子どもだって、いつかは大人になる(起)
「私も……私も知りたいです! 勇者さまとは何なのですか!? 魔王を倒して、私たちを助けてくださる英雄ではないのですか!?」
耳元にかかった水の精霊の手を握り、私は声を張り上げた。
いつもなら、即座に私の手を握り返してくれるのに――何故か、私から目を逸らす。
横から、炎の精霊のくすくす笑う声が聞こえてきた。
「あたし、ルイーネのそういうとこ気に入ってるよ。何もかも知ってる癖に何にも知らない。上っ面ばっか見てて裏は見ない。そういうところ、本当にルイーネらしいよね」
「……炎の精霊……?」
思わずそちらを向くと、炎の精霊は、声で笑っている癖に何だか辛そうな顔をしている。
「魔王を倒す、か……」
落ち着いた声で、風の精霊が囁いた。
「ある意味で、神官どのの言葉は真実だよ。魔王を倒し、この世界を安んじるのが勇者だ。だが……」
「……勇者を語るには、魔王を語れ、だね」
土の精霊がちょこちょこと走り、部屋の扉へと手をかける。
「……精霊が揃った時――魔王との戦いが始まる、だよ」
言葉とともに扉が開かれ――その向こうから人影が足を踏み入れる。
壮年の男性らしい立派な体格を、赤く染めた毛皮のマントで覆う、その頭上に――黄金に輝く冠。
そのお姿に気付いた瞬間、私は即座に跪いた。
「――国王レーゲンボーゲン陛下!」
「……あ、ホントだ。国王だ」
呆けたタクトの声を頭上に聞きながら、私は顔を伏せて必死に考える。
待って待って! 何故、陛下がこんなところに!? いや、ここはタクトの――勇者さまの居室なのだから、陛下がいらしてもおかしくはないのか!? でもでも、今までご自身が足を運ばれることなど、なかったじゃないか。
視線を合わせぬよう床を見つめていると、厳かに低い声が響いた。
「良い、顔を上げよ」
陛下の許しを頂きしずしずと頭を上げながら――直前の土の精霊の言葉を思い出す。
『精霊が揃った時、魔王との戦いが始まる』
それは、500年前の勇者譚の一節だ。
以前タクトにも話して聞かせた、かの勇者の冒険譚は、4人の精霊の加護を受け魔王を倒した勇者が、我がエルファンバイン王国の国王となったところで終わる。
そうして、精霊は国王の傍で王国を守る力となるのだ――
「――ルイーネっ!」
「ひゃ……っ!?」
突然、ぐいっと後ろに手を引かれ、バランスを崩した私の身体を、引いたタクトの腕がそのまま支えた。どうしたのかと問うより先に、一瞬前に私がいたところへ漆黒の刃が突き刺さる。
驚きで顔を上げた私とタクトを、唇を歪めた陛下の黒い瞳が見下ろした。
「魔王とは何者か、勇者とは何者か、加えて国王とは何者か……その問の答えは全て同一じゃ。余が国王であり、かつて勇者であった者であり――そして、今は魔王である者じゃ」
最後の言葉が途切れたとき、室内に暗い影が広がり始めた。
慌てて見渡すと、雲のように漂う影の向こう、それぞれに国王陛下を睨みつける4人の精霊達の姿がある。部屋の壁も隠れる闇の中で、頼りない気持ちを抱え、私は隣のタクトの腕に手を添えた。
振り払われるかと思ったが、逆にタクトも私の手に手のひらを重ねてくる――タクトも不安を感じているのだろう。
眼前の陛下の姿が一瞬雲の向こうに隠れ――再び現れたのは、小さな影だった。
先ほどと同じ赤いマントを羽織り、大きな金の王冠を被った幼い女の子。
愛らしい声が、タクトに向けて宣告する。
「元の姿は500年ぶりじゃ、王の名を負うのは何と重いことか……しかし、余の苦労もこれで終わり。いざ、魔王たるレーゲンボーゲンの名を持って命ずる。勇者よ、余を倒すのじゃ。死にたくなければ、な」
宣戦布告の後、女の子の――国王陛下の――魔王の唇が、大きく歪んだ。
きゃらきゃらと笑った声の向こうで、赤いマントが翻る。
「来るぞ……!」
影を突っ切って走ってきた炎の精霊が私たちの前に出て、右手の一振りで床から炎の壁を立ち上げる。
対する魔王は空中から十数本の漆黒の刃を生み出した。小さな指先の動き1つで、その全ての刃が紅の壁に向かい、突き刺さる。
壁に当たった刃が溶け落ち――消えた端からまた生まれては壁を削っていく。
薄くなる壁を見れば、このままではいつか刃が突き抜けることが一目瞭然だった。じりじりと焦りを感じたところで、タクトの後ろに歩み寄ってきたのは風の精霊だ。
「――ザラ、加勢する」
その伸びやかな右手が風を巻き、壁をますます熱く吹き上げる。
防護が固まったところで、土の精霊が前に出る。
「……だよ」
刃を操る魔王の背後に向けて、土の精霊の両手の動きに合わせ、土塊がざりざりと音を立てながら襲いかかる。
「わたしも手伝うわ!」
水の精霊の生んだ水流が土と混ざり合い、勢いと大きさを増して魔王の小さな身体へと向かっていった。
しかし、2人の攻撃を鼻で笑った魔王は、左手を突き出した。その手のひらを中心に、黒い刃が花びらのように重なり合って広がる。
盾のように伸びた刃に阻まれて、宙を泳ぐ土塊の川が弾けた。飛び散る土飛沫が、私たちの方まではねてくる。
「こんの――!」
耳元で、大声が響いた。
今まで黙って見守っていたタクト――勇者が! ついに!
