第8章
「えーっ!?それでおまえ、あの鉱石室にあるダイヤを、あの女のために気前よくプレゼントしてやったってわけ?」
親友の言葉の言外に、(馬鹿じゃないのか)という響きを感じとり、翼はいささかムッとした。
「俺だって、何も考えてなかったってわけじゃないさ。普通ならまあ、「それでこの女とやれるんなら、安いもんだ」とか考えるんだろうけど……俺のはそーいうのじゃないってこと。あの水上ゆう子って女はさ、ようするに俺にプライドを傷つけられたって言いたかったんじゃないかと思ったわけ。あの鉱石室でルビーやらサファイアやらを眺めてるうちに、ふとそう気づいたってことなんだけど……そう考えた場合、確かにあの時俺は、相当失礼なことを彼女にしたんだよ。目が覚めた時、「君、誰だっけ?」とか、「悪いんだけど、仕事があるから帰ってくれないか」とか、普通に言っちゃったし。そう考えた場合、ダイヤ一個でチャラにしてくれるんなら、ある意味安い話かなって思ったわけ」
「馬鹿。こんなホテルでダイヤなんか買っても、鑑定書なんて付いてこなかったろう?僕が見る限り、他の宝石や鉱石類にしても、値段の付け方なんか結構デタラメなんだよ。翼、おまえもこんなただの石が何百万もするだなんて、世の中狂ってるとか言ってたよな?ようするにあれは売り物じゃないんだ。たまに酔狂で買ってもいいっていう観光客がいたら、売るにしても、基本的にはただのホテルの一室にある飾りもんだってことだよ」
「まあなあ。俺もあんな水晶玉が、本物なのかただのガラス玉なのかってよくわからんよ。けどまあ、案内書きに<ここに陳列されている鉱石はすべて本物です>って書いてあるから、まあそうなのかなって思う程度だけど……水上ゆう子のほうはその点、なかなか賢かったよ。自分の行きつけの宝石店で指輪にしてもらおうと思うけど、その時にこちらの信用が傷つくことはないかってホテルの支配人に聞いてたからな」
「で、支配人のほうはなんて答えてた?」
「正規に取引されたダイヤにはちゃんと、シリアルナンバーみたいなもんが、目には見えない形で入ってるんだと。鑑定書のようなものは付けられないにしても、調べてもらえば本物だっていうことははっきりわかるはずだって、実に自信ありげだったよ。まあ、ここのホテルの信用にも関わる問題だから、おそらく大丈夫だろうけど、俺はむしろこっちのホテルのほうが心配っつーか」
「つまり?」
「だって、ゆう子が行きつけの宝石店とやらに、すり替えた偽のダイヤを持っていったとしたらどうなる?で、調べてもらったら偽物でしたのよ、どうしてくださるの!?なんつって、ここの支配人に詰め寄ったら……表沙汰にされたら面倒だから、それなりに金積んで黙らせるんじゃないかと思うわけ。そんで俺、その時に思ったんだ。この女とはこれきり、一切関係を断つことにしようって」
「それが懸命だよ」
要は前髪をかきあげると、ふうっと深い溜息を着いた。
「彼女と同室の美音さんから、少し話を聞いたんだけど、あの水上ゆう子って、父親が母親と自分に暴力を振るうような家庭環境で育ったらしい。それであの性格ってことは、僕の勘によるとだよ――無意識の内にも男全般といったものに、深い恨みを持ってるんじゃないかと思うわけ。ああいうホステスと娼婦の境目のような雰囲気の女性はね、男が苦しんでても、本当にはまるで共感なんてしないんだ。<共感してる振り>は極めてうまいけどね。金品を巻き上げても当然の如く同情なんてしないし、むしろそれが当たり前くらいにしか思ってない。何故といえば、父親を含めた男すべては、自分に償うのが当然だと感じてるだろうから……そして一番始末が悪いのは、何人男を騙しても、仮に一千万・二千万の金を貢がせても、同じことを繰り返すってことだな。心の一番根っこにある、満たされない部分にまで水が行き届くってくらい、男のほうから愛されないことには――ああいう手合いの女は、決して満たされることがないんだよ」
「すげえな、要。きのうと今日、ほんのちょっと会ったくらいで、そこまでわかっちまうもんか?」
「べつに、今僕の言ったことが全部正しい保証はまったくないけどね」
要は居間のカウチに腰かけ、<南沢湖のおいしい水>なる、冷蔵庫に常備されたミネラルウォーターを、コップに注いで飲んだ。今日はやたら喉の渇く日だと、そんなふうに彼は感じている。
「ただ、僕なら彼女のことをモデルにすることは絶対しないね。ファム・ファタル的な絵を描きたい時には、もしかしたら別かもしれなくても……いや、問題はそういうことじゃないな。とにかく、僕はおまえがあの女と腕を組んで消えた時点で、少し心配だったんだ。水上ゆう子のような女と深く関わったが最後、事はダイヤ一個じゃ済まないような気がしてね」
「ナイスショットォッ!!」
会話の脈絡をまったく無視するように、翼は窓を全開にしたテラスに向け、暖炉脇にある火かき棒で、目に見えないゴルフボールを打っていた。
「……翼、おまえってゴルフなんかする奴だったっけ?高校の時、ゴルフはブルジョワの憎むべきスポーツだとか、僕に意味不明なことを言ってた記憶があるんだけど」
「そうさ。俺にとってゴルフは今でも、ブルジョワどものやる、憎むべきスポーツだよ。けど、医者って種族にはこのブルジョワ及びプチブルとかいう、ブルドッグの親戚が多いんだ。以前、大学病院の医局でさ、ゴルフコンペなんていうのがあってね――こういうイベントごとに出席しない奴よりも、出席した奴のほうが出世するという、根拠のない迷信が医局には蔓延してる。そこで俺、ゴルフなんていうくだらないスポーツにはまるで興味がなかったけど、その噂の是非を正すために、そのゴルフ大会の前日まで徹底的に腕を磨くことにしたんだ。要も知ってのとおり、俺ってひとつのことに打ちこみだすと、本当に徹底的にやりこむからな。で、結果として教授や准教授に大差をつけて勝ってやった。そしたらみんな、唖然としてたね。「結城君、こういう時には上司に花を持たせるのが部下の務めというものだろう」だってさ。いやいや、愉快、愉快。ダイヤモンド級に愉快!!」
そう言って翼は、もう一度これまた目に見えないホールに向けて、火かき棒を五番アイアンに見立て、華々しい一打を放った。
「うんうん、旗包み」
<プロゴルファー猿>を知らない要は、突然暑気あたりでも起こしたというように、カウチで横になりはじめている。
「翼、おまえさ、それじゃ確かに出世できないだろうよ。自分でそう言ってるだけじゃなく、まわりの人間もそう指摘してるとおりさ」
「まあな。それはそうと、この火かき棒ってなんのためにあるんだろうな。この居間にある煉瓦の暖炉って、ただの飾りみたいなもんだろ?」
「そうだね。これはどう見ても完全な飾り暖炉だから――なんで火かき棒があるのか、僕にもわからないな。冬になったとすれば、部屋の片隅にそれぞれある、オイルヒーターで温度を調節するんだろうしね。ただのインテリアってとこかな」
「ふうん、変なの。それはそうと要……」
と、翼が言いかけた時、開け放たれた窓の向こうから、女性の悲鳴に近い声が聞こえてきた。
「キャーーーーーッ!!」
それを悲鳴である、とは翼も要も最初は認識できなかった。妙に間伸びした甲高い声で、子供が意味もなく叫んでいるようにも聞こえたからである。
