冬の弐 自家製ポン酢醤油と湯豆腐
正月明けの直売所の仕事始めの日には、ビクターにとってちょっとした楽しみがある。
「ビクター君、今年もいっぱいあるよ!」
直売所で働いている中年女性が見せてくれたのは、段ボール箱いっぱいの#橙__だいだい__#だ。
鏡餅の上に載せたり、しめ縄に飾ってあったりするミカンの一種である。
年末には一個百円~百五十円くらいの値段で売られているが、正月を過ぎると一気に価値が暴落する。
去年の年始は五~六個入った袋で百円で売られていた。年末需要恐るべしだ。
「今年は一袋五十円だって」
去年売れ残っていたので、今年はさらに値段が下がったらしい。
「二袋買います」
ビクターは即答していた。
この橙、そのまま食べるわけではない。
かなり酸味が強く、そのまま食べるには適さない。
ビクターが働いている直売所でも年明けになると『入浴剤に』と書いて売っているくらいだ。
ただ、その酸味の強さが生かされるものがある。
ポン酢醤油だ。
手作りの場合、この橙の絞り汁がポン酢醤油に最適とされていた。
「ポン酢、ポン酢♪柚子も入れてー♪」
昼には仕事を終わらせて家に帰ってから、ビクターはシッポをフリフリ妙な歌を口ずさんでいた。
浮かれまくっている。
自室で誰にも見られていないからこその痴態だが、その姿を他人に見られたならビクターは恥ずかしさに真っ赤になることだろう。
一応、ガラスボウルを準備する。
橙を絞るのだが、お酢並みに酸味が強く金属のボウルだと腐食が心配だからだ。
種を分けるためにザルを重ね、そこに半切りにした橙を絞っていく。
ビクターは獣人の中でも握力が強いので、皮まで押しつぶして苦い汁まで入らないように、慎重に果汁だけを絞りだしていった。
橙は皮も厚く硬いため、普通の人間なら逆に力いっぱい絞って丁度良いくらいだろう。
買ってきた橙、二袋分十個を全部絞り、香りづけに柚子も数個絞ると、その果汁を計量する。
基本的に目分量主義で大さじ小さじなどは持っていないが、計量カップは持っているビクターである。ちなみに秤も一応持っている。
果汁は全部で六百ミリリットルもあった。
「やりすぎ?四合瓶二本くらいできるじゃん」
自家製ポン酢醤油の果汁と醤油の配合比は、果汁一に対して濃い口醤油一・五だ。合計で一・五リットルくらいになる。
「まあ、いいか。最悪配ればいいし」
全部絞ってから後悔するが、もう作るしかない。
余りそうなら欲しい人に配ってしまえばいいかと、一人納得した。
六百の果汁に対して九百の濃い口醤油を入れ、そこにキッチンハサミで細かく切った出汁昆布と花かつお(削り節)をたっぷりと一掴み入れる。
以上だ。
そのまま二日間放置して濾せば自家製ポン酢醤油の完成である。
一週間くらいは味を馴染ませた方がいいらしいが、二日でもぜんぜん使用に問題はない。
できたポン酢醤油は冷蔵庫に入れておけば日持ちするが、いつまで持つかはビクター自身にも謎だ。
ビクターの場合は去年は一月に作ったポン酢醤油を八月に無くなるまで使っていたが、問題はなかった。
そして、二日後。
「ポン酢と言えば、鍋。ポン酢の味が一番分かるのは湯豆腐だよな」
と言うわけで、二日後の夜にビクターは湯豆腐を作ることにした。
出汁は昆布出汁。
土鍋に水を張り、朝から出汁昆布を浸けてある。
鍋と言えば土鍋だと、ビクターは変なところでこだわりを持っていた。
そして土鍋を使うからには電磁調理器は使えないため、今日はカセットコンロを準備している。
前の世界では海とはほとんど縁のない生活をしていたため、ビクターが昆布を知ったのもこの世界に来てからだった。
前の世界にもあったのかもしれないが、少なくともビクターや、ビクターの知る落ちてきた同郷人たちは知らなかった。
そのため最初は昆布の独特の香りや味に若干の抵抗があったのだった。
そして、豆腐。
これももちろんこの世界に来てから初めて食べたものだ。
前の世界では戦闘に明け暮れ、身体を動かすためにとにかく力になりやすく腹に溜まるものを選んで食べていた。
そんなビクターには豆腐は腹にも溜まらず、味も薄く、歯ごたえもない何の意味があって食べるのか分からないような食べ物だった。
さらにポン酢醤油も、酸味のある食べ物は腐敗した危険なものだという認識があったため、前の世界では口にしなかっただろう。
要するに、湯豆腐は前の世界のビクターであれば絶対に自分から口にしない食べ物だった。
「沸騰したら、豆腐と野菜を入れてさらに煮込む……」
湯豆腐はこの世界の、日本の食事に洗脳……感化され、飼い慣らされ……馴染んだ成果の集合体と言ってもいいだろう。
「よし、煮えた。湯豆腐には日本酒!」
湯豆腐に付けるのはもちろんポン酢醤油。
柚子胡椒を入れたものと、七味唐辛子を入れたものと微妙に味を変えて二つ用意している。
ハフハフと熱さを楽しみながら豆腐を口に入れると、豆腐の味とともに少し濃く、しっかりとした旨味のポン酢醤油の味が口の中に広がる。
そこに日本酒を流し込み、ビクターは幸せそうに微笑んだ。
「やっぱり、冬は鍋だよな」
すっかり日本人としか思えない感想を、ビクターはこぼすのだった。