第4章
<南沢湖クリスタルパレス>は、二十階建ての高層風ホテルで、どこの部屋からも湖の美しい景色が眺められるということが売りの、ここ一帯のホテルとしてはもっとも各の高い一流ホテルとして知られているらしかった。
広いロビーには、ミシュランガイドでふたつ星を獲得したことがさりげなく示されており、その星に恥じないだけの接客態度で翼と要は迎え入れられたといって良かっただろう。
もっとも、ホテル内に三つしかない最上階のVIPルームを予約していた客であれば、自然態度も慇懃になるのが普通であったかもしれないにしても……。
「持つべきものは友っていうのは、こういうことを言うんじゃないかね、要君。いやはや、素晴らしい、素晴らしい。ふっはっはっはっ!!」
翼は窓からバルコニーに出、ふんぞり返るようにしながら、遠くに光り輝く湖面を持つ、湖の景色を眺めやった。
「ふんぞり返るあまり、その反動で下に落ちないよう気をつけろよ。流石のおまえでも、自分で自分の体の手術は出来ないだろ?」
「いや、要君。俺はブラック・ジャックに憧れてはいるが、これはそれ以前の問題だよ。二十階建ての建物の最上階から落ちた日には、大抵の人間は即死だろう。仮に一命を取り留めても植物人間か……なんにせよ、人間ってのは十メートル以上の場所から落下した場合、怪我をするのは免れられん生き物らしいね。言うまでもなく、さらに高さが上がっていくにつれ、怪我の重症度と命を落とす危険度もまた、比例して高くなるというわけだ」
「へいへい。そーですか」
要は見た目に涼しげな、籐のソファにごろりと寝転がると、<南沢湖音楽フェスティバル>と書かれたパンフレットをテーブルから取り、サングラスを外して何気なくそれを読みはじめた。
そして、<南沢湖音楽フェスティバル、総芸術監督>なる肩書きを持つ人物――西園寺圭の「あいさつの言葉」を読むと同時、彼の顔写真を眺めながら、他の人間も翼のようにこの指揮者と自分が似通っていると感じるものだろうかと、ふと考える。
「そういや翼、言い忘れてたけど……この二十階に宿泊してるのは、僕たちだけじゃなく、隣室の2001号室には、おまえがいけ好かないっていう西園寺圭ご夫妻が宿泊してるらしいよ。もし何かの拍子に顔を合わせても、殴りかかったりしないようにしろよな」
「ふうん。俺もよくは知らんが、あの男って今四十七とか言ったっけ?写真で見る限り、三十代半ばくらいにしか見えないけどさ。元ミスユニバースの奥さんとの間に、息子がひとりいるんだろ?前に麻薬で捕まったとかで、一時期マスコミに騒がれてたよな。結局、あの息子ってどーなったんだ?」
「ああ。僕もよくは知らないけどね。少年院を出たあと、親父さんの口利きで、舞台関係の仕事をしてるとかなんとか……そういえば、一時期色々叩かれてたことがあったっけね。西園寺圭は人気指揮者として、一年中世界のあちこちの国に行ってて、家庭にいるのはほんの数えるくらいらしい。で、奥さんのほうはセレブのパーティなんていうのに出席するのに熱心で、ろくに子育てみたいなことはしてなかったとか。まあでも、舞台美術のところに、西園寺翔って名前があるところを見ると――麻薬からは無事立ち直ったんじゃないかな」
「ま、隣の芝生は青いっていうからな。なんにしても、バカンスにやって来た俺たちにゃ関係ねえこった。それより、十六種類あるとかいう風呂にでもいって、ちょっくらさっぱりしてこようぜ。ずっとオープンカーの中で風に吹かれてたら、気のせいか俺のキューティクルな御髪が汚れちまった気がするからな」
「キューティクルな御髪ね。ま、どうでもいいけど」
要は大義そうに起き上がると、音楽祭のパンフレットをテーブルに戻し、クローゼットの中からハンドタオルやバスタオルなどを取り出しはじめる。
「そういえば翼、おまえ確か、自分は絶対これじゃなきゃ駄目とかいう石鹸やシャンプーのある奴だったよな」
「そそ。温泉や銭湯では絶対、共同のものなんか使わないぜ。ついでに、誰が使ったのかもわからん洗面器もNGだから、一揃い全部持ってきてある」
「……おまえって、普段はいつもすごい大雑把なのに、変なところで細かい男だよな」
「なーにを言うか!要こそ、ホテルのロゴ入りタオルがちっとも似合ってないぜ。もっとこう、アメニティはブルガリで統一とか、セレブらしいところを見せろよ。つまんないな」