だが、テラスの手すりから下のほうを覗きこむと、何人もの客たちが窓から顔を突きだし、「人が落ちたらしいぞ」とか「大変だ」と言った声を含んだざわめきが、二十階のほうまでせり上がるように聞こえてくる。
この時、翼は行動を起こすことを少しもためらわなかった。一体何階から人が落下したのかもわからなかったし、もし助かる見込みが僅かでもあるのなら――早い段階で適切な処置がなされた分だけ、患者の命が助かる確率も高くなる、そのことしか考えていなかった。
三基あるうちの、一番早くきたエレベーターに乗りこむと、翼はもどかしく一階のボタンを何度も押した。無論、何度押そうが特別変化が起きるということはない。
エレベーターが一階のロビーに到着すると、表の庭に通じる窓が開いているのを見て、翼はそこを飛び越え、すぐ外へ出た。
よく整備された芝生を走っていくと、落下したと思われる当の女性が、仰向けになって倒れていた。見開きっぱなしの目を覗きこむと、瞳孔が開いているのがわかり、「これは手遅れだな」と翼は思った。おそらく、相当上の高い階から飛び下りたのだろう。また、もしこれが事故でも自殺でもなかったとしたら、飛び下りさせられたのか……。
相手の死亡をはっきり確認できた時点で、翼は三十代前半くらいと思われる女性の体から、そっと離れることにした。警察のほうへは、誰かがすでに連絡しているだろう。そして、好奇心からかなんなのか、遺体の上に屈みこむ男の姿をこれだけ多くの宿泊客が窓から見ていた以上――翼は救急車や警察車両がこの場にくるまで、そのまま待機することにしたのである。
「先生。彼女は一体……」
少し前に、ダイヤモンドの商談が成立する過程で、<南沢湖クリスタルパレス>の支配人とは、短い間ながら懇意になっていた。つまり、若干ヅラっぽい髪型の、不自然なくらい黒々とした髪の田沼支配人と、自分の職業が医師であると明かすくらいには、翼は親しく話をしていたのである。
「残念ですが、すでにお亡くなりになっておられます。窓の外で女性の叫び声が聞こえて、すぐ駆けつけたんですが――それというのも職業柄、救急車が来るまでの間に、適切な処置を施せればと考えてのことだったんですが――もし、飛び下りた時のショックで全身を強打したことが死因であったとすれば、即死だったのではないかと思われます。なんにしても支配人、彼女が何号室の方かわかりませんか?そうすれば、何階から落ちたかがわかると思うんですが……」
「い、いや、わかりませんよ、そんなこと」
田沼支配人は、死体を直視したくないというように、女性のほうから視線を背けて言った。
「今、当ホテルには六百人近いお客さんが宿泊してるんです。よっぽど特徴のある方か、西園寺先生やその奥様だとでもいうなら、ともかく……」
支配人の言わんとするところは、翼にもわかった。と、同時に、たったの五分程度で救急車、またそれに続いて警察車両が到着したことに、翼は少しばかり驚いた。
救急救命士たちは、女性の死亡を確認するための、一応の手続きを型通りとると、警察車両から出てきたふたりの制服警官と話をし、遺体を救急車に乗せるべく、担架を後部ドアから手際よく出していた。
ひとりの制服警官は中年で、肌の色が浅黒く、翼の目から見て、二型の糖尿病が疑われる、典型的な肥満体型だった。もうひとり、彼の部下らしき若い巡査のほうは、髭を剃ったあとが青く残る、色の白い男で、がっしりした体格をしている。
こんな田舎町で自殺騒ぎとは、滅多にないことなのだろう。色黒の太った巡査部長も、色白の巡査も、狼狽の色を隠せないようだった。
「なんにしても、検屍結果のほうを待ってみませんとな。おそらく自殺ではないかと思われますが……そのあたりの聞き込みは、当然我々の仕事ということになりますが、時に支配人、彼女は何号室の宿泊客だったのですか?」
「それが、わからんのですよ。うちは部屋が四百五十室以上もあって――今は六百人近いお客さんにお泊りいただいてます。もちろん、これから調べれば彼女が何号室の客だったのかは、そのうちわかるでしょう。ですが、うちも無駄なことに裂ける人員はひとりもないのが現状でして……」
「いや、お気持ちはわかりますよ。今はなんといっても、<シーズン>と呼ばれる頃合ですからな。いわゆる柿入れ時という奴です。フロントの人間も厨房の人間も、客室清掃係も、全員が汗だくになって働いておることでしょう。わかります、わかりますよ」
支配人と黒部巡査部長と呼ばれる男が、くるりと方向転換をして、正面エントランスへ向かおうとするのを見――(もしこれが殺人事件だった場合、現場を保存しなくていいのか)という不安が、不意に翼の胸を掠めた。
色白の、というか、青白い顔の巡査が、翼と同じことを思ったのかどうかはわからない。だが彼は、翼が少し前まで女性が仰向けになっていた地点へ一緒にやって来ると、芝生に付着した血の痕跡を同じようにじっと見下ろしていた。
「俺は、法医学には詳しくないんですが、彼女、仰向けに倒れてたんですよ。何階から落ちたのかはわかりませんが、もし自殺なら――普通、うつ伏せになるものじゃないでしょうか。今晩は雨になるという予報をテレビで見ましたし、これが事故や自殺でなく、他殺であった場合……」
と、ここまで翼が語った時、ずっと黙っていた青木巡査は、突然口を開いて翼にこう質問した。
「失礼ですが、あなたのお名前とご職業をお聞きしてもよろしいですか?」
「……結城、翼といいます。今は無職のプータローですが、少し前まで救急救命医をしていました。だから、女性の悲鳴が聴こえるのと同時にここへ駆けつけたんですよ。もし息があった場合、救急車が来るまでに出来ることがあると思ったものですから」
「そうでしたか。ですが、僕の勘では――おそらくこれは、自殺ということで片付けられる案件のような気がします。もちろんこれから、女性の身元や、何か周囲に悩みを洩らしていなかったかを、詳しく調べることになるとは思いますが。あとはうつ病の既往歴がなかったかどうかについても。検屍の結果に不自然な点がなく、もし本人が精神安定剤を服用していたことなどがわかれば、そのような形に当然落ち着くでしょうね」
「……………」
最後に青木巡査は、「一応念のために」と前置きしてから、翼が宿泊している部屋の番号を聞いた。胸元のポケットから取り出したメモ帳にそれを書き留めると、自分の直属の上司である黒部巡査部長のあとを追うように、ホテルのエントランスへ向かう。
翼もまた、何か釈然としない思いで、正面の玄関口へ向かい――最後にもう一度だけ、亡くなった女性のいた真上の空を見上げた。翼が宿泊しているのは最上階だが、そこには広いテラスがある。だが、他の多くの部屋には、狭いバルコニーが付いているだけなのだ。
翼は間違いなく即死すると思われる高さ、<南沢湖クリスタルパレス>の十階までやって来ると、使用されていない空室を探した。ここのホテルでは日中、宿泊客のいない部屋は鍵をかけるでもなく、ドアが開きっぱなしになっている。
翼は誰も人のいない、和洋室に靴を脱いであがりこむと、窓を開けてそこから下を覗きこんだ。左右を確認すると、右の部屋には若いカップルが、左には家族連れの姿が見える……ということは、もし先ほどの<彼女>が誰かに突き落とされたのだとすれば、隣室の人間に姿を見られている可能性が高いのではないだろうか?
