは黙っていたのに、それすら公表するつもりなんだ。どこで嗅ぎつけてきたのかな?



 父さんは、本当に娘が大切なんだね。

 たった二人の家族だもの、そりゃあ大切だよね。


 母さんと妹はあんたが殴ったから出て行っちゃったもんね。


 

 

 風と闇を突き抜けて、電車が進んでいく。

 車掌さんのアナウンスが聞こえてくる、次の停車駅は「考えたくもない過去」だそうだ。


 大正時代から抜け出してきたような、西洋風の服装の男は、わたしの話に聞き入っていた。


 もうあらかた話し終えたけれど、締めは必要だろう。

 とてもよくある、ありきたりな言葉を、わたしは言う。

 

 そうして、わたしは自殺した。

 考えてみれば逃げ場はあったんだよね。


 死ねばよかったんだ。簡単なことだった。

 なんでこんなになるまで気づかなかったんだろう。


 わたしが両腕を見ると、カッターで切った痕があった。

 見るに堪えない、無残な身体だ。こんなことをしても死ねないことなんてわかっているのに、繰り返した。傷と傷が重なり合って、数え切れなくなるほどに。

 

 ――そうか、君はここに逃げてきたんだね。


 そうだよ、だから今更生き返れとか前向きなこと言わないでよね。

 後悔がないわけではないけど、もう何もかも今更なんだから。


 この男はおそらくは地獄の水先案内人みたいな存在なのだろう。

 きっと、若いんだからもう少し生きたらどうだとか、そういうことを言うのだ。


 電車がゆっくりと減速して「考えたくもない過去」に停まる。


 男が言うには、この電車が現実に停まることはないけれど、考えたくもない過去で降りて、しばらく歩けば現実に辿り着けるらしい。


 降りた先で起こる出来事を考えて、現実まで歩いた後の生活に思いを馳せてみる。吐き気がした。死んだ方がマシだ。はは、わたしの人生詰みすぎ。欠片も救いがない。



 世界は綺麗事だけでできてはいないのだ。

 たとえ戻っても、すぐに自殺することになるだろう。



 ――心はもう決まっているようだね。



 男がそう言うと、車掌のアナウンスが流れた。

 電車が走り出すのだ。


 この時代錯誤な格好をした男はわたしを止めなかった。

 父さんのように、現実と戦わせようとはしなかった。


 生きていればそのうち良いことがあるだとか。

 辛いのは今だけで、いつか全部思い出になるだとか。

 みんなが悲しむだとか、命を大切にした方がいいだとか。


 そういう綺麗事を一切言わなかった。

 自分自身を(ないがし)ろにして、ボロボロになった、どうしようもないわたしが死を選ぶことを否定しなかった。



 きっと、この男もまた。死んでいる最中なのだろう。

 だから生者のように死にゆく人を引き留めたりはしない。


 ただ、そこにある影のように接してくれる。


 生者にはできない優しさだ。


 この男にもどうしようもない何かが、考えたくもない過去があったのだろうか。

 そんなことを考えていると、車掌のアナウンスが聞こえてきた。



 こちらは幻影都市線直通、急行電車です。次は幻影都市、幻影都市に停まります。


 この先、現実には停まりませんのでご注意ください。


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― 新着の感想 ―
[一言] え、いや……、まさか そうだとしたら文章だけでわかるってすごいですね 絡み合ってすごいです まだ気づいて無さそうなところもあるので過去作読み直してきます 文章も面白いですが細かなところもす…
[一言] 一気に読めました。とてもヘビーな内容なのにこの世界観、引き込まれます。羊人間も好きですがこちらの作品もとても好きです。 洋装の男、謎めいてますがとても魅力的に感じました。
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