「あのさ、この<南沢湖クリスタルパレス>って、そもそもそんな大したホテルじゃないって、翼わかってる?つーか、この部屋をVIPルームとか呼んでること自体、僕には信じがたいね」
「そうかあ?」
いそいそと浴衣に着替え、温泉セット一式を手にした翼は、腰に手をあてて室内をぐるりと見回した。湖を見下ろせるテラスには、白木のローンチェアが二脚と、コーヒーテーブルが一つ。居間といっていい自分たちが今いる部屋は、キッチンとカウンター付きで、調理も出来る形になっている。その脇にはワインセラーや冷蔵庫があり、コーヒー豆を挽ける機械も備え付けてあった。奥の寝室もかなり広く、デザイン性もそれほど悪くないように、翼の目には映っていたのだが。
「そうだよ。少なくとも海外のホテルでは、この程度の部屋をVIPルームとは呼ばないと思うね。どこの誰が描いたのかもわからない、無名の画家の絵を飾ったり、見るからに手入れのされてない観葉植物を部屋の隅に置いていたり――まあ、一泊七万程度じゃ、こんなものかとも思うけどね」
「かっ!そうきなすったか。やっぱり庶民とセレブでは、金銭感覚が違うんでございますかね、時司画伯」
「そういうことじゃないよ。少なくとも僕がミシュランガイドのインスペクターなら、この程度のホテルに星は与えない。まあ、従業員の接客態度と、今後どの程度楽しめるかによって、気は変わるかもしれないけどね」
そして、海外では男ふたりがVIPルームに泊まろうとした時点で、十中八九ゲイと間違われる――といったような話を要がすると、エレベーターの中で翼はゲラゲラと大笑いしていた。
「まあ、確かにそうかもな。なんにしても、ここのエレベーターだけはおまえも文句をつけようがないだろ?エレベーターで上がったり下りたりする間、常に綺麗な湖面を眺められるだなんて、素晴らしいじゃないか」
「そうかな。翼、僕たちこの一週間の間、ずっと二十階にいるんだぜ?このエレベーターが二十階に上がってくるまで、どのくらいかかるかわかって言ってる?せっかちなおまえのことだから、一基しかないこのエレベーターより、綺麗な湖は見れなくても、もっとスムーズに上り下りできる他のエレベーターを使うのがオチって気がするけど」
「チェッ。まったく要、おまえときたら注文の多い料理店ならぬ、注文の多いセレブなのな。もしおまえが女で、休暇で来たホテルでそんなことを抜かしやがったら――俺ならまあ、暫く膨れて口を聞かんね。男として」
「いや、だからさ、僕が言ってるのはそういうことじゃないんだって」
浴場のある十階で下り、脱衣室で服を脱ぐ間、要はこの話の続きをした。
「五年もの間、緊急救命医をしてきた友人の労をねぎらうための旅行だってのに――こんなショボいところで悪かったなっていう、これはそういう話」
「ははっ。一泊七万の部屋にただで一週間も泊まれるってのに、誰がそんなことを思うかって。まったく要、おまえっていい奴!!」
広い浴場に入ると、水泳もできる浴槽に、翼は思いきりよく跳びこんだ。まわりにいた子供たちが、水しぶきを浴びて、くすくすと笑いはじめる。
「あのお兄ちゃん、チンポでけえ!!」
要はそんな親友の姿を脇に見ながら、すぐ隣の薬湯へ心を静めて入ることにした。微かにヨモギの匂いのする湯を楽しみ、それから水泳に飽きたらしい翼と、南沢湖を見下ろす大露天風呂へ向かう。
それからもふたりは取り留めもない会話を交わしながら、十六種類ある風呂やサウナなどに入り――すっかり疲れきって元の部屋へ戻った。
夕食のほうは、<蟹ずくしの蟹御膳>という食事で、翼と要は腹がはちきれそうなくらい蟹を食べたあまり、最後には「くるしゅうない、くるしゅうない」などと、意味不明の言葉を口走りながら、互いにベッドの上へごろりと横になっていた。
南沢湖滞在一日目は、大体そのように平和に過ぎ、二日目からは肝心の音楽祭がはじまるのであったが、要はともかくとして、クラシックにもともと興味のない翼は、そちらにはあまり期待してなかったらしい。
が、殺人事件の起きた三日目以降は、翼は自分の体内に救急救命病棟にいる時にも似たアドレナリンが駆け巡るのを感じ――この<南沢湖音楽フェスティバル>だけにではなく、そこに参加している人間すべてに、一方ならぬ興味と好奇心を覚えはじめる、ということになるのであった。
>>続く……。