子どもだって、いつかは大人になる(承)
「ピー……ピー……」
鳴き声の方へと視線を向けると、黄色と緑の混じったような鮮やかな色の小鳥が籠の中をちょこちょこと跳ねているのを見付けた。
こんな綺麗な小鳥を飼っていられるなんて、なんて贅沢なのだろう。
部屋は狭いし荒れているけれど、散らばっている衣服の量やその小鳥の存在で、部屋の持ち主がとても裕福であることが分かった。
それにしても、何度も首を傾げながら、ちりちりと動く小鳥は愛らしい。
もっと良く見たい、と思ったら、思った瞬間に私の身体は小鳥の目の前にあった。
くりくりとした瞳が、忙しなく部屋のあちこちへ向けられる。
(今のそなたは精神だけの存在)
(思うことがそのままに実現されるのじゃ)
手を繋いだままの魔王――女の子の姿をした国王レーゲンボーゲン陛下が、そっと私に囁く。
私は籠の中の小鳥に向けて指先を伸ばし――伸ばした指が、籠を擦り抜けるのを見て、慌てて手を引いた。
(そなたはここに居るが、本当には存在しない。触れることは出来ぬのじゃ)
ここに居るけれど、居ないもの。
今の私はそういう存在、ということらしい。
確かに、私自身、何やら不思議な心地がしている。
ただ、魔王と繋いだ手だけがはっきりとしていて、まるで私、物語に出てくる幽霊のよう。
ここに居るけれど、居ないもの。
ピーピーと鳴き続けていた小鳥が、ふと、言葉のようなものを喋り始める。
「ポツィっ……ポーチっ……ポチ、エサダヨー……」
今、ぽち、と呼んだ気がする。
では、この子は――この子が、ぽちなのだろうか。
タクトが自分の世界に置いてきてしまったと言う……せき、せきせ……せきせいんこ?
ならば、ここは。
この部屋は――
(そうじゃ。ここが、勇者の部屋ぞ)
タクトの部屋。
そう思うと、荒れた様子が胸に迫ってきた。
タクトは異世界で1人ぼっちだったと言っていたのを思い出した。
耳をすますと、扉の向こうから声が聞こえてくる。
タクトのご家族だろうか。
(行くか? 今のそなたには物理的な壁も言葉の壁もない。誰にも見えず、存在しているが存在しない。行こうと思い、理解しようと思えばそれだけで――)
――思った次の瞬間には、私は何やら狭い廊下のようなところにいた。
廊下には簡素な――しかし上等な布で出来た――衣服を纏った女性がいる。
その向こう、一段下がった扉の前に、差し込む光を背にした少女が女性に対面するように立っていた。膝上までの上衣1枚しか着ておらず、こちらも簡素な服装であると思えるが、その布の光沢は素晴らしい。私たちの常識では図り得ない世界なのだろう、ここは。
突然現れた私と魔王の姿など見えもしないように、2人は言い争いを続けている。
「――お兄ちゃんが、わたしに言わずにどっかに行っちゃう訳がないもん!」
「そう言われてもね。現実に、部屋にいないんだから仕方ないじゃない。わたしの方がどこに行ったか知りたいくらいよ。でもまあ、男の子だから一晩くらい帰って来なくっても……拓斗はちょっと変わってるし」
会話を聞くに、この女性がタクトの義母様、少女の方は……タクトを「お兄ちゃん」と呼ぶなら、妹姫、だろうか?
ため息をつく女性の横に立ち、私は少女の顔を覗き込んだ。
近づけば、その顔立ちに何やら見覚えがあるような気がする――
(そうじゃな。良く似ておる)
ふわふわとした巻毛は、あくまでも薄い茶色だけれど、日に透けたところは金に輝いているようにも見える。
瞳は濃い茶色で、緑の深いあの色とは違うけれど、おっとりと目尻の垂れた感じがする。
怒っているけれど、何だか人好きのする明るい感じが漂っていて。
まるで。
(リヒト上級神官の妹姫、シャッツに似た顔立ちをしておる)
それに気付いた途端、私はシャッツに対するタクトの態度を思い出した。
普段だったら決してしないようなアレやコレ。
まるでその時間を守るような、優しい視線。
にこにこと機嫌よく対応して見せる心の奥で、タクトがシャッツの笑顔に何を見ていたのか――
私が妹姫の顔に見入っている内に、彼女は靴を脱ぎ、ずかずかと廊下に上がってきた。
女性の横――私の身体をすり抜けて通る。
すり抜けられた時にも、私自身は痛くも何ともなくて、自分の幽霊感が増すだけだ。
「おばさんと話してても埒が明かないよ……お邪魔します!」
「ちょっと……あの人の娘だからって、他人の家に勝手に入らないで!」
「お父さんはどこ? これは緊急事態なの!」
止めようとした女性の腕を避け、真っ直ぐに廊下を駆けていった。
手を繋いだまま、私と魔王も彼女を追いかける。
妹姫は狭くて短い階段を上り、すぐに見える扉を開いた。
「お兄ちゃん!? 拓斗お兄ちゃん! ……あっポチ!」
「ポーチっ……ピュイッ」
部屋の隅に置かれた鳥籠――小鳥のぽちの方へと駆け寄り、中を覗き込む。
「――ヒドい! ポチの餌が全然ないよ!」
「もう、勝手に入らないで。拓斗に怒られるのはわたしなんだから」
「おばさん、何でポチに餌をあげてないの!?」
「ポチ? 何よ、拓斗ったら鳥なんて飼ってたの?」
追いかけてきた女性は、不思議そうに部屋の中を見回した。