翼は試しに、ベランダの手すりを背にして、何かの拍子に自分がここから落ちる可能性はあるだろうかと想定してみた。まず、ありえない。仮に酒で酔っ払っていたとしても、誰かに突き飛ばされでもしない限り、背中からバタフライ・ダイビングをしようとする人間はいないだろう。そのくらい、ベランダの手すりには高さがある。
「事故、自殺、他殺……」
翼の勘では、やはり他殺の線が強い気がした。あの、亡くなった女性のカッと見開いた目が、無念さを訴えかけていたとか、そうした感傷的なことが理由ではなく――彼女がもし、うつ伏せに倒れてさえいれば、事故や自殺の線が濃いのではないかと、翼も考えたに違いなかった。
「どうだった?」
翼が部屋へ戻ると、要が若干青ざめたような顔色で聞いた。
「いや、駄目だった。助からなかったよ。俺が下りていった時には、もうすでに亡くなっていてね」
「そうか。それにしても、大変なことになったな……今このホテルには、音楽祭に関係した楽団員が多く宿泊してるだろう?ということは、亡くなったのがもしその楽団員のひとりだとしたら、他の人間に与える影響も大きいだろうな。死者がでたのに、音楽祭は続けられた……なんて、あまり聞こえのいいことじゃないだろうし」
「その場合にはたぶん、中止ってことになるんじゃないか?まあ、<彼女>がもし本当に自殺で、周囲に悩みごとを洩らし、さらには仮に通院していなくても、まわりから見て鬱病と疑われるような兆候が見えていたとすれば――もしかしたら話は別かもしれんがね。「△△さんは本当に素晴らしい奏者でした。我々は彼女の分までこれからも精一杯音楽に魂をこめ、がんばり続けましょう」的なことをコンマスあたりが述べ、その日の交響曲は実に感動的な、観客が涙を流す素晴らしいもので終わった……なんてこともありうるかもな」
「死んだのは、女性だったのか」
翼は、籐のカウチに、蔓草模様のクッションを背にして座った。隣の要が気を利かせて、すでにウィスキーのグラスをテーブルにセットしている。
「ああ。けど、窓から野次馬よろしく覗きこんでた連中の誰ひとりとして、まだ彼女が本当に死んだとは思ってないかもしれない。救急救命士たちは、彼女がまだ生きているかのように丁重に扱って、担架で救急車に乗せていったからな。今は午後の五時か――夕方のニュースで流れるかどうか、微妙なところだな」
「その、さ、翼」
「ん?」
<南沢湖のおいしい水>で割ったウィスキーを飲みながら、翼がぼんやりと答える。
「死者がでたのに、画家は音楽祭に行った……みたいな話で申し訳ないんだけど、僕、美音さんが夕方に演奏する<死と乙女>を聴きにいく約束をしちゃったんだよな。彼女もこの件を知って、もしかしたら動揺してるかもしれないし――心配だから、ちょっと様子を見にいこうと思ってね」
「ああ、俺のことなら気にするなよ。ひとりでエア・ゴルフするなりなんなりして、今晩は適当に過ごすよ。さっきの女性のことで、検証したいこともあるし」
「検証って?」
「要が帰ってきたら話すよ。それより、夕方からの公演は六時からだろ?ポロシャツにチノパンなんつー、川口探検隊みたいな格好じゃなくさ、もう少しめかしこんでけば?冷たいようだけど、さっき人が死んだとかどうとか、そんなことは忘れちまったほうがいい。知ってる人間だっていうならともかく、見も知らぬ他人なんだから、気なんか遣う必要、まるでないと思うぜ?」
「けど、おまえは気にするんだろ?」
クローゼットからイタリア製のスーツを取りだしながら、要は少しばかりいわくありげに笑った。
「職業柄な。けど、あの死んだ女性個人には興味なんてまるでないんだ。この場合、単に俺は正しいことが公平に行われるべきだと考える、一市民に過ぎないわけ。あの制服警官の野郎、「たぶん自殺で処理されるでしょう」的な、いい加減なことを抜かしやがった。あの口ぶりで、俺にはすぐピンときたね――奴ら、書類にどう書いてこの件を終わらせるかみたいな、そんな上っ面のことしか考えてないんだろうよ。ど田舎町の駐在員としては、他殺を疑うより自殺で済ませたほうが楽だってのはわかるが、それにしても、今日の夜は雨になるって言うじゃねえか。もっとこう初動捜査をキビキビ行えってんだよな。あの女性が落下したベランダに犯人の指紋が付着してたら、流れ落ちてしまうだろうとか、まるで考えねーのかな、奴ら」
「どうだろうねえ。ホテルってところは、僕たちが考えてる以上に薄汚れてるって、前に『CSI:科学捜査班』でやってたよ。ここは名ばかりとはいえ、一応VIPルームだから、それほどでもないかもしれないけど……普通の客室をALS(特殊光学機器)で見た日には、何十人もの指紋が出てくるわ、出てくるわ」
ここで要は、クローゼットの側面についた鏡を見ながら、ネクタイを締めている。
「僕が思うにはね、手すりのほうも大方、そうなんじゃないかと思う。その死んだ女性がもし仮に楽団員の一員であったと仮定して――まあ、同僚の誰かの指紋が検出されたとしよう。けど、彼or彼女は、単にその前日亡くなった女性と楽しくお酒を飲んで、ベランダから美しい湖を見てたってだけかもしれない。指紋=犯人っていうのは、あまりに早計な話だよ。これがもし殺人事件であった場合、その犯人の奴の頭が多少なりとも良ければ、指紋を拭き取ったあとって可能性もある。もっとも、こんな昼日中にベランダから人を突き落とすだなんて、<突発的な激情>としか、僕には考えられないけどね」
「そうだよな。俺もそれを思ってたんだ」
ウィスキーを注ぎ足して飲みながら、ワイシャツの袖にカフリンクスを留めている友人を見て――「いいねえ」と、翼はカウチの背もたれに片手を回して言った。
「何がだよ?」
「いや、いい男はポロシャツ着ようがボロを纏おうがいい男だって話。よっ!色男」
軽く髪を梳かし、スーツの襟を整えると、要は軽く溜息を着いている。
「その言葉、そっくりそのまま翼に返すよ。おまえがこの格好で、コンサートホールのロビーに立っててみろ。たぶんオペラ歌手か何かと間違われて、サインくださいっていう女性が必ず現れるから」
「ははっ。そんなことより要、傘を忘れずにな。せっかくのアルマーニが雨に濡れたんじゃ、目も当てられまいに」
「おまえ、単に僕に「そんなことはアルマーニ」って言わせたいだけだろう?」
「当たり!」
そう言って翼は、昨夜買った壁のダーツ板に向けて、矢を一本放り投げている。
「惜しいね。あとちょっとでど真ん中」
「今のはわざと外したんだ」
負けず嫌いの友人にそれ以上つきあうことはせず、要はそのまま出かけていった。ひとり部屋に取り残された翼は、目の前の暖炉の壁にかかる、ゴルフ場の描かれた絵をじっと見上げる。
