お題15『子供の日』 タイトル『エンゲージリング・チャイルド』
……この家にも鯉幟か。
俺は新聞を投函しながら天に伸びる鯉幟を見た。すらっとした形をしているそれは気持ちよく空を泳いでいた。
毎年、鯉幟をする家は大体決まっている。駐車場からはみ出した車があれば、そこには大体鯉幟があるのだ。きっと子供がGWで孫を見せに帰ってくるのだろう。
俺は鯉ではなく鮭にでもしたらいいのに、と思いながら春用のワインレッド柄のフェイスマスクをした。ここ北九州ではPM2.5が発生するため、空気が悪い。黄砂までくればお手上げだ。
……そうか、今日で5年目か。
俺は鯉幟を見て彼女と結婚したことを思い出した。彼女との出会いもGWで、その最後の日である子供の日に俺達は付き合い始めたのだ。
……こいつも今日で見納めだな。
俺は溜息をつきながら鯉幟を見た。俺の家には鯉幟は存在しない、子供がいないからだ。それはセックスレスではなくてお互いに欠陥があるからだ。
……子供の日に、子供ができない家族が誕生するなんて皮肉なもんだ。
俺は今でもプロポーズをしたことを後悔している。先に検査をしていればこんな日々は始まらなかった。だがそんなことをして結婚する奴の方が少ないだろう。だから俺は今日の日を恋人のいないクリスマスくらいには憎んでいる。
……とりあえず仕事をかたそう。
風を泳ぐようにバイクのスピードを上げる。投函先の庭にあるジャスミンの強い香りが夏の始まりを感じさせ、俺の沈んだ心を浮き立たせる。この時期がバイク乗りとしては一番気持ちがいい。夏は照り返しで熱すぎるし、秋を越せばひたすら寒さに耐えるだけの日々だ。
しかしそれもほとんどなくなった。バイクでの配達はバイトがまかなってくれて、俺は中継地点に大量の新聞を預けるだけでいいのだ。今日はなぜバイクに乗っているかというと、バイトの大学生がGWということもあって実家に帰っている。
俺はアパートの前で大量の新聞を担ぎ登っていく。最近では新聞は減ってきているが、やはり頼んでくれる人もたくさんいる。それは一重に親が子供に新聞を読んで欲しいという親心にある。学生がきちんと読んでいるかは不明だが、親はそれで満足するのだから、うちの家計はそれで助かっている。
「あ、野良猫」
俺は呟きそいつを見た。この付近の猫は人懐っこく、バイクで走ってるくらいではどかないのだ。まるでそれがきちんと止まってくれるとわかっているように。
……あいつもうちに来て8年か。
俺は家に住んでいるランを想像した。こいつの名づけ親は友人だ。あの頃は毎朝、新聞を配達しており、その途中で出会ったのだ。今でもそいつは家に住み着いており、適当に外に出て適当に家で飯を食う。俺のフェイスマスクの中で寝転ぶこともあれば、彼女の膝元で寝ることもある。
……そういえばこんな晴れた日だったな。
俺は昔使っていたフェイスマスクを思い出しながらエンゲージ(婚約)・リングを眺めた。
俺達の出会いはフリーマーケットだった。友人に誘われ、その場に行くと彼女は大人向けのタペストリーを売っていた。ゴールデンウィークだというのに、子供受けの悪そうな商品ばかりだった。俺は気になって彼女を見ると、彼女は気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
それが気まぐれな俺の心に火がついた。
彼女は三日間、同じ場所で売り子をしていた。俺が三日続けて通い、最終日に彼女の店じまいを手伝ったのだ。彼女が並べていた最後の商品を買うことを条件に俺は彼女にデートを申し込んだ。その柄が俺の好きなワインレッドであることも決めての1つだった。
彼女はしぶしぶそれを了承した。彼女の商品は全く売れる気配がなかったからだ。
それから俺は彼女と近くの喫茶店に入りたくさんの話をした。話題はもちろん、なぜGWなのに子供向け商品をおかないかということだ。
