第6章
「おい、翼。起きろよ!『幻想交響曲』はもう終わったぞ」
「ん~、あと五分寝かせろや。あと五分……」
(やれやれ。やっぱりこうなったか)と思いつつ、要は隣の座席で眠る親友の耳元に、こう囁くことにした。
「結城先生、あと五分で神経性脳炎の患者が到着するぞ。繰り返す。神経性脳炎の患者が、五分後に到着予定……」
悲しき職業病と言うべきなのか、<神経性脳炎>などという適当な病名のためにでも、翼は突然ハッとしたように、意識を覚醒していた。
「要、おまえ……!!」
担がれた、と気づくと同時に、翼は身を起こした反動で、要に殴りかかる振りをした。と、そこへ、ダークスーツを着こなした品のある中年男が通りかかり、時司画伯に挨拶の握手を求めたのである。
「いやいや、これは時司先生。当ホールの中央ロビーに飾ってある先生の絵は、すでにご覧になられましたかな」
「ええ、もちろん。素晴らしい額装で、まったく感動しました。絵のほうでも幸せでしょう。あれだけ多くの方の目に触れられ、時には足を留めて長く眺める方もおられる様子でしたから……僕としては、養子にだした自分の子供が、幸せに暮らしている姿を見るような、そんな気持ちでした」
「先生にそのように言っていただけると、私どもとしましても、大変ありがたい限りです。時司先生の作品はまさに、当コンサートホールの第二の顔といっても過言でないものですから。といいますのも、ここは美術館ではなく音楽ホールなものですからね、もしこの場所が美術館か博物館であったなら、先生の絵はまさしく第一の顔となっていたに違いありません」
自分の友がコンサートホールの責任者と、そうした退屈な社交辞令的会話を交わす間――翼は頭の後ろで腕を組み、あくびを噛み殺していた。
医師の間でも学会などで、顔見知りの相手に会った時などは、似たような極めて退屈な会話が続くのだが、翼はそうした表面的な社交辞令に我慢がならず、横柄な態度を決めこむのが常だった。先輩医師などからは、多少なりとも出世したいと思うなら、少しはその小生意気な態度をあらためろと言われ続けてきたが、これもやはり性分なのだろう。自分に無関係といっていい他人のそれにすら、軽く嫌悪感を覚えるようでは、おそらく自分は一生出世などとは無縁の境遇に違いないと、翼はあらためてそう思った。
「時司先生、時にそちらの方は……?」
いい席を御用意していただいてどうこうといった会話ののち、村雨史郎館長は翼に話の水を向けた。もしかしたら、自分に関係のある話題を向けられないので、翼がコキコキと首を鳴らしているとでも思ったのかしもれない。
「ああ、彼は友人の医師で、結城翼と言います。つい最近まで、救命救急医をしていたんですよ」
「素晴らしい御友人ですな。類は友を呼ぶと言いますが、まさしく」
(わかったこと言ってんじゃねーよ)と思いながらも、親友の顔を潰さないために、翼はカサカサした老人の手と快く握手することにした。
ぴったりと撫でつけられた白髪混じりの髪からは微かにポマードの匂いが漂い、翼はふと嫌なことを思いだしたように顔をしかめた。彼の父親がよく、櫛にポマードをたっぷりつけて撫でつける姿を思いだしたという、そのせいだったかもしれない。
「我慢してくれて、ありがとう、翼」
「べつに、今くらいのがむしろ、普通じゃねえ?」
再び頭の後ろで腕を組み、大ホールの出口へと階段を下りながら、翼は何気なく言った。
「いや、おまえにしてみたら大した我慢さ。そのお礼と言っちゃなんだけど、午後から野外音楽堂へいくのはよすことにするよ。ホテルの娯楽場でビリヤードをするか、あるいはプールで泳ぐとかして過ごせばいい。それとも翼は、南沢湖で泳いだり、ボートに乗って釣りをするとかしたいって思う?」
「う~ん。そうだな……」