要はこの絵のことを、「無名の画家の絵」と言っていた。確かに、翼が素人目に見ても、<油絵講座>に三か月通った生徒の絵……といったようにしか見えない。だが、仮にもふたつ星ホテルの、VIPルームと呼ばれる部屋に飾られている絵なのだ。翼はもし要がそう指摘しなかったら、「うむ。なかなか良い絵である」と、自分は思ったかもしれないと、そんなふうに感じなくもない。
「ただ、ゴルフ場ってのがどうにも嫌だね。誰も人のいないホール、整った緑と黄緑の芝、カップに赤い旗……この絵を描いた奴は、たぶん熱狂的なゴルフ・ファンなんだろう。じゃなきゃこんな絵、自分の自由意思で描くはずがないものな」
翼は随分長い間、なんの根拠もなくゴルフというスポーツをブルジョワのスポーツと呼んで馬鹿にしてきたが、それでも自分で実際にやってみると、なかなかに奥深くて難しいスポーツであることがわかった。
それと同じように、翼は今――「ちょっとやってみっか」と自分が思っていることを実行に移そうとする。つまりそれは、昼間水上ゆう子がプールの飛び込み台から飛んだ、その真似にも近いことであった。
「雨が降らないうちに出かけて、あとは適当に売店で酒のつまみでも買って……晩メシはどうすっかな。ひとりバイキングってのもなんか虚しいから、部屋に食事を運んでもらうことにするか」
グラスに残っていたウィスキーを飲み干すと、海パンを手にして翼はホテルの中庭にあるプールへ出かけていった。そしてそこで、前から真っ逆さまに水へ飛び込むよりも、後ろから水中へ飛び込むほうが、遥かに強い恐怖感を覚えるという経験をした。
「ありえねえなあ。ぜってえありえねえ。男の俺でも、足がブルッブルに震えたぜ。やっぱ自分でそれと決めて死ぬ時には、出来るだけ楽に死にたいって思うのが人情だろ?いやいや、ぜってえあれはありえんわ」
翼がひとりブツブツ呟きながら、浴衣姿で一階の売店へ行こうとしていると、フロントのほうから田沼支配人がやってきた。毛髪が乱れているところを見ると、この人もなかなか気苦労が多いのだな……などと、翼はふと思った。
「結城先生。あの亡くなった女性、誰だったのかわかりましたよ。フリーランスのジャーナリストの方で、以前は東京オーケストラの楽団員だった方だそうです」
「どうやってそれがわかったんですか?」
翼は浴衣の袖下に手を入れ、腕組をした。田沼支配人は、あまり人に聞かれたくない話をするように、ロビーの片隅、壁に竹の飾られた一角に、翼のことを連れていこうとする。
「それがですね、あの女性――名前を首藤朱鷺子っておっしゃる方なんですが、あの女の人が飛び降りてから、たくさんの人が私と黒部部長が話してるところへやってきましてね。ベランダから湖を眺めてたら、上から人が降ってきた、だから彼女は自分たちの部屋より上の階の人間だと思うとか、そんなことを言う人たちがわんさと出てきまして……人間ってのは、まったくおかしなもんですな。自分が知ってることを一方的に話すだけ話したら、人として最低限の義務は果たしたとばかり、あとはぬくぬくと温泉を楽しめるんですからな。もっとも、何かそんなふうに、脳のほうで自己防衛するように出来てるのかもしれませんが」
「かもしれませんね」
翼は何気なく、くすりと笑った。この田沼支配人にしても、自分にこんなことを話す義務も義理もないはずなのである。にも関わらず彼がこんな話をしているのは、田沼支配人にしてからが、今日あった出来事を自分ひとりの胸に収めきれなかったからに違いない。
「それで、ですね。彼女はジャーナリストとしてだけじゃなく、音楽評論家としてもなかなかに名を知られてる方なんだそうですよ」
「ほう?」
「何冊か、クラシックに関する本も出版されてる方らしいです。つまりそのう……どうもこう、自殺するような方に思えないんですよ。亡くなった時の顔と生きておられた時の顔がまるで別人に思えたので、私にも最初わからなかったんですが――あとになってから私も色々思いだしましてね。彼女、何かと注文の多いお客さんで、水道の水の出が悪いとか、従業員の接客態度がなってないとか、私もフロントのところで随分お叱りを受けました。あのあと、黒部部長と彼女の部屋だった1527号室を見にいったんですが、当ホテルについて、悪いところが箇条書きされたメモが見つかりまして……そんな人が果たして、自殺なんてするものでしょうか?」
「でも、検屍結果で不審なところがなければ、自殺に落ち着くだろうみたいなことを、青木巡査がおっしゃってた気がしますが」
「そこですよ、そこ!ああまったく、困ったことになったもんです。私も立場上、事が穏便に済んでくれることを願ってはいますが――これでもし彼女が自殺ってことでこの件が終わったら、あとあと、自分は人間として正しい判断をしたのかどうかと、悩みそうな気がしましてね。時に結城先生はこの件、どのようにお考えですか?」
翼は浴衣の袖から片手をだすと、口許の笑いを手のひらで覆い隠した。おそらくこの田沼支配人は、あまりにもいい人でマジメすぎたがために――本当の毛髪のほうがすっかり薄くなってしまったのだろう。
(やれやれ。人間というのもまだまだ、捨てたものではないな)
「そうですね。俺としてはやはり、この件は警察に任せるのが一番とは思いますが、それでも鬱病の線が消えた今、彼女が誰かから恨みを買っていなかったかとか、あるいは金に困っていなかったかどうかが、個人的には気になりますね」
「ええ?それはまた何故ですか?」
「安手の二時間ドラマなんかによくあるでしょう?フリーのジャーナリストが誰かを脅して金を巻き上げようとするものの、いざ金を貰うという段になって、グサリと刺されるなんていう話が。まあ、なんともありがちな話ですがね、金が原因でないとすれば、痴情のもつれとか……検屍結果で何か新しい情報が得られたとすれば、もう少し絞りこめると思うんですが」
「はあ……」
(まるで大した情報を得られなかった)とでも言いたげに、田沼支配人はがっくりと肩を落としている。
一方の翼はといえば、浮き浮き気分で「ミッシーまんじゅう」と「ミッシークッキー」を売店で買い、スキップしながらエレベーターに続く通路を歩いていった。
三基あるエレベーターのうちの、真ん中のエレベーターに乗り、翼は一瞬十五階で下りるべきかどうかと思案する。首藤朱鷺子の部屋だった1527号室の隣は、水上ゆう子とミオンという女性の部屋に当たるのだ。このことが果たして、偶然の一致なものだろうか?
(首藤朱鷺子はひとりでやって来たらしいのに、ダブルの部屋をとったんだろうか?でもまあ、色々うるさい女性だったようだから、シングルのような狭い部屋は嫌だとか、何か拘りがあったのかもしれない。それとも、誰か他にそこへ泊まる予定の人間でもいたのだろうか?)