俺が尋ねると、彼女は小声で話し始めた。
「子供の日だから、ってその商品だけ置いても面白くないじゃない」彼女は拗ねたような声でいった。「母の日だから、イベントだからってそればかり売るのはお客さんに媚びているようで嫌だったの」
もちろん彼女の気持ちもわかる。だがフリーマーケットだからといって、適当に商品を並べば売れるわけじゃない。売るためには戦略がいるのだ。俺はその広告という商品を担っているため、彼女の的外れな考えを適当に聞いていた。
「私はね、商品が売れなくても人の心に残って欲しかったの。皆と一緒の商品がなかったら、逆に目を引くでしょ」
確かにそれも1つの戦略だ。
「まあ、それに引っかかってくれた君がいたから、いいんだけどね」
事実だった。俺は自分のことをそっちのけで考えていたが、俺自体が彼女の罠に嵌っていたのだ。おかげで彼女の最後の商品を買ったのだから、何の文句もない。
俺は笑いながら彼女の番号を聞きだした。その日から俺達の付き合いは始まった。
一年後、俺達は時間を掛けて婚約をして結婚した。それから今でも初夜のようにセックスをするが、子供はもちろんできない。
検査を受けたのは結婚して2年後だった。すでに俺達の歯車を止めることはできなかった。
「お疲れ様」
「ああ」
家に帰り着き時計を眺めると、朝7時を回っていた。途中でパンを摘まんだが、もちろん腹は減っている。再び朝食を食べながら麻美の心を読むことにする。
……彼女は今日が子供の日だとわかっているのだろうか。
こういう日はテレビを点けづらい。どこの番組でも特集が組んであるからだ。
俺達は結婚する前から、何人の子供が欲しいかという話題を出していた。大抵、男と女一人ずつ、という話で終わったが、子供ができれば関係ないよねと魔術のように繰り返していた。
だからこそ指輪はエンゲージのままだった。子供との生活のためにと蓄えていたのだ。
それが今ではお互いに子供など存在しないものとしてその話題には触れていない。
「ねえ、今度はどこに行きたい?」
麻美は朝食のトーストを齧りながらいった。
俺達の話題はもっぱら旅行だった。子供がいないため、蓄えはある。彼女のタペストリーもいい小遣いになり俺達は周りの家庭よりも裕福だった。何より親戚付き合いが辛いため、出掛けた方が都合がいい。
「そうだな、もう近場は大体行ったしな」
俺は曖昧に答えた。新聞配達があるため、俺達の旅行に泊まりは無理だ。だからこそ俺達はツーリングをしたり、雨の日はドライブをしたり、身近な所で済ませていた。
「休みを取ってもいいんじゃない?少しだけ遠くに行こうよ」
俺も彼女とここではないどこかへ出かけたかった。自分を知らない人間に出会い、自分を忘れ、一人の男として自分の存在を認めて貰える場所に。
「どうしたんだ、急に?」
俺は彼女が入れてくれた紅茶を飲みながらいった。我が家はパンで始まり、パンで終わる。日常にまで日本の生活を忘れるよう取り繕われているのだ。我が家には湯のみなどない、あるのはティーカップのみだ。
それは全てこどもの日を忘れるためだ。行事を疎かにすれば、季節を忘れ、毎日が同じ日常だと思い込むことができる。
俺達の生活はサービスを終了した仮想世界のように歪んでいるのだ。
「なあ、今日で5年目だって覚えてるか?」
俺は間接的に問うた。それだけで彼女は理解してくれると思ったからだ。
「うん、覚えてるわよ」
そういって彼女は一口、紅茶を啜った。その姿に哀愁を覚える。
……俺達はいつから、こんな関係になってしまったのだろう。
恋が終わるわけではなく、ただ無情にも時が経つのを待っている。俺達は鯉幟のように空を感じながらも、本当に飛ぶことはできない。風を感じ、ただその日を終えることを待っているのだ。
俺達は串刺しにされた鯉と一緒だ。形があっても、その中身は空っぽで、何かを埋めようとしても埋めることはできない。