これ以上眠ったら、夜寝れなくて大変なことになるだろう――とすでに予感していた翼は、要の申し出を素直に受け容れることにした。「いや、俺はホテルに戻るけど、おまえは好きな音楽を聴いていけよ」などとは、口が裂けても言いたくない気分だった。
「巨大なミッシー模型の横で、観光客よろしく記念撮影したり、いたいけな魚を疑似餌で釣り上げて、大人げなくも喜んだり……まあ、それも悪くないかもな」
「おまえって、なんでそう素直に『湖で泳ぎたい』とか『釣り堀で魚釣りがしたい』って言えない奴なわけ?」
「これもまたひねくれた性分のなせる技ってところ。それよか俺、一時間も寝てて腹が減った。野外音楽堂のそばにあるレストハウスって、ハンバーガーとかサンドイッチがうまいんだろ?なんにしても、そこでメシ食ってから午後の行動に移るとしようぜ」
翼と要は、その名も<ミッシー食堂>というレストハウスでハンバーガーやポテトを食べ、一度ホテルのほうへ戻ってから、南沢湖で泳げる地点へ赴き、面白半分にミッシー模型の前で記念撮影をした。
南沢湖は周囲が53kmと、なかなかに広い湖であり、一見したところ、海のようにさえ見える。そのせいなのかどうか、<海の家>ならぬ<みずうみの家>と看板の出た喫茶店や、他にミッシーのキーホルダーやミッシーまんじゅうを売る土産物店、あとは焼きそばやお好み焼き、コーラやラムネを売る食堂などが、軒を連ねている。
「音楽祭の最中だから、大して人がいないかと思いきや、結構な満員御礼でないの」
目の上で手のひらをかざし、ビニキ姿のギャルたちを眺めながら、「結構けっこう」と、翼は何度も頷いている。
「あ、あのっ、写真撮ってもらってもいいですか!?」
湖のほとりで戯れる家族の姿には一切目もくれず、翼が水着姿の女性ばかり眺めやっていると、脇でそんな明るい声がした。
見ると、四人組の二十代前半くらいの若い娘が、デジタルカメラを要に手渡しているところだった。
「ハイ、チーズ!!」などと、ベタなかけ声でシャッターを切り終わると、女の子たちは「ありがとうございますっ!!」と、さも嬉しげに去っていった。
「思いきって声をかけてよかったあ」とか、「あの人、超格好いい」だのという声が、そのつもりはないのだろうが、本人の耳にも届くくらいのどでかいボリュームで聞こえてくる。
「モテる男はつらいですな、時司画伯」
「おまえこそ、人のことを言えるか。あっちのビーチパラソルで寝そべる女性を見ろ。どうやら、おまえを御指名らしいぞ」
この程度ではモテた内にも入らないというように、要は表情も変えずに、肩を竦めている。
「ふう~ん。まあ、遠目には結構な美女という気もするが、俺、今回の旅行ではそういうのは全部パス。ゆえに、ちょっくら泳ぎにいってきまーす!!うっきっきー!!」
「やれやれ。野猿同然だな、まったく」
恋愛的なことは全部パスと言った言葉とは裏腹に、ビキニ姿の女性の群れの間を通り抜け、翼はみずうみの中へ突進していった。「流石は元水泳部、インターハイ準優勝」といったことを思いながら、要は砂浜にビーチパラソルを立て、あたたかい砂を背中に感じつつ、読書をすることにした。
ビリヤードや卓球では五分と五分であったとしても、水泳では翼に敵わないと知っている要は、彼と張りあうつもりなど、毛頭ないのであった。それよりも今は、午前中に聴いた『幻想交響曲』が耳を離れないために、曲解説のことがのった本なぞを手にしている。