結局翼は、十五階では降りなかった。水上ゆう子かミオンという名の女性がもし何か見ていたとしたら――ミオンという女のほうはおそらく、警察に話すべきことを話そうとするだろう。だが、水上ゆう子のほうは<それが金になる>とわかった途端、どう出るか……。
おそらく、今1526号室を訪ねたとすれば、翼が「何か見なかったか」と聞いたところで、水上ゆう子は自分が彼女を抱きに来たとしか思わないだろうと翼は思った。
実際、彼女がバスローブ姿で胸の谷間をちらつかせたような場合、自分にしても首藤朱鷺子のことなぞ一時的にどうでもよくなる可能性が高いために――翼はまっすぐ二十階の自分の部屋へ戻ることにしたのである。
金や黒の糸で刺繍の施された、赤地の絨毯の上を歩きながら、翼はふと、開きっぱなしの2003号室の中へ入ってみることにする。明かりをつけなくても、廊下と外部からの照明で、物の輪郭は大体のところはっきりとわかった。
翼がこの部屋の中にあるもののことで知りたかったのは、何より、暖炉の上にどのような絵が飾られているかということであった。この部屋にもまたゴルフ場のコースの情景が描かれていたのだとすれば、翼にとっては悲しいことである。だが、彼の予想を裏切って、そこには春の桜と黄色いアブラナ畑が描かれていた。
「へえ……」
翼がその絵をもっとよく見たいと思い、壁の電灯のスイッチに手を伸ばそうとした瞬間のことだった。エレベーターのほうから人のやってくる気配がし、彼は特に深い意味もなく、そこでじっと身を潜めることになる。
世界的指揮者、西園寺圭とその奥方が、時々何か話しているような気配であれば、これまで翼と要は寝室越しに何度か耳にしていたのだが――建物の構造上、ふたりの寝室の向こう側は、どうやら飾り暖炉なのではないかと思われる――残念ながら、当人たちの姿を拝見するに至ったことは、まだ一度もない。
(まあ、今は西園寺圭はコンサートホールのほうにいってるはずだし、もしいるとすれば、元ミスユニバースの奥方のほうだよな)
「あら、ルカ。そんなところに突っ立ってないで、早くお入りなさいな。食事の用意が出来ていてよ」
「よろしいのですか。ご主人は今日の夕方は、どのプログラムにも名前が載っていませんでした。つまり、お戻りになる可能性もあるのでは……」
「ほほほ。つまらない心配などする必要はないのよ。あなたも知ってのとおり、あの人は非常にライバル心の強いひとですからね。自分の先輩格の指揮者にしろ、それが後輩であるにしろ、自分の演奏より好評を博しないかと、そんなことが気になる人なのよ。あるいは自分の愛弟子の出るプログラムなんかがあって、それを客席から見てるでしょうよ」
ルカ、と呼ばれた長身の黒髪の青年は、美しい奥方に手を引かれ、家庭的な料理の匂いのする、部屋の奥のほうへ消えていった。
(なるほどな。百聞は一見に如かずっていうのは、こういうことを言うのかもしれん)
といっても、翼の立ち位置からでは、昔のファッション雑誌やあるいは週刊誌で写真を見たことのある、西園寺紗江子当人の姿は見えなかった。ただ、ドアを開けた瞬間に、家庭料理特有の匂いが流れてきて、翼は彼女がルームサービスを頼んだのではなく、備えつけのキッチンで手ずから料理をしたことがわかった。
西園寺紗江子というのは、顔の表情をあまり変えない氷の美貌を持つ女性で(無論、それであればこそ彼女はパリコレで成功したのだろうが)、話し方もどこか冷たいことから、息子の麻薬騒ぎがあった時には、ひどく私生活を貶められたものだった。
(けどあの、どこかあったかい匂いは……男ならちょっと心を揺さぶられるな。まあこれもただの憶測の域を出んことだが、彼女はたぶん<結婚>といったものに大きな夢を持っていたに違いない。だが、夫は指揮者として世界中を飛びまわり、なかなか家に帰って来ない。しかも絶えず女の影のあることを、女性特有の勘という奴で感じ続けるような生活だったんだろう。まあ俺も、週刊誌の書き立てた記事すべてを鵜呑みにするわけじゃないが、なんとなくそんな気がするな)
クリスタルの細長いキーホルダーのついた鍵で、翼は部屋のドアを開けると、ラタンの安楽椅子に深々と腰掛け、これまでに自分の得た情報のすべてを、頭の中で整理しようとする。
(ここでひとつ、よくある二時間のサスペンス・ドラマのような、仮説を立ててみることにしよう。俺と要がここ、<南沢湖クリスタルパレス>に到着した翌日、あの奥方は誰かに脅されていたようだった。その時はさして気に留めなかったが、『そんなネタで脅そうったって、今更……』といったようなことを彼女は口にしていた。もし西園寺紗江子が首藤朱鷺子に脅されていたとしたらどうだろう?あの奥方は、自分の手で直接フリーのジャーナリストを殺すような危険は犯すまい。となれば、あの愛人らしきルカという男が、首藤朱鷺子の息の根を止めようとしたんじゃないのか?)
あまりに短絡的すぎる、と翼は自分の考えを否定しようとしたが、ドラマではなく現実として物事を推理・判断する場合には、常に真実は陳腐なものであるということを、彼はよく知っていた。
ゆえに、田沼支配人ががっかりするだろうことを承知の上で、先ほど一階ロビーの片隅で、「金の問題か痴情のもつれ……」といったことを口にしたのである。
(なんにしても、この仮説でいくと、まずはあの男が何号室に宿泊する、何をしている男かということが問題になってくるな。西園寺氏はおそらく夜中のお戻りだろうが、それでもふたりの会話に耳をそばだてて、彼が帰りそうな気配を感じたら――ルカという男のあとをつけてみるというのはどうだろう?)
翼は寝室へ行くと、そこの枕を片付けて、壁に耳をぴったりとくっけてみることにした。一組の男女が、何か話しているらしい気配は感じるものの、残念ながら会話の内容までは聞き取れない。
「こういう古典的な方法は嫌なんだがな」
そこで翼は、キッチンの戸棚から紙コップを取りだし、それを壁に当て、さらに耳をくっつけるという手法を試してみた。
そして彼が、(おお、素晴らしい!!若干ではあるが、感度が上がった気がするぞ)などと思っていた時――要が帰ってきたのだった。
「何やってんだよ、おまえ」
寝室の薄暗がりの中で浴衣を乱しながら、壁の紙コップに耳をつけ、隣室の様子を伺う男……客観的に見た場合、翼はおそらく誰の目から見ても、性犯罪者にしか見えなかったに違いない。
「いや、なんでもないよ。今隣じゃスパゲッティやらラザニアなんかを食事中なのかなって妄想して、ハァハァしてただけ」
「やれやれ。おまえがそんなことをすることになった事の顛末を、是非とも聞かせてもらいたいもんだね」
よっと!とばかり、勢いよくベッドから飛び出、翼はその段になって初めて、ようやく驚いた。さっきは薄暗がりから友の姿を見たせいで、要が顔に怪我をしていること、アルマーニのスーツが泥で汚れていることには、まるで気づかなかったのである。
「要、おまえこそどうした?まさか、泥沼でワニと格闘するか、道端でカンガルーに殴られたってわけでもないんだろう?」
「西園寺圭に殴られたのさ。駐車場でね」
要は緩んだネクタイを外し、ブランド物のカフリンクスを投げ捨てるようにしてクローゼットへ放りこんだ。それから泥で汚れたスーツを脱ぎ捨て、ホテルのクリーニング袋に入れている。
「一体、何が原因でそんなことになった?」
「話すと長いけど……いや、逆か。むしろ短いかな。ここからコンサートホールまでは、歩いて七分くらいのものだろう。けど僕は、翼に雨のことを忠告されてたから、白樺林を歩いていかずに、車でコンサートホールまで行くことにしたんだよ。で、美音さんが第一ヴァイオリンを務める<死と乙女>を聴いた。あの事件がコンサートホールでどんな影響を与えてるかなって思ったけど、およそ無問題だったよ。多くの人間は彼女の転落事件を知らないか、あるいは知っていても、美音さんみたいに「救急車が来て運ばれていったから、助かったのだろう」と思ったらしい。亡くなったということを伝えたら、彼女、ひどくショックを受けてたよ」