「お兄ちゃんが、ポチに餌もあげないで出ていくなんて、やっぱりおかしい!」
「そんなことわたしに言われても知らないってば。家の中にいると思ったら、いつの間にかいなかったんだから」
「わたしのメールに返事しないのもおかしいし、絶対何か事件に巻き込まれたんだよ! お父さんに言って、警察に連絡しなきゃ……」
「たった一晩で大げさなのよ! いないって分かったんだから納得したでしょ。警察なんてそんな大事にするのはやめなさい、早く帰って!」
ポチを籠ごと抱いた少女が、じろりと女性を睨みつける。
「おばさんは、お兄ちゃんのことなんか心配じゃないのね!」
「心配しようにも、あの子の方がわたしに懐かないんだもの!」
「おい、うるさいぞ。何やってるんだ」
男性の声が、部屋の外から聞こえてきた。
途端に、籠を抱えた少女がそちらへ走る。
「お父さん! お兄ちゃんが……!」
「おっ、おい……お前何でここにいるんだ?」
「あなた。この子ったら勝手に家に入ってくるのよ!? どういう躾をされてるのかしら……」
「お母さんの悪口言わないで!」
喧嘩する2人の大人と少女の姿を、見ているのが辛くなった。
私はタクトのことを知っているから、どうしても妹姫の肩を持ちたくなってしまうけれど。
本当は、多分、そんな単純な話ではないのだろう。
どこかに悪人がいるのではなくて、色んなことが入り混じってるのだ。
正しいとか、間違ってるとかじゃない。
私が――エリートのはずの私が、その膨大な精霊知識を大人から褒められる私が、かくあれかしと願われた通りに育ったはずの私が、同年代の子たちの仲間に入れて貰えないのと同じで……多分、色んな人の色んな思惑が混じっているのだ。
だから、正解なんて分からないけれど――ただ、静謐を望むタクトの気持ちだけは痛いほどに分かった。
何もかも絡まりすぎていて、何か――簡単な答えがあれば、それに飛びつきたくなってしまう。
それが、私にとっては、エリートであるという自覚で。
タクトにとっては、静かで何も考えなくて良い1人の時間だったのだろう。
分かりすぎたから、会いたくなってきた。
私と同じく、人生の苦労をただ、自分1人の答えで何とか乗り越えてきた――私の勇者さま。
(そなたも何やら感ずるところがあったようじゃな)
はい。レーゲンボーゲン陛下。
タクトの抱える感情は、きっと私と同じでした。
孤独、嫉妬、自由、憎悪。
だけど――
だけど、こんな感情は、誰だって持っているのではないですか。
今、部屋にいるタクトのご家族だって同じです。タクトだけではない。
それなのに何故、タクトが選ばれたのでしょうか?
私と手を繋いだ魔王は、くくっと内に篭もるような笑い声をあげた。
(言ったじゃろ。召喚される勇者はタクトでなくても良い。偶然あたったのがタクトで、召喚されたからには勇者となり、余を――魔王を倒さねばならぬ、それだけじゃ)
妹姫の腕の中で、小鳥が「ピュイッ」と鳴き声を響かせる。
その声をきっかけにして、私は再び闇の中へと沈んでいく。
段々と薄暗くなっていく視界の中で、ふと――小鳥のぽちがこちらを見たような気がしたけれど、そのつぶらな瞳もすぐに漆黒に塗りつぶされて、消えた。
(魔王を倒した勇者が国王となり、国を治める。それが掟じゃ。余が500年統治し続けてきたこのエルフェンバイン王国を、更に500年続かせる為の――)
魔王の声とともに、再び視界に光が差す。
次の瞬間、私と魔王は手を繋いだまま、足下に広がる草原を見下ろしていた。
ふよふよとゆっくりしたスピードで降りながら、草原に佇む3つの影を見る。
見も知らぬ漆黒の髪をした男性が1人。
その男と対峙するように、2人の影。
1人はタクト。
もう1人は土の精霊。
見慣れたタクトの背中を見た瞬間に、私は声を上げて泣きたくなってきた。
どうしようもない孤独に。
力を持たない子どもがたった1人で探り当てた解決策に。
正しいかどうかではなくて、ただそこに彼が1人で辿り着いたことに。
胸を震わせて、私は叫ぶ。
「――ぅぅぅぅぅダクトぉっ!」
「それどこの通風管?」
気が付いたら私の足は草原にぴたりとついていて、私の方を振り向いたタクトが反射的にツッコミを入れながら苦笑していた。
「あっ!? あっあぁ……き、聞こえます!? 私、もう幽霊じゃないのでずがあっ!?」
「ちょ、鼻水拭いて。待って、鼻水拭くまでこっち来ないで。俺の服につくから」
駆け寄ったけれど、腕を突っ張って額をごりごりと押されたので、それ以上近づくのは諦めた。
あんなに会いたかったのに、会ってみたらタクトは相変わらずだ。
私は抱きつこうとした両手をおさめて、ポケットから出したハンカチで、涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃの顔を拭いた。
そんな私たちの姿を、黙って見守る魔王と、土の精霊。
そして――私の知らない黒髪の誰か。
その誰かが、私たちを見ながら頬を緩めて呟いた。
「次代の国王陛下は、ずいぶんと慕われている様子じゃないか」
その黒い瞳が狡猾に光るのを見て、タクトの肩に力が籠もったのが見えた。