>>この曲は、ベルリオーズ自身の失恋体験が元となって作曲された曲であると言われている。「病的な感受性と激しい想像力を持った若い音楽家が、恋の悩みによる絶望からアヘンにより服毒自殺を図る。麻薬の量は致死量に至らず、彼は重苦しい眠りの中で奇怪な幻想を見る。彼の感覚や感情や記憶が、彼の病んだ脳の中で音楽的な観念、映像に変えられた。愛する人が一つの旋律となり、それはやがて絶えず彼につきまとう固定観念のように、そこかしこに見出される存在となる」……この音楽家は、阿片がもたらした幻想の中で、自分を裏切り去っていった恋人を殺害し、死刑宣告を受けて断頭台へと引かれていくのであった。さらに、サバトの夜の夢の中ですら、彼はイデー・フィクス(固定観念)に悩まされ続ける。しかしかつて愛したはずの女性は、以前の気品や慎みをすっかり失っているだけでなく、グロテスクな魔女の舞踏の中に加えられ、ともに踊ることを強いられるのであった。こうして<天使>の地位から<娼婦>へと熱愛した女性を貶めることで、この若い音楽家は彼女に復讐を果たしたのかもしれない……。
「超格好いいお兄さん、ちょっとお話などしても構わないかしら?」
要が寝転がったまま、長い足を交差させ、本の内容に没頭していると、頭の上のほうから若い女性の声が降ってきた。要は本能的に、彼女が自分にではなく、湖で水泳中の野猿に用があるらしいと悟り、白いビキニの女性の相手をすることにした。もしこれで自分に用があるということであれば――おそらくそれとなくやんわりと、「その気はない」ということを、彼女のプライドに抵触しない形で、伝えることになったに違いない。
相手の女性の年の頃は二十代後半。要の勘によれば独身で、かなり遊んでいる匂いのするタイプの女性だった。
「あなたって、結城先生のお友達か何か?」
「ええ、まあ。僕ひとりの思いこみでないとすれば、そうでしょうね」
女性はクロエのサングラスを外し、柄で軽く口許を叩くと、少しだけ考えこむような素振りをしてみせた。
「あたし、水上ゆう子って言うんですけど……先生にはたぶん、あたしの名前なんて言っても無駄だわね。クラブで知り合って一晩寝たってだけで、名前のほうはさっぱり覚えてないっていうような相手が、先生にはたくさんいらっしゃるんでしょうから」
(そのとおりなんですよ。まったく困ったもんです)と答えるわけにもいかず、要は「その筋の方でしたか」というように、水上ゆう子には気づかれぬよう、心の中で笑った。
「あたしの友人が、この音楽祭の楽団の一員なんですよ。で、そのツテってわけじゃないんですけど、むしろ義理?何かそんな感じで、クラシックになんてまるで興味もないのに、こんな辺鄙なところへ来ることになって……あの、あたし、こんなことを言うからって、面倒くさい女でも怖い女でもないんです。クラシック音楽に興味のない人間にとっては、この一週間はとにかく暇の連続ですもの。だから、結城先生にちょっとした暇つぶしのお相手をして欲しいっていうだけなんです。そのこと、ご友人のあなたから、お伝えしていただけませんかしら?あたし、<南沢湖クリスタルパレス>の十五階――1526号室にいますから、もしその気があったら内線で連絡してくださるよう、先生におっしゃってくださいな。それじゃあ」
水上ゆう子は、(もしなんだったら、あなたが相手でも構わない)といった含みのある眼差しを要に残し、ビーチパラソルを早々に片付けて、砂浜から去っていった。
彼女のスタイルのいい小麦色に焼けた体を見送りながら、要は「なるほど」と考える。昔から、この種のことは何度となくあった。それが何故なのかというのは要にもよくわからないのだが、要に用のある女性は翼に伝言を残し、また翼に用のある女性は要のほうに伝言を残していくことが多いのである。
そして当の翼本人はといえば、若いふたりの女性に頼まれて、写真を撮っているところだった。その片方の水色の水着の女性が、要のほうを意味ありげにじっと見つめる視線を感じる……だが、ふたりは翼からカメラを返されると、はしゃいだように笑い声をあげ、そのまま立ち去っていった。
「はあ~、スカッとしたな、なんかもう。最初はジョーズの出そうな湖だと思ったけどさ、ミッシーはおろか、ジョーズもカッパもいなさそうだぜ、この南沢湖ってところは」