「そんで、どーなった?」
親友が、このちょっとした暴力事件を楽しんでいるらしいと知り、要は浴衣を着ながら、ふっと顔の表情が緩むのを感じた。自分のほうの話が終わったら、紙コップで隣室の様子を伺っていた理由について、今度は翼のほうから是非とも説明してもらわねばなるまい。
「そのあと僕は、少しばかり美音さんと話しこんで――彼女のことを車で送っていくということになった。で、助手席のドアを開けて、彼女にそこへ座ってもらおうとしたら……左利きの西園寺氏に、右頬を思いきりぶん殴られ、無様にも泥で汚れた駐車場に転がったというわけだ」
「それにしても、西園寺の奴はなんでまた、そんなことをしたんだ?」
冷蔵庫からアイスペールを取り出すと、トングでグラスに氷を入れ、翼はウィスキーを注いでやった。とどのつまりは、夕方の返礼である。
「さあね……というのはもちろん嘘で、一応心当たりらしきものはあるよ。といっても、それは僕がある程度鋭い感性みたいなものを持ってるから、そう推測するというだけの話で――殴られたのがもし他の男だったら、西園寺氏が何故あんなことをしたのか、まるでわけがわからなかったろう」
「うん。俺もさっぱり、わけわかんねえ」
「つまりさ、彼女は愛人なんだよ。西園寺圭の」
「えーっ!?」
自分でも思った以上に大きな声を発してしまい、翼は指揮棒で合図された時のように、突然ピタリと黙りこんだ。先ほど盗み聴きしていて思ったのだが、あまり大きな声で話すと、話の内容はわからないにせよ、<会話の雰囲気>といったものはある程度伝わるらしいと、わかっていたせいである。
「ふう~ん。あんな初心そうに見える子がねえ。西園寺圭の愛人かあ。息子の麻薬騒ぎで、一時期マスコミに叩かれてた時、色んな噂があったよな、奴さんも。イタリアでオペラ歌手と寝た翌日は、ベルギーで新進気鋭のピアニストと一晩を過ごし……みたいなさ」
「おそらく話は多少誇張されてるだろうけど、それに近いことは実際あったんだろうね、その昔。僕の勘によれば、あのふたりはここ一年くらいの関係とか、そんなふうには見えなかったな。つきあい自体は結構長いんだろう。『西園寺先生、モーツァルトの協奏曲の、ここの解釈がわかりません』とか言って教えてもらってるうちに――初心でなんにもわからない彼女は、彼に言われるがままになった……そんなところかな」
「なるほどねえ。自分にも奥さんや、他に愛人がいたって過去があるにも関わらず、よその男に取られそうっていう段になると、渡したくないっていう奴なのかね」
口内の傷に酒がしみたらしく、要が顔をしかめる姿を見て、翼はまるで他人事であるかのように笑った。この憎らしいくらい容姿の整った男は、およそ親友の自分の前ですら――無様な失態というのをほとんど見せたことがない。そう思うと、翼としては少しばかり何かが愉快だった。
「たぶんね。というか、彼には他の人間であればわからないことがわかったんだよ。僕の気のせいでなければ、彼女は今日、僕のためを思ってというか、それが言い過ぎなら、少なくとも僕のことを意識してヴァイオリンを弾いていた。西園寺圭にはそのことがわかったんだと思う。いつもは、自分が客席の最前列にいる時は――<それ>は彼に向かってすべて捧げられていたんだろうからね。けど、その目に見えない音楽の流れというか、魂の流れみたいなものが、今日に限っては自分に向けられていない。美音さんは、男を嫉妬させようとして何かその種のことを計算して出来る女性じゃないからね。どうやら、自分以外に他に気になる男が出来たらしい……そいつはどこのどいつだと思っていたら、僕だということがわかった。それで殴った。そんなところかな」
「すげえな、要。おまえと西園寺圭って、ニュータイプかエスパーなんじゃねえの?」
「翼、前におまえが言っていたことがあったろう?僕と西園寺圭にはどこか、キャラ的に被ってるところがあると思うって……つまりはそういうことなんだよ。西園寺圭の目から見れば、僕は彼の出来の悪い二世のように見えたかもしれない。ようするに、自分との違いはどこかといえば、西園寺圭本人よりも若いということとか、結婚してないっていうことくらいだろう。そんな男にオリジナルである俺が負けてたまるかとでも思ったんじゃないかな」
「けど、向こうには要が誰かなんて、まだわかってないだろう?」
「不幸なことにね――僕は時司なんていう、珍しい苗字なんだよ。それだけでもう勘の鋭い西園寺氏には、僕が何者であるかがわかったんじゃないかな。社会的地位も金もある、自分より若くて未婚の男……それってたぶん、彼がもう一度手に入れたいものなんじゃないかと思う。翼、僕、珍しくもちょっと燃えてきたよ」
隣に座る親友が、不敵な笑みを浮かべる姿を見て、翼もつられるようににやっと笑った。要が対等にやりあえる男など、この世にそうはいないと翼は思っているが、どうやら珍しくもその好敵手となる男が現れたらしい。
「まあ、奴さんにはまだ、社会的地位と金はあるだろ。ある意味ではおまえ以上にさ。名声のほうは一度ズタボロになったとはいえ、それと音楽っていうか、芸術ってのはまた別の話だからな。つくづく思うけど、俺らの友情が長く続いてるのって、互いに女の趣味が被ってないからだって気がするよな。要のいい女の基準ってのはあれだろ?魂から音楽が聴こえてくるのがいい女とかいう、極めて曖昧なやつ。ところが俺ときたら、おまえのその音楽とやらがまるで聴こえない女としか、つきあったことなんかないからな」
「翼の場合は、あまりにも趣味が即物的すぎるんだよ。僕もそういうのは嫌いじゃないけど、一過性で終わるような恋ばかりしてたら、いい絵は描けないからね。それより翼、今度はおまえの番だ。なんで紙コップで隣の部屋の様子を盗み聴きなんてしてたんだ?それと、僕がこの部屋を出ていく前に言ってた<検証>ってことについても、是非とも説明してもらいたいもんだね」
「ああ。俺のほうの話はさ、ニュータイプやエスパーが絡んでこないから、極めて単純なんだよ。俺は要がコンサートに出かけたあと、例の死んだ彼女が仰向けに倒れてたのが解せなくて、ホテルのプールの飛び込み台まで行ったんだ。猫じゃないんだからさ、最初は真っ直ぐ飛び下りたのに、途中で一回転して正面見てから死ぬことにした……なんて、出来るわけねえだろ?そんで、まず最初に真っ直ぐ前を見て、「南無三!!」って唱えてからどぼーんと水に飛び込んだんだ。いやまあ、こっちのほうはどうってこともなかったな。「ぼぼぼ、ぼく、怖くなんかないよ、ママ」とかどもりながら、それでも飛び込めるって感じさ。けど、後ろからプールに落ちるのは、マジで怖かったぜ。今度要もやってみろよ。下手なホラー映画なんか見るより、よっほど足が震えるってえか、これがマジな話、こえーのなんの。<検証>なんていう馬鹿らしいことはやめて、部屋に戻ることにしようと思ったくらいだった。ところが、下のほうで何も知らない小学生のガキどもが「あのお兄ちゃん、ビビってる」なんてほざくもんでな。「馬鹿を抜かせ!」と思って飛び込んだわけだ。いやあ、死ぬことはないとわかってても、死ぬかと思ったぜ。それで俺、この時確信したわけ。もし俺が自殺するにしても、背面からは絶対ありえんなって」
「普通に考えたって、誰でもそうだろうよ」
要はおかしくてしょうがないといったように笑いながら、そう合いの手を入れた。傷口に酒がしみるので、右側の頬をすぼめ、口内の左側に液体を流すよう意識する。