その黒い瞳に宿るのは、大いなる怒り。
それは、勇者の――世を乱す悪たる魔王へ向けた、正義の――
「――勇者さま……!」
私の声に応えるように、タクトの右手が振り上げられ――
「――あんたら……人の部屋で暴れるなってるだろがっ!」
――振り下ろされた。
……あれ、怒りのポイントそこ?
呆然としている私に関わらず、部屋中を押し潰すような漆黒が、真上から降ってくる。
驚いた顔の元陛下現魔王が、王冠の向こうで黒い瞳を丸くしているのが見えて――見えた瞬間に、私の身体も上からいっしょくたに押し潰された。
「ぎゃふ……っ!」
「……あ、やべ」
そのまま床に激突した私の頭の中で、たくさんの瞬く星が飛んだような気がしたけれど――はっきりとは良く分からないまま、私の意識はずるずると闇へと落ちていった……。
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ふわふわと、浮いているような心地。
ここはどこだろう。
私は誰だろう。
自分の輪郭さえ曖昧なまま、私はどこか分からない場所を漂っている。
あれ、さっきまで私、名前があったような。
何だか私、段々希薄になってるような。
……でも、まぁ……それでも良いかしら……。このまま消えるのも……。
そのまま空気に溶けそうになった私の右手を、誰かが掴んだ。
掴まれた感触で、自分には手があったことを思い出した。
右手から繋がる腕、肩、頭、胸、腹――あ、私には身体があったんだ。
自分の身体の存在を思い出したところで、右手を掴んでいるのが幼い女の子であるのが見えた。
(……気がついたか、ルイーネ?)
――ルイーネ。
唐突に、自分の名前に気付いた。
順風満帆に昇進してきた、エリート上位神官。
唯一の悩みは人間関係で、それなのに勇者さまのお世話を言いつかり、試行錯誤している。
そして、私の思いとは裏腹に、勇者さまは――タクトは――
(そうだ、ルイーネ。余の言葉に従い、そなたは勇者を旅立たせようとしたのじゃ)
(だが、次代の勇者は色々と変わっておったなぁ……苦労したじゃろ)
響いてくる声は耳を震わせず、直接心に繋がっていた。
舌足らずな声は聞き慣れたものではないけれど――思い出した私には、その方の名前がはっきりと分かった。
――国王レーゲンボーゲン陛下。
かつての勇者であり、国王であり、そして……今は、魔王?
(そうじゃ。戻ってきたな、ルイーネよ)
はい、陛下。
これは……私はどうなっているのでしょうか?
(何、そなたも知りたかろうと思っての。勇者とは何者かと、問うておったではないか)
確かに、知りたい。
勇者とは何か、魔王とは何か、国王とは――あなたは何者なのか。
そして――私は何の為に勇者と――タクトとともにいるのか。
(教えてやろう。まずは、下を――)
小さな指先がさすそちらが、下であると初めて認識する。
認識した途端に――世界が広がっていった。
私の真下には、真っ暗な部屋があった。
狭くて四角い部屋の中は、雑然として埃っぽい。
床に散らかった溢れるほどの衣服、小さなベッド、そして机。
机の上には何やら分からないつるりとした四角くて薄い塊が乗っている。
ここは、どこだろう。
少し低い部屋の天井から、下を見下ろしながら考える。
考えた瞬間に、部屋の隅で「ピュイッ」と小鳥の鳴き声がした。