「流石に湖にサメはいないだろうよ。ミッシーとカッパはUMAだし」
要がクールに親友のことをいなし、再び読書の世界に没頭していると、その本を翼は横から取り上げた。
「おまえもちっとは泳ぐとかなんとかしろよ、要。それとも何か?ここで博学な色男を気取って、かわい子ちゃんが声をかけてくるのを待つっていう寸法なわけか?」
「かわい子ちゃんね。昨今あまり聞かない言葉だけど、聞き流すとしよう。それより翼、さっきの白いビキニの女性から伝言。クラブで知り合って一晩寝ただけの関係だけど、先生は自分の顔なんて覚えていらっしゃらないでしょう。でもそんなこと気にしないから、わたしの部屋で一緒に楽しみませんか……内容はちょっと違うけど、大意としてはそんなことを言ってたと思うぞ、彼女」
「ふう~ん。なんか最初に見た時、どっかで見た子だとは思ったんだよな。けど俺、そういうのは暫くいいよ、マジな話。もっとも、さっきの二人組の女の子とか、要にその気があるんなら、落とせると思うけど……どうする?」
「おまえ、本当にどっか体の具合でも悪いんじゃないのか?」
要は親友を心配するあまり、隣に寝転がる翼の額に手をあて、熱をはかる振りをした。
「よせって、要。素人診断は。こちとら一応医者だぞ?熱があるかどうかくらい、自分でわかるって」
「そうじゃなくてさ。おまえ、女と寝るチャンスがあるのに、それを逃したことって一度もないだろ。俺があの女は面倒だからやめておけって言った時も――むしろそう言えば言うほど意固地になって、「そんなことは寝てから考える」っていうような男が……そういえば翼、もともとなんで緊急救命医をやめた?翼以外の奴がそういう部署をやめたってんなら、僕にも理由なんか聞くまでもなくわかる。けど、おまえは違うだろ?週二回手術して、あとは外来と病棟の回診をこなすっていうような生活は、刺激が足りないから緊急病棟にいるっていう、奇特な奴だもんな、おまえは。でも、流石にそろそろ疲れたのかなって思ってたけど、実はそうじゃなくて、何かきっかけとか原因があったんだろう?違うか?」
「今回は珍しくうっせーのな、要。いつもはさ、俺が話すまでじっと待つって感じで、超然と構えてる男が。まあ、確かにあったよ、きっかけって奴は。けどそれは、普通によく考えられるような理由じゃないわけ。『え?そんな理由で辞めたんスか、あーた』っていうような、まったくクソくだらない理由でね、自分でもまったく嫌になる。よく言うバーンアウトシンドロームとかさ、医療事故があって患者の遺族とモメて……とか、そんな話じゃないわけ。なんにしても、このことはあとで話す。今は泳ぎ疲れたし、こんなつまらん話は、夏の暑い陽射しの下で話すようなことじゃない」
このあと翼は、「あんなものに男ふたりで乗りたくない」と言い張る要のことをなんとか説得し、白鳥型のボートに乗って、湖面へと流れでた。足の下でペダルを漕ぐと、白鳥の黄色いくちばしが進行方向へ向けて進んでいく……といったような、カップル向けの乗り物だった。
「くそ、翼。覚えておけよ。これで貸しひとつだからな。緊急救命医を辞めた理由は、どんなにおまえが話したくなかろうと、あとで絶対聞く。わかったか!?」
若干肌寒い夕暮れの風に吹かれながら、ふたりの男はホテルまで車で戻った。当の翼はといえば、ビーチサンダルの砂を窓の外へ落とし、「まあまあ、そう怒るなって」と、いつもとは逆の立場を楽しんでいるようですらある。
「あれはあれで結構楽しかったろ?湖の中央付近まで漕ぎだした時――突然ペダルを漕いでも漕いでも進行方向を変えられなくなって、ちょっとビビったけどな。けど、キモチ悪かったよな~。あの不気味な水の下の魚ども。何十匹となく群れをなして、口をパクパクさせててさ。まるでエサをくれるのを待つゾンビって感じだった。誰か人を殺したくなったら、そいつを釘バットか何かで殴って、あの白鳥ボートに乗せて湖に突き落とせばいいんじゃねえか?そしたらあの飢えたお魚さんたちが、死体の始末をしてくれるって寸法。なかなかの完全犯罪だと思わん?」