「まあ、そう言うなって。で、俺が「ありえん、ありえん。アリエナイザー!!」とか思って一階のロビーを歩いていくと、ヅラの支配人が髪を乱して近寄ってきてな。死んだ女性が誰だかわかったと言うんだ。1527号室の首藤朱鷺子って女で、フリーのジャーナリストだったらしい。で、支配人の話じゃ、水道の出が悪いだの、従業員の接客態度がなってないだの、何故おまえはヅラなんだだの、色々口うるさい客だったって話なんだ。あのあと、黒部巡査と1527号室を訪れたら、ホテルの悪い点を箇条書きにしたメモが見つかったってことだから、そんな女性が自殺するか?Not,ありえへん!!ってことで、ヅラの支配人と俺の意見は一致したってわけ」
「1527号室……ミオンさんと水上ゆう子の部屋の隣じゃないか。それに、首藤朱鷺子って、聞いたことがある気がする」
要は、うっかりまた酒を傷口に染み込ませてしまい、歯痛に悩む患者のような顔つきをしながら、書斎机の上にある、ノートパソコンの前までいった。回線を繋ぎ、検索ワードとして<首藤朱鷺子>と入れる。
「流石にウィキペディアに名前はないか。けど、アマゾンで彼女の本を検索すると、結構出てくるな。『クラシックはお好き?』、『クラシック・あ・ら・かると』、『クラシックといい男は生が一番!!』……そういえば僕、彼女の本は読んだことないけど、音楽誌にのってる彼女の評論は読んだことがあると思う。彼女の著作ってのは題名から察するに、クラシック初心者に向けてわかりやすく解説したような本なんだろうけど――音楽誌にのってる評論のほうはね、すごく専門的でかなりのところ辛口なんだ」
「へえ……そういえば首藤朱鷺子は、その昔東京オーケストラの楽団員だったって、ヅラの支配人が言ってた気がする。そこを辞めたのちに、音楽評論家っていうか、フリーのジャーナリストになったらしい」
「翼、おまえ、今僕とまったく同じこと考えてるだろ」
寝室にある書斎机の後ろから、ノートパソコンの画面に見入る友人を振り返り、要は再び、不敵に笑った。
「僕たちがここ、<南沢湖クリスタルパレス>にやって来た翌日――西園寺氏の細君は、何者かに電話で脅されていた。ホテルの内線でそんな話はしないだろうから、首藤朱鷺子の携帯電話の履歴を見れば、そのあたりのことははっきりするんじゃないか?」
「ははっ。さっすが、要。我が友よ!!って感じ」
要の後ろからマウスを操作し、翼はネット上で読める首藤朱鷺子の本をすべてダウンロードしはじめる。
「翼、まさかとは思うけどおまえ、彼女の本、全部読むつもりか?」
「いや、つまんなかったら二~三冊読んで終わるかもしれん。けど、彼女の本は多くがクラシック初心者向けみたいだから――これぞまさに今の俺にうってつけじゃん。死人に口なしって言うからな。少なくとも彼女の本を通して、首藤朱鷺子の人間性ってもんには軽く触れておく必要がある気がする。偶然とはいえ、彼女の死に関わって、その本当の死因を究明したいと思う者にとってはね」
「わかったよ。そういうことなら、僕も協力する」
要はそう言って居間のほうへ戻り、クローゼットにしまったボストンバッグの中から、タブレット型の端末を取り出している。
「クラシック初心者向けの本の他に、中~上級者に向けた本も何冊かあるみたいだから、そっちのほうは僕が読むよ。あと、おまえが隣の部屋の様子を窺ってた理由だけど……」
と、要がそこまで聞きかけた時、突然バタンと、隣の部屋のドアが閉まる音がした。翼はダウンロード中のファイルを放置したまま、素早く居間のほうへ飛んでいき、追いかけてきた要に「しっ!」と人差し指を立てた。時計の針を見ながら頃合を計り、やがて部屋の外へ飛び出す。
流石にすぐ廊下に出たのでは、不自然すぎる――が、この二十階にはエレベーターがなかなかやって来ないのが幸いした。翼は何食わぬ顔をして長身で肩のがっしりした黒髪の男に近づくと、イライラした振りをしはじめる。
「まったく、ここのエレベーターはなかなかやって来た試しがない。時々、階段でそのまま一階まで下りていこうかと思うほどですよ」
すると相手の男は、翼のユーモアを解するように、優しく微笑んでいた。
「素晴らしいヤマト魂というか、サムライ根性ですね」
そこで翼は、男の顔をあらためてまじまじと見上げた。後ろから見た時には、あの美貌の奥方の愛人だから、よほどの美男子なのかと思いきや――彼はどこかアンバランスな顔の持ち主だった。太い眉の下の瞳は黒く、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしているものの、どこか国籍不明で、ちぐはぐな印象を見る者に与えるとでも言ったらいいだろうか。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、以前どこかでお会いしたような気がしたもので……」
「よくそう言われます」
――もしこの場に要がいたとしたら、今の翼の言葉が、いかに間抜けなものであったかがわかったに違いない。なんにしても、ルカという男が<15>の四角いボタンを押すと、「何階ですか?」と口を開きかけた彼を制して、翼はダッシュで<16>のボタンを押していた。
流石に同じ階で下りたのでは、不自然すぎるだろう。その点、十六階で下りておけば、すぐに階段で一階分下りていけばいいだけの話である。
翼は軽く会釈して十六階で下りると、エレベーターのドアが閉まると同時、階段まで全速力で走っていった。とはいえ、右と左に棟が別れているため、そのどちら側にルカという男が泊まっているのかがわからない。ついでに、ここで相手に顔を見られるわけにもいかないゆえに、翼は首藤朱鷺子のいた部屋、1527号室の見える廊下のほうを、姿を隠して見張ることにしたのである。
(おお、なんかキターーーッ!!)
なんていうことを思いつつ、翼はルカという男が消えた部屋の前まで、速攻飛んでいった。
(1529号室……よし、イチゴと肉はどっちが好き?っていうふうに覚えておこう)
翼はここまでの確認作業を終えると、スキップしながら三つあるエレベーターのうち一基に乗り、二十階にある自分の部屋まで戻っていった。
そしてそこで、要に向け、西園寺紗江子の愛人が首藤朱鷺子殺しの犯人に違いないという大風呂敷を広げてみせたのである。
「いやあ、あの面構えはまさに、THE殺し屋って感じだったね。ゲジ眉の下で、死んだ魚のような目が光っててさ。ただ、なんかちょっとおかしいんだよなあ。俺がここのエレベーターはなかなかやって来ないから、そのまま階段で一階に下りようと思うことがあるって言ったら、「素晴らしいヤマト魂、サムライ根性ですね」なんて言うんだ。ありゃたぶん、世界を股にかける、相当やり手の殺し屋かなんかだね。生まれも育ちも日本じゃなくってさ――アメリカのスラムで育って、汚い仕事しか就職先がなくて、最後に殺し屋にまでなっちまって……ある程度金が貯まった時に、自分のルーツである日本までやって来たんじゃないかな。「Oh,フジヤマ、ゲイシャ、ニッポンの伝統スバラシイね~!!」みたいな」
「あのさ、翼。僕も最初のうちはおまえの話、結構真面目に聞いてたんだけど……今の話でふと思ったよ。僕の考えじゃ、そのルカって男は殺し屋じゃなくて、西園寺夫人が少しばかり金を貢いでるホストか何かなんじゃないかって気がしてた。で、そういう利害関係から「やっておしまい」みたいなことになったのかなって……でも、そのルカって男、こういう顔してなかったか?」
そう言って要は、ベッドサイドから書斎の椅子に座る翼の元までいき、タブレットの拡大画面を見せた。
「あーっ!!なんで知ってんだよ、要!!こいつだよ、こいつ!!俺がさっき一緒に<クリスタル・シャングリラ>に乗ってたのは!!」
(やっぱりな)というように、要は深い溜息を着いている。
「本名、ルカ・ドナウティ・ミサワ。父親が日本人、母親がイタリア人の、有名なピアニストだよ。確か、五年くらい前だったかな。ショパン・コンクールで入賞して、半分日本人だから、日本でも結構話題になってたはずだよ。まあ、クラシックにまるで興味のない人間にとっては、右の耳から左に抜けてくような情報かもしれないけどね」