「……麻美」俺は彼女を呼び、離婚届を取り出した。「ここにサインをしてくれ」
「いきなりどうしたの?」彼女は訝りながら俺を見た。
「俺はずっと考えていたんだ。お前……本当は子供が生めるのだろう?」
ある日、彼女が不妊治療に行ってないことに気づいた。彼女はこの5年間、不妊治療に一度も行ってなかったのだ。
証拠は銀行の通帳だ。彼女はそのお金をきちんと貯めていたのだ。
「だからもう、終わりにしよう。少し遅いかもしれないが、お前ならまだ産めるはずだ」
彼女の年齢が今年でちょうど30を超えてしまった。今ならまだ産むことはできる。このまま時間を過ぎれば、本当に取り返しがつかなくなる。今の貯金があれば結婚相手が見つかり次第、すぐに実行できるだろう。
「お前、本当は子供が欲しいんだろう?だったら俺じゃなくて、別の相手を……」
「……それにサインする前に見て欲しいものがあるの」麻美はそういって小さい高価そうな箱を取り出した。
「ねえ、一度別れてこれをつけましょう?」
そこにはマリッジ・リングがあった。
「あなたがいつ言い出すかわからなかったから、急いで買っちゃった」
「どういうことだ?なぜ指輪を買った?」
彼女も別れようといっているのに、指輪を買った意味がわからない。まさかその相手はもういたというのか。
「ごめんなさい、騙していて……あなたは優しいから、いつかこうなるんじゃないかと思っていたの」麻美は頭を下げたままいった。「初めて会った日のこと、覚えてる?」
「ああ」
「実はあの時ね、あなたが来る前に子供向けの商品全部売っていたのよ。だから最後の売れ残りをあなたに回収してもらったの」
「え?」
聞いていない情報だった。俺は彼女から買い取った商品を思い出す。そういえばあの時、値札のようなものを見た覚えがなかった。
「ちなみに私の商品は売れなかったんじゃなくて、売らなかったんだけどね。あなたに見て欲しかったから」
「どうして?俺に見て欲しかったんだ?」
「あなたはどうやってフリーマーケットに来たの?」
あれは確か、友人と一緒で……。
「私ね、あなたが新聞配達をしていて、ワインレッドのフェイスマスクをしていることも知っていたの。いつも私の家の隣に新聞を届けていたから」
彼女は思いを打ち明けながら紅茶を一口啜る。
「そこで死にそうになった捨て猫を拾ったのも知ってたの、その猫を飼っていることも。その名づけ親が私の友人であることも」
「……知らなかったよ」俺は驚きながらも質問せざるおえなかった。「まさか……それで最後のタペストリーはワインレッドだったのか?」
「……そういうこと」麻美は恥ずかしそうにいった。「だから私も……きちんと最後まで買い取ってよね」
「お前は売れ残りなんかじゃないだろう。俺の方が……」
「そういうのなら、1つだけお願いしていい?」
麻美の不敵な笑みには勝てない。俺が頷くと、また明日までに考えておくといった。
「だけど、これでしばらくは貧乏生活ね。離婚するお金なんてうちにはないからね」
「……ああ。でも麻美、本当に子供ができなくてもいいのか?」
俺が問うと、彼女は再び唇を歪ませた。
「いいわよ。……だってここに子供が一人いるじゃない」
そういって彼女は俺を指差した。
……今日は冷えるな。
俺は配達に出るため、フェイスマスクをしようと首をすくませた。すると唇に異物感を覚えた。
マスクを外すと、彼女のリップ跡と犬を飼わせて下さい、と一言書いた紙があった。
「金がないんじゃなかったのかよ」
俺は心の中で彼女に突っ込みを入れながら、鯉幟が消えた空を見た。
空には俺を縛るものはなかった。俺はマリッジリングを眺めながらスロットルを回して、静かな道を走った。
お読み頂いてありがとうございました。
昨日は投稿できず、すいません。また明日から頑張ります。