秋の弐 イクラの醤油漬け
「筋子?イクラだよな?」
スーパーで買い物をしていて、魚売り場で見た物体に疑問をぶつける。イクラがタラコのように塊になった物体だった。ちょっとグロい。
「これの粒々を解して一個ずつにしたやつがイクラだよ!」
「あ、えっ!?すみません。ありがとうございます……」
ビクターの疑問の呟きが聞こえたのか、すぐ隣に立っていた見知らぬ買い物客のオバちゃんが答えてくれた。
ビクターは恐縮しつつも、オバちゃんの気さくさと、顔見知りでない大男に平気で対応する胆力に感動を覚えた。
オバちゃんはにっこり笑うと、去っていく。
ビクターは軽く頭を下げながら、せっかく教えてもらったんだからと、スマホで目の前の物体の解し方を調べてやれるようならやってみようと考えていた。
「さて、簡単だったらいいな」
魚売り場を離れ、邪魔にならない場所に行ってスマホで調べ始める。
「ふむふむ。割と簡単そうだなぁ。お!余裕で三か月は冷凍保存できるのか。正月にいいなぁ」
調べながら、買う方向に考えは定まっていく。
気付いた時にはビクターは筋子のパックを買い物かごに入れていた。
ビクターが昔いた世界では新鮮な海の魚は海辺の場所くらいでしか食べられない。
内陸部では淡水魚か、塩漬けにされた魚くらいだ。
さらに、内臓は寄生虫のリスクが高いと考えられていたことと、グロテスクな見た目で捨てられていた。
漁村では食べられていたようだが、悪食扱いだった。
そのため、ビクターが魚卵などを食べたのはこの世界に来てからだった。
今では好きな方に入る食材だが、イクラなどは値段も高いため普段はタラコくらいしか食べない。
それが大量に安く手に入るチャンスを逃すわけにいかない。
「さて」
帰宅して、さっそく調理を始める。
魚関係の処理は早いほどいい。
「えーと……まずは四十度のお湯か。お風呂くらいの温度だよな」
ビクターはスマホで下処理の仕方を調べながら呟いた。
家には温度を測れるものは体温計くらいしかない。
四十度なら測れるだろうが、そこまで厳密に図る必要ないだろうと、給湯器のお湯に手を浸けて温度を見るだけにした。
「塩を少し入れるのか。それから、膜の切れ目から裏返すようにして解していくのか」
お湯に塩を入れてから、筋子をお湯の中に浸ける。
手順通りに切れ目から裏返して、粒を扱くようにして外していく。
「意外と丈夫って書いてあるけど、本当に簡単にはつぶれないんだな」
最初は粒が潰れないか恐々やっていたが、だんだんと指の動きは大胆になっていった。
取り除けた膜は三角コーナーに捨て、全部解せたところで一度ザルに移す。
「白っぽくなっても問題ないと書いてあるけど……ちょっと不安。大丈夫なんだろうけど」
白っぽくなった粒に不安げに表情をゆがめた。
ビクターの知っているイクラは透き通るようなキラキラとしたものだ。それが白く濁った色になってるのだから正しく処理できてるのか不安になるのは仕方ない。
「お湯を入れ替えて、もう一度丁寧に残った筋や膜を取り除いて……細かい作業だなぁ」
背中を丸めてする細かい作業に愚痴っぽくなるが、見た目や味のためと丁寧に進めていく。
もう一度、お湯を入れ替え、目に見える限りの筋や膜の残りを取り除いていった。
「よし、大丈夫だろう。たぶん。だよな?」
初めてやる作業に、不安は拭い切れない。
「ザルにあけて、しばらく水を切るのか。それから漬ける調味料を……あっ、調味料合わせて煮切らないといけないじゃん。冷ます時間を考えて先にやっておけばよかった……」
調味料に味醂と酒を使うため、アルコールを飛ばすため一度火を入れないといけない。
そうなると冷ます時間が必要になるため先にやっておけば良かったと後悔する。
初めての作業でネットレシピに書いてある手順通り進めていたために起こった、ありがちな失敗だ。
しかし時間がかかるだけで致命的でも何でもないため、ビクターは気を取り直して作業を進めた。
小鍋に酒と醤油と味醂を入れる。
レシピでは大さじでのちゃんとした分量が書かれているが、ビクターの家にある計量できるものは秤と計量カップくらいだ。
どうぜ筋子自体の重量のばらつきもあるわけだし、比率さえ合っていればOKだろうと、比率だけ合わせることにした。
レシピでは酒と味醂と醤油すべて同量だから分かりやすい。
それを火にかけ、小さくふつふつとなる程度に軽く沸騰させながら数分煮詰めてアルコールを飛ばす。
冷めるのを待つ間に、使った道具を洗い始めた。
ついでに糠漬けを出したり色々してから。
「もういいかな?」
タイミングを見て調味料を容器に移し、水を切っていた解した筋子……イクラを入れた。
「このまま半日か。夕食の時間までだとちょっと短いかもしれないけど食べられるな」
容器にラップをかけ、期待しながら冷蔵庫に入れた。
夜になり、さっそく食べるために容器を取り出す。
「色が、俺が知ってるより濃いような感じはするけど……白っぽいのはなくなったな」
見た目に問題ないのを確認してからザルにあけて、調味料からイクラを出してみる。
「やっぱり、色が濃い気がする。まあ、いいか。初めて作ったんだし」
何かが違うように感じつつも、とりあえず食べてみるしかない。スプーンで味見用に少しだけ掬って口に放り込んだ。
「……ん。やっぱりちょっと醤油味が濃すぎる気が?というか、味醂の味がいらなかったなぁ。醤油と酒だけで、醤油の量も減らした方が好みに近づきそう?」
少し不満げながらも味の分析をしていく。ネットレシピ通りに作ったため、ビクターの好みとは少しずれているようだ。
「というか、塩漬けイクラにしたほうがいいのかな?醤油なら食べるときにかけて食べればいいだけだしなぁ。でも、まあ、これはこれで美味いし初めて作ったんだからとりあえずの成功は喜ぼう!」
見た目も味も基本的には問題ないため、とりあえずは成功だろう。
ビクターは軽く頷くと、今日食べる分だけ小鉢に入れて残りを小さな保存パックに小分けして冷凍した。
「やっぱり、イクラだと日本酒しか合わないよな、うん」
自分に言い訳しつつ、自分の腹に手をやる。
軽く摘まむと、柔らかい手ごたえが返ってきた。
前の世界にいた時は皮膚が摘まめるだけでこん柔らかさはなかった。
海の魚の、しかも悪食しか食べないと思われていたものを食べることもなかった。
いつも殺伐とした雰囲気をまとっていたため、気楽に人に、特に女子供に話しかけられることはなかった。
自分は色々変わったなと、ビクターは柔らかな笑みを浮かべるのだった。