「そっか。なんか俺、今すごい探偵気取りで、これで事件は解決したー!!ってくらいに思ってたのにな。同じ十五階の、首藤朱鷺子の隣の隣の部屋に泊まってるだなんて、出来すぎって気がしたしさ」
「翼が興奮する気持ちは、僕にもわかる。けど、少し冷静になればわかるはずだよ。もしそういう殺害目的ありきで宿泊したんなら――ターゲットと同じ階の、それも一部屋あけただけの部屋になんて、泊まるはずがない。なんにしても、ルカ犯行説はこれで消えたも同然だな。仮にもしいくら彼が西園寺紗江子を愛していたにしても、社会的地位やピアノに対する情熱を投げうってまで、人殺しなんてするはずがない」
「だよなあ。それじゃあ、さんざんっぱら犯人が誰かわかんなかった揚げ句、主治医が安楽死させたっていう推理小説みたいだし」
「なんにしても、僕たちもここで初心に立ち戻ったほうがいいのかもしれない。そもそも僕らはここへ、休暇を楽しみに来たのであって、殺人犯探しをしに来たわけじゃないんだし……まあ、どっかの誰かさんはアドレナリン中毒患者だから、退屈の虫が疼くあまり、今のこの状況を楽しんでるんじゃないかって気はするけど」
「うん、当たり」
翼は居間の壁にかけてあったダーツ板を、寝室の壁に設置し、そこに向けて憂さでも晴らすように、矢を投げはじめる。
「事件に直接関係はないかもしれないけど」
と、自分の推理が外れてがっかりしている親友を慰めるように、要が続けた。
「翼が下手な探偵よろしく、尾行してる間にさ、僕も首藤朱鷺子の書いた文章の中に、少し気になる段落を見つけたんだ。これは彼女が女性向けファッション雑誌に連載してた、エッセイなんだけど――」
「おまえ、俺にはわかんないような小難しい本のほうを担当するんじゃなかったっけ?」
「いや、そう思ったんだけど、先に本の目次だけチェックしてて、気になる項目があったんだ。彼女が東京オーケストラでヴァイオリニストをしてた頃の話がいくつか書かれてて……>>百人以上も団員がいたら、それなりに人間関係も色々ありますよって書いてる箇所がある。それから、自分もそれで辞めたってことを匂わせてるんだけど、残念ながら肝心な理由のほうについては書かれていない。本の巻末にのってる著者プロフィールの生年月日によると、首藤朱鷺子は三十七歳だったらしい。で、東京オーケストラを辞めたのが今から約十年前の二十七歳頃。西園寺圭が東京オーケストラで、首席指揮者の地位に就いた頃と合致する。よく考えたら僕たちは「昔、そんなこともあったっけ」くらいに思ってるけど――西園寺夫妻の息子が麻薬で逮捕されてから、まだ五、六年しか経ってないんだよな。そこで僕が立てた推理は、こうだった。首藤朱鷺子は、東京オーケストラを辞めてフリーのジャーナリストになった。でも、彼女の著作のタイトルや、目次なんかを見ていて思うに――こういう仕事で得ていた首藤朱鷺子の収入っていうのは、そう大したものじゃなかったんじゃないだろうか。クラシックに関する音楽ネタなんて、五年も本にしてれば、そのうち書くことがなくなる。で、彼女はあくまで匿名っていうことを条件に、週刊誌に西園寺圭に纏わる色々な話を売ったんじゃないか?もともと、西園寺夫妻の息子が麻薬で捕まったっていうこと自体は、それほど大きな事件じゃなかったんだよ。西園寺圭自身もおそらく、そうした火消しに相当金を使ったんじゃないかって思うしね――でも、その小さな火を大きくしたのが首藤朱鷺子だった。僕が想像するにはね、首藤朱鷺子っていう人は、有名音楽大を出ているだけあって、なかなかプライドの高い女性だったんじゃないかと思う。けど、指揮者の西園寺圭って男は、スパルタで有名な男だよ。ベテランのコンマスに対しても、歯に衣着せぬ物言いで、大恥かかせるっていう話だ。もっとも、最近では大分人間が丸くなったって噂だけどね……なんにしても、僕もテレビのドキュメンタリーで、西園寺圭がひとりの団員を集中攻撃してるのを見たことがある。「おまえの代わりなぞ、いくらでもいるんだぞ!」とか、「その程度の演奏で、自分を一流だなどと思うな!」だの、まあ凄かったね。一度なんか、指揮棒を床に叩きつけて出ていったり――テレビ向けのパフォーマンスなのかと思いきや、「彼はいつもああだ」って、顔色の悪いコンマスが首を横に振ってたりとか。たぶん、首藤朱鷺子は何か、ヴァイオリニストとして侮辱的なことを西園寺圭に言われたんじゃないだろうか。もちろん、それが彼女が東京オーケストラを辞めた直接の原因ではなかったにしても……マスコミに彼のことをすっぱ抜くことに対し、首藤朱鷺子が良心をまったく痛めなかった理由くらいにはなる」
「う~ん、流石だな、要ってば。俺の早トチリ大推理とは違って、すげえ重みと説得力がある」
翼は要の話を聞きながら、ダーツの矢を十数本放っていたが――そのうちの何本かは、的を外れて枕のまわりに散らばっていた。
「でも、あくまでもこんなのはただの憶測だよ。証拠となるようなものは何もない」
「俺さ、今の翼の話を聞いてて思ったんだけど、もしかして……」
ストッと的の中央付近に、赤い羽を付けた矢が止まった瞬間のことだった。先ほどルカ・ドナウティ・ミサワが出ていった時とは比にならくらいの大きさで、バタン!!とドアの閉まる音が聞こえる。
西園寺紗江子が部屋から出ていったのではなく、指揮者の西園寺圭その人が帰ってきたに違いなかった。
翼と要は互いに顔を見合わせると、大人に就寝時刻を注意された子供よろしく、パッとそれぞれのベッドへ潜りこんでいる。
だが、男の声が何かを怒鳴り散らし、夫人も負けずに金切り声に似た声を発している以外は――残念ながら、会話のほうで聞き取れる言葉はないに等しかった。
そして、暫くして要がポツリとこう言った。
「僕、なんで翼が紙コップ持って壁に当ててたのか、今すごくわかった気がするよ」
「だろだろ?けどさあ、何をあんなに熱心に怒鳴りあってるんだろうな。お互い愛人がいて、それでも世間的メンツみたいなものを保つために、合意の上で別れずにいるわけだろ?だったらもう、寝室も全然別にしちゃって、たまに顔を合わせた時くらい仲良くしよう……なんてふうにはならないもんなのかね」
「ならないだろうね」と、要はくすりと笑って言った。「夫婦なんてそんなものだよ。本当にそこまで割り切れたら、むしろその時にこそ離婚してるって。西園寺氏は怒鳴り散らして、プライドの高い夫人を言うなりにさせたいというくらいには情が残っており、夫人もまた同程度か同程度以上に、夫に対して未練があるんだろうな。この激しい喧嘩の言い合いから察するに、そんな気がする」
「ま、怒鳴りあってるのはわかるのに、会話がまるで聞き取れないっていうのが、なんとも残念だがね。もしかして、このふたりの喧嘩の原因って、おまえなんじゃないのか、要」
「なんで僕が関係あるんだよ」
「だからさ、ミオンって子をおまえに取られそうだから、離婚しようって西園寺圭が夫人に言い出して……」
「流石にこの短時間で、それはありえないだろ」
ここで、再びバタン!!と舞台の効果のような、恐ろしい音をさせてドアが閉まった。出ていったのは、西園寺圭か、それとも夫人のほうか――そう翼と要が耳を済ませていると、やがて女のすすり泣く声が聴こえ、夫人がひとり部屋に取り残されたことがわかった。
「なんにしても、素晴らしいVIPルームでござるな、我が友よ」
「まったく同感だね――ホテルの案内に挟まってたアンケートに、こう書いておかないと。当ホテルの一番良かった点、寝室の壁がとても厚かったこと、みたいにね」
翼と要はゲラゲラ笑いあうと、そのあとはどちらからともなく寝息を立てはじめ、ふたりは翌日の正午を過ぎるまで、ぐっすりと快適な睡眠を脳と体に補給したのだった。
>>続く……。