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第5章

「なんだっけ?要、おまえ、つきあいとかなんとかで、それなりにこの音楽祭の公演を見ておく義務があるんだっけ?」


「単に義務ってだけじゃないよ。スウェーデンからは、指揮者のノヴォトリが来てるし、オペラ歌手のユリアナ・マルグレーテの美声も聴きたいし……義務どころか、趣味と実益も兼ねて是非見ておきたいと思ってる。あと、翼が理由もなく毛嫌いしてる、西園寺氏の公演のいくつかもね」


「そっか~。まあ俺、結局のところおまえの横でだらしなく寝ることになりそうだけど、それでいいんならつきあうぜ」


 翼は、早朝の風に吹かれながら、テラスのローンチェアに腰かけ、要が淹れてくれたコーヒーを飲んでいるところであった。


「まあ、無理することはないけど……でも、最低でも一度くらいは聴いておくべきという気はするな。それで心に何も感じるところがなければ、明日以降はずっとここにいればいいさ」


「うーん。ま、俺としてはそれもまた問題だったりしてな。音楽祭で人が出払ったあとのホテルで、ひとり過ごすってのもまた、なんか寂しい気がするし……とりあえずはおまえにつきあうことにするよ、要。そんで、初日の今日はどんな演目があるんだ?」


「午前中は、大コンサートホールで、ベルリオーズの『幻想交響曲』。午後からはソリストの神田美佐恵を迎えて東京オーケストラとメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』。小ホールでは、午前も午後も夕方も、ずっとバッハの室内楽をやってるらしい。あと、野外音楽堂では午後からオペラをやってる。ウェーバーの『魔弾の射手』。さて、翼はどれを聴きたい?」


「あ~、そういうのは全部、翼にまかせるよ。とにかく俺は、ブルックナー以外ならなんでもいい。けど、初日から一週間、ずっとそんな感じで続くのか?俺、てっきり午前・午後・夕方と、それぞれ一曲くらいずつの演目があって――本人にその気さえあれば、全部チケット取って聴けるくらいのもんだと思ってたけど」


「それが違うんだなあ」と、要はコーヒーテーブルを挟んで、翼と同じようにローンチェアに腰かけたまま、カフェラテを飲んで言った。


「そんな程度の規模なら、ここの音楽祭はそんなに話題になったりすることもなかっただろうよ。仮に世界的指揮者と目される、西園寺圭がタクトを取っていたとしてもね。彼が友人の音楽家にも頼んで、年々そうそうたる顔ぶれが揃うようになり、クラシックファンとしてはね、コンサートホールと野外音楽堂の演目、どちらを聴くべきか・見るべきかと非常に頭を悩ませることも珍しくないというわけだ。なんにしても僕は、午前は西園寺圭の振る『幻想交響曲』を聴いて、あとは野外音楽堂の近くにあるレストハウスでサンドイッチなんぞを食べてから、午後は『魔弾の射手』を見ることにするよ」


「つまり、音楽の父、バッハ大先生のことは一切ないがしろにするということですな」


 翼は、要がテーブルに置いた音楽祭のパンフレットを手にとり、そこに並ぶバッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』、『無伴奏チェロ組曲』、『無伴奏フルートソナタ』といった曲目に一通り目を通してみた。どの曲についても、翼が頭の中に思い浮かべられるものはひとつとしてない。


「いや、そういうわけじゃないけどね、単に優先順位の問題としてそうだというだけの話だよ。これは楽聖バッハがベルリオーズやウェーバーに劣っているとか、そういう問題ではまったくないから」


 ――<南沢湖クリスタルパレス>の、一応はVIPルームと称されるらしい、2002号室に宿泊しているふたりの男は、ルームサービスで軽く朝食を済ませたのち、ポロシャツにチノパン、あるいはジーンズといったような軽装で、サングラスを片手に部屋を出た。


 偶然、2001号室にドアストッパーがかけられており、その細い隙間から、女性が携帯電話で話しているらしい会話が聞こえる。


「あら、そんな昔のこと、今さらなんだっていうのよ。わたしと主人はそのことでは、もう十分にマスコミに叩かれ尽くされてますわ……そんなつまらないネタで脅そうったって、そうはいかないことよ」


 翼も要も、当然聞こうと思って、そんな言葉を耳にしたわけではなかった。とはいえ、互いにその細いドアの隙間を通りすぎる一瞬、何か聞こえてこないかと、全身を耳のようにしていたことも事実であり――ふたりは湖面を見下ろすエレベーターがやってくる間、しばし無言だった。


 だが、昨日要が指摘していたとおり、この二十階にまでエレベーターがやってくるには、ちょっとした時間を要した。そこで翼は我慢しきれず、小声で自分の悪友にこう耳打ちしていた。


「さっきのあれ、どう思う?」


「さてね」と、要は軽く肩を竦めている。「もしかしたら、何かの件で西園寺夫人は脅されてるのかもな。でも、息子の麻薬ネタで今さら脅したところで……まあ、今の西園寺夫妻にとっては痛くも痒くもないっていう、そういうことなんじゃないか?」


「ふう~ん。なーるほどね」


 翼はどこか興味深げに、背後の2001号室及び2003号室のほうを振り返った。2003号室のほうは、誰も宿泊客がいないらしく、ドアが開きっぱなしになっている。そこから室内のほうを眺めて思うに、自分たちの部屋と間取りは大体のところ一緒らしい。


 それにしても夫人は、何ゆえにわざわざドアストッパーをかけて、あんな会話をしていたのだろうか?翼はなかなかエレベーターがやって来ないのでイライラしはじめながら、ついには「クソッ!!」とドラセナの鉢の横の壁を蹴っていた。


「このエレベーター、どっかおかしいんじゃねえのか!?普通は十七階まで上がってきたら、十五階までまた下がるだなんて、絶対ありえねえ。俺がミシュランガイドのインスペクターなら、この建物の設計者の首を今すぐ締めてやるところだ」


「まあまあ、落ち着けって」


 要は気の短い友の扱いに慣れていた――というよりも、長けていた。そこで、廊下の突き当たりに三基並ぶ、極めて実務的な役割を果たすエレベーターのほうへ、翼を誘導することになる。


 なんにしても、もしかしたらこの時ふたりは気長に、<南沢湖クリスタルパレス>の象徴ともいえる中央エレベーター、「クリスタル・シャングリラ」なる名前のエレベーターを待っているべきだったのかもしれない。


 何故なら、あとほんの一分三十秒ほど待っただけで、西園寺夫人の愛人である男と、すれ違うことが出来たのだから……。




 >>続く……。






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