「翼、おまえね」と、要は取りあうのも面倒だというように、深い溜息を着いている。「事はそんなに簡単じゃないよ。まあ仮に、釘バットに指紋を残さないようにして死体と一緒に湖の底へ沈めたとしても――やっぱり何かの拍子に、その死体なり釘バットなりは発見されるだろうよ。大体この南沢湖ってのは、百二十種類くらい魚がいて、ちょっと珍しい生態の植物も生えてるってことで、近くに海洋研究所だか水産研究所だかがあるんだってさ。で、水質調査とかその他色々、定期的にダイバーが潜ったりなんだりしてるらしいよ。彼らに「ミッシーらしき生き物の棲息は確認できたかどうか」って聞いたところ、「見たことはないが、かといってそれがミッシーがいないという証拠にはならない」って話だったけどね」
「ふう~ん。まあ確かにこんだけ広けりゃあ、ダイバーたちがA地点を調査してる間、ミッシーはD地点にいて、ダイバーたちがE地点を調査する時には、ミッシーはB地点にいる……なんていうことが、ありうるんだろうな」
「翼、だんだんおまえも、夢のわかる男になってきたじゃないか」
翼と要は、特にこれといった意味もなく、大声でゲラゲラと笑いあった。そして翼がフェラーリをホテルの駐車場の入口に向け、右折しようとした時のことだった。まるでたった今洗車したばかりといった感じの、白のBMWとすれ違い、ハンドルを握っているのがクロエのサングラスをかけた女であることに、今度は翼当人が気づく。
「あ~、思いだした、思いだした!!名前はわからんが、あの女、前に会った時には髪をブロンドに染めてたんだよ。なんだっけなあ、名前。みな代じゃないし、みか子じゃないし……軽くそれに近い気はするんだが」
「水上ゆう子」
要が正しい回答を告げると、翼は「それだよ、それ!!」などと、いい加減なことを言っている。
「彼女、翼が自分の名前も覚えてないらしいって、気づいてたよ。でも、そんなことは気にしないくらい、心の広い女性らしい。ま、孤独な僕のことなど気にせず、翼がその気になったら、電話してあげたら?<南沢湖クリスタルパレス>の十五階、1526号室に泊まってるらしいから」
「いや、あれは危険な女だから駄目だよ。心してかからないと、むしろこっちのほうが足許を掬われるっていうかね。ゆえに、君子危うきに近寄らずってことにしたほうが無難だな」
「まったく、つくづくおまえらしくもない言い種だな。今までは危険であればこそ、征服しがいがあるとかなんとか、僕に蘊蓄を垂れてなかったっけ?」
「まあねえ。自分にそういう飢えがある時に、ああいういい女が通りかかったら、そりゃ考えるがね。でも俺今、精神的にインポだから」
インポータントなインポなどと呟きながら、車から出、ビーチサンダルを肩につっかけたまま、翼はハイビスカスの花が咲き乱れるホテルの前庭を、口笛を吹きながら横切っていく。
「やれやれ。あんな美女を前にして喰いつこうとしないとは、ますますこれは世の終わりの前兆といった気がしてきたな」
車に電動式ルーフをかけ、鍵をロックすると、要は何気なく湖のほうを振り返った。空には雲ひとつなく、三日月と北極星とが薔薇色ともサフラン色ともつかぬ夕景色を背景に、瞬いている。
この光景を眺めて、「いや、やはり世界は平和か」と思った要にとって――この翌日起きたことは、甚だショッキングな出来事であった。
何故といって、水上ゆう子が友人とともに宿泊している十五階、1527号室の隣の部屋で、自殺とも事故とも殺人ともつかない、転落事件がこの翌日に起きたからである。
>>続